chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

Thanks for your comment :竹島動画

拙記事、虚構の竹島に下のような動画コメントが送らました。

 chuka123.hatenablog.com

 

https://www.youtube.com/watch?v=lTtFVka6NBs


The reason why "Dokdo is NOT Korea Land"

 

歴史的にはほぼ正確ですが、サンフランシスコ講和条約で竹島は日本に返還された、というのは史実ではない。

動画にラスク文書が登場しているが、これはもちろん当時は非公開。しかし約20年後に公開された米外交文書に含まれていた。竹島はこの動画の通り1905年の国際法・先占に従い日本が取得、戦争中を除き一貫して日本の行政下にあった、という事を口実として米政府は竹島は日本領と認めていた。口実と書いたのは講和条約には竹島は一切言及されていないが、各草案には竹島帰属の項があり、日本領、韓国領と変わっていた。一般的解釈は朝鮮戦争の戦況変化に応じたものというのが有力である。

しかし同じように公開されたダレス長官の電報により、竹島が日本領であるという米政府見解を日本側に通告していないことが実証された。その上、ダレス長官はその事が日本政府にリークしICJに告訴されることを恐れていた。その他の公開文書の中には駐韓外交官の通信があり、駐韓米外交官達は竹島は韓国領だと信じていて、講和条約調印後のダレス通達で初めて竹島が日本領ということを知り驚いた、というのがあった。

竹島自体は講和条約施行まで米軍行政下にあったことは日韓も認めている事だが、米軍はさっと消えてなくなり、その後竹島は力のバキュームとなり、韓国に占拠されて韓国の行政下にある。このように米政府の不可解な見解及び行動から見ても講和条約で日本は竹島を返還されたというのは史実ではない。

しかしICJでは1965年の日韓基本条約の竹島合意が判決の根拠になるであろう。

この条約の内容にも竹島の名は一切出てこない。だから書かれていない事に合意したと主張する場合、契約法の慣例として、日本側の主張である法的現状維持過程を記録した議事録や証人等により実証されることが必要であるが、日本政府は議事録の公開をしていない。

 

 

 

 

 

日韓フリーハグ再び❣

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上は2年前の拙ブログ記事です。この人、またフリーハグズをしてのけました。ロケーションは韓国ソウル。反日大集会の真っただ中で。
 
下は彼のYouTube 動画より。
 

日本教と戦争責任コメント

以下のコメントを‟日本教と戦争責任”に頂きました。
 

人口増加と武器や農具が石器から鉄器に改良されるプロセスで、民族間の戦争が大規模になります。そこで生存するには、民族の英雄の出現とその英雄による統制のとれた戦いが必要だと思います。その後、大きくなった民族を率いるには、複数の指導者による組織が必要になります。それを束ねるのは、民族の決意と知恵の集積である聖典だと思います。一神教の出現は、その時期であり、その民族の初期の英雄が神として聖典に出現します。それは極めて自然なことだと思います。
民族や国家が更に大きくなれば、悲惨な大規模戦争になりますが、それを束ねる聖典も改訂が必要だと思います。民族が国家としての生き残る背景には、そのような聖典の改訂と巨大化があるように思います。日本が巨大化に失敗したのは、そのような歴史を踏まなかったからだと思います。 削除

 
コメント中の聖典とは旧約だと想定して以下を書きました。
BC600代にバビロン捕囚から帰還を許されたユダヤ人集団はそれ以後ペルシア・マケドニア・ローマに支配され続け、反乱を頻繁に起こしたが、支配国交代の短期間を除いてはユダヤ人の独立はなかった。この時期に旧約は編集を終えたと想定されている。もっとも重要なモーセ五書はイラクで編集され、メソポタミア文明からの摂取があると仮定している学者は多い。
ギリシア人による支配でユダヤ人は地中海周辺の交易都市に居住区を形成し、AD一世紀の古代ローマ・ユダヤ戦争で古代ユダヤが消滅する頃には、エジプトのアレキサンドリアに大人口が集中していたことが記録に残されている。今日のキリスト教はギリシア語系ユダヤ人にルーツがあることも歴史的事実。しかしキリスト教国ではユダヤ人は迫害を受けたが、イスラム圏では比較的優遇された。ユダヤ唯一神を真似たイスラムではこの唯一神教が軍事征服を義務ずけた。唯一神の政治的成功はユダヤ教よりイスラムだと言えるのではないだろうか?
 
結論としてはユダヤ人はユダヤ教徒集団として古代から生き残れたのだが、国家としてではない。イスラエルは現代ヘブライ語を作りユダヤ教の教義を共通化することからはじまった、いわば新国家の誕生である。このイスラエルには世界中からユダヤ系が集まったが、政治的に影響力を持っているのは東欧系であると言われている。
 
言及なさった日本の巨大化の失敗についてはリサーチすると面白いのではないかと思います。
 
ユダヤ人のDNA分析による祖先の追求からは、今日のユダヤ人は少数の祖先から出ているという仮説も出ています。その反面、地中海系人口には祖先に低い割合でユダヤ人が含まれている傾向があります。結果はユダヤ人DNAは非ユダヤ系にも広範囲に広がっているという事です。
 
 

小野田コメント

小野田シリーズの記事に下のようなコメントを頂きました。
 
 
 戦後に生まれたもの
小野田さんを擁護するコメントの多さに驚いた一体いくつの年代の人なのか分からないけれど彼らは最後まで戦った横井は逃亡者だとこんな思想がある限り日本は良くならない
彼らは生きるために島民を虐殺した事実は消せません国のために戦ったという考えもおかしいです。人を殺してまで生きるのですかしかも相手は武器を持っていない島民にしたらただの強盗ですそれを英雄扱いする日本人は嫌われても仕方ない長いあいだ中国や韓国など戦争の時の賠償を要求していたのもこの人たちのせい全ての軍人がそんな人ばかりではなかったとは思いますがそういう人たちのせいで武器を持たない赤ん坊や女の人にひどい仕打ちをしていたのだと分かると彼らの怒りは仕方ない
日本人だって言っているじゃないですか北朝鮮の拉致問題彼らは上官命令で仕方なしにやっているそれを英雄扱いされたら被害に遭った国民はどう思いますか仕方ないで済みますか?
 
中野学校でゲリラ訓練を受けた皇軍少尉が戦後30年間戦争を続けた、という小野田伝説は小野田氏が帰国する前に概に作り上げられていた。小野田氏とルパングで30年も運命を共にし死体となって帰国した小塚一等兵のグラビア写真を憶えているだろうか?彼は陸軍兵士の軍帽に軍服で棺の中に静かに横たわっていた。これを目にした人達には紛れもなく30年ぶりの日本兵の帰還と映っただろう。しかし小野田寛朗著の私の30年戦争によると、彼らの軍服一切はジャングルの熱と湿気のせいで2-3年も経たないうちにすべてボロボロになってしまった。だから二人が着ていた日本兵のコスチュームもどきや靴はすべて島民から奪ったものだそうだ。特に軍袴は小野田氏のアイデアで現地人の上着を縫い合わせ改造したと書かれていたと記憶している。
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だから上の写真の小野田氏の軍服は軍帽から靴まで現地人から奪ったもので殺された人所有のものだった可能性もある。
これが小野田・小塚組の‟30年戦争”の現実であった。
1974年当時、小野田氏達が山に30年こもっていたという事は国民に受け入れられた。理由は横井氏のグァムの穴からの帰還である。しかし産経が音頭をとった『30年戦争』については国民のほとんどが眉唾ものだと思っていた。天皇は小野田氏に遭うどころが公式に話題にもしなかった。小野田氏自身も逃げるが如くにブラジルに渡った。だが、産経の意図は政治経済の変転の中で成功を博した。今日では丸坊主頭で日本刀を振りかざしたよど号ハイジャックの赤軍やロッド空港乱射事件の唯一人の生存者岡本公三をサムライの真の子孫として称える日本人は見当たらない。だが、小野田氏だけは最後の日本兵という称号に輝いている。しかも小野田氏は米軍と闘う気など全くなかった。それに最後の帰還兵は小野田氏ではなく台湾出身の中村氏であるにもかかわらず。
私は安倍と取り巻き偽学者達及びネトウヨ・フォロワーズの強い影響下にある今日の政治状況が小野田帰還の歴史事実追求を妨げ、小野田伝説に多数がすがりつく理由だと思っている。
 

逆説の日本教と戦争責任へのコメント

 

 

私の記事のコメントとして、大きな記事を書いていただきありがとうございます。ユダヤ教とキリスト教については、纏まった形で勉強したわけではないので、大変勉強になります。アブラハムが旧約を書いたのなら、創世記からアブラハムの出現までの部分は、神話と記憶にある歴史を加書して旧約聖書が完成したことになります。それは、日本書紀の出来たプロセスに似ています。天武天皇(40代天皇)が大和朝廷の基礎を完成し、そこにアマテラスから始まる神話を付け加えたのが日本書紀です。
さて、山本七平の日本教ですが、これは宗教というより、社会の空気に支配される日本人の様子を比喩的に宗教と呼んだのだと思います。日本人の宗教は汎神論的な神道(多神教ではない)であり、その神は自然全体を支配するものの教義はありません。伊勢神道は、第二フェーズで、ヤハウェ神のキリスト教に相当すると思います。キリスト教のようにローマ帝国のバックアップがなかったので、高度な脱皮変態が出来なかったと思います。強力な政治的バックアップで神道の変質があったのは、明治の靖国神道です。このあたりは一度別途記事にして見たいと思っています。 削除

2019/8/12(月) 午前 6:17 [ mopyesr ] 返信する

    

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旧約聖書の生成ですが、私はモーセによると思っていました。十戒の中で非常に興味あるのは、偶像を作ってはならないという戒めです。それが骨格としてあるのなら、旧約聖書を作ったのはモーセだろうと、少なくとも骨格(多分モーセ五書という部分)はモーセの時に出来ていたと考えるのは自然だと思います。宗教は数段階をへて完成するのかもしれません。
日本の神道ですが、オリジナルな神道は汎神論的宗教だったと思います。白山信仰などは山がシンボルですが、自然全体を司る神を想定したのだと思います。その後、多神教的に堕落したのだと思います。狐まで神にするのは、冗談で邪教が出来たのだと思います。道真や偉人を崇拝する宗教も、後世の堕落の一つで、その大元に伊勢神道があると思います。伊勢神道は、天皇家が日本国を束ねる為に作った神話が、元々の神道の上に乗ったのだと思います。 削除

2019/8/12(月) 午前 6:42 [ mopyesr ] 返信する

    

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日本語ですが、しっかりとした言語に成長する基礎はあると思いますが、現状では論理的思考には適さないと思います。語順が定まらないのは問題でないことは、今回のchukaさんの記事に納得します。しかし、元々の語彙が非常に少なく、その所為か音節が非常に少ない言語です。そこに日本語と形式の異なる漢語を輸入したものですから、同音異義語が山のように出来、漢字の意味も多分多様化して、日本語を正しく使うことが現在ではクイズ番組の問題になっています。やはり、英語の方が優れていると思います。ドイツ語とラテン語が元にあったという話ですが、名刺の性が無くなったり、冠詞が単純化されたりして、一層良くなったと思います。因みに、英語を作る際、DuとSieの区別を廃止したことに興味があります。それが米国人の性格にまで影響していると思います。 削除

 
 
 
 
 
 
前回の拙記事について長文のコメントを頂きありがとうございます。
 
旧約聖書(=ユダヤ教の聖書)の歴史性については17世紀には既に議論の対象となっていた。下の動画は米PBS(公共放送)の大プロジェクトの一つとして世界中で大きな反響を呼んだ‟Bible's Buried Secrets”、2008、の日本語版です。題名の通り、考古学上の結論を踏まえて旧約の歴史性の真偽について分析しています。公平さというスタンスからあえて言えば、反イスラエル=旧約否定、という政治的バイアスが動画の解釈そのものに介入していないとも言えない。
 
米でこの動画が公開された時には新教側から公開禁止の呼びかけもあったのです。
 
 
最新のは上の動画を素材にしたのがネトフリックスで‟Bible's Secrets”(2017)、という全く似た題で公開されています。こちらは若い美人の考古学者がナレーターとなって、エデンの園、モーセとは何者?ダビデ王の神殿の謎、について考古学的スタンスを分かり易く説明して行くという形式を取っています。英語ではYouTubeでも公開されているが、日本語版があるのかどうか私は知りません。
 
言語については征服の歴史に関連している。ラテン系はローマ帝国の、ドイツ系はゲルマン人の大移動(侵略)の結果である。英語はノルマン(バイキング系)の王とフランスの傭兵軍団による征服と土着民サクソン人のドイツ語のミックスであるが、その前はケルト人の地であり、ケルト語はウェールズ、コーンウォールの一部で今日でも話されているが風前の灯になりつつあると警告されている。だから有名なストーンサークル遺跡は今日の英国人とは全く関連しない文化の遺構であるという説も有力。
 
おっしゃる通り米語には米国憲法の法の下の平等という精神が言語自体に反映しているかも知れません。職場内ではトップから清掃員までジェフとかスーとか親しげに呼びあいタメ語調になりがちですが、馴れてしまえばそれが普通になっています。
 

日本のエンペラーゼネラル、マッカーサー(2)

 

The Emperor's General: A Novel (English Edition)

The Emperor's General: A Novel (English Edition)

 

 

“The Emperor's General” は1999年に米で出版され、たちまちベストセラーとなったそうだ。 『天皇の将軍』という日本語訳が2002年に出ている。アマゾンには日本語の読者評が二つ載っていた。
 
著者James Webb ジェームズ・ウェッブ氏はかなり名の知れた作家であるが、2006年以来バージニア州民主党上院議員を努め外交委に属している。10月15日付けの朝日新聞によると、訪米した安部元総理と会い、例の尖閣列島の中国人船長の釈放は日本政府の間違い、とコメントしたそうだ。 
 
アナポリス海軍士官学校を卒業後、海兵隊士官としてベトナムの戦闘に参加、勇敢な兵士に贈られる海軍十字章というメダルを授与された。私の記憶が正しければ、負傷後除隊、法学校に在学中に小説を書き始め、後に数冊のベストセラーを生んだ。弁護士となり、共和党のレーガン大統領に海軍長官に抜擢されたが、大幅な軍縮予算に抗議して短期間で辞職。当時のレーガン大統領を密かに安堵させた。
というのは以前からいろいろと物議をかもし出す人だった。
海軍長官時代には母校のアナポリスまで出かけてそこの女性士官候補生達を“thunder thighs” つまり “太もも” と呼んで訓練の目障りだと言い切った。この彼の無責任な発言がアナポリスでの女性士官候補生に対するいびりのエスカレートに貢献したと、当時在学中であった海軍女性士官達の非難の声がTVで大きく報道された。
 
また同世代のブッシュ前大統領との確執は有名。徴兵逃れの金持ちのぼんぼんとブッシュ二世を鼻の下であざ笑っていた。だが、こともあろうにそのぼんぼんが大統領として軍にイラク攻略を命令したのでキレた。おかげで海兵隊員の彼の息子はイラクに出征した。上院議員当選直後のホワイトハウスのレセプションで、息子は元気でやっとるかね、と社交儀礼で言葉をかけたブッシュ大統領に本気になって怒った。その場は一瞬険悪な雰囲気となったそうだ。ウェッブ氏自身によれば、その時大統領を殴り倒したいと思ったそうだ。どうもアンガー・マネジメントが必要な人のようだ。
 
この本は歴史小説として非常に良い読者評を得ている。ある日本人読者はどこまでが事実でどこまでがフィクションが区別がつかない、とかきこんでいたが、英語人読者も全く同感のようだ。
 
歴史上、マッカーサー将軍ほど生前から評価が二つに分かれている人物はいないだろう。理由としては、彼がフォーク・ヒーローとして伝説化されてしまったからだという人も多い。
実際彼ほど通りや公園、学校などにその名が付けられた人はいない。
 
ところがである、1979年に、マッカーサーがケソン・フィリッピン大統領から秘密裏に50万ドルという大ボーナスを受け取った事実が歴史家によって明らかにされた。現在の価値に換算すると約7億4千万ドル。受け取ったのはマッカーサーだけでなく、当時側近だった3人の米将軍達も含まれていた。
時は1942年、場所はフィリッピンのコレギドールの坑道内。マッカーサー将軍と妻子、彼の側近達に、ケソン大統領一行はフィリッピンに侵攻した日本軍に追い詰められ、そこに籠城していた。
 
金はマッカーサーのニューヨークの銀行口座にまとめて振り込まれた。3人の将軍達は親分が受け取った金額に比べるとまるでピーナッツにあたる分け前をそれぞれ受け取った。しかし給料の低い軍人にはちょっとしたボーナスだったであろう。
しかもケーブルでの入金が確認されるまで、マッカーサーはケソン大統領の亡命を故意に遅らせていたふしがあった。入金が確認されるやいなや、病身のケソン大統領はオーストラリアに米軍飛行機で亡命、マッカーサー一行もその後を追ったというタイミングのよさ。フィリッピンに残したバターンの米軍守備部隊には、最期まで戦え、という命令を残して。
 
ルーズベルト大統領は身の危険を顧みず敵前逃亡?したマッカーサーに即刻“メダル・オブ・オーナー”という米国の最高勲章を授けた。
“バターンの死の行進”として有名な米軍捕虜の悲劇を、マッカーサーは後を託した副官ウェインライト将軍の降伏のせいにしようとしたのはよく知られている事実であった。
 
マッカーサー自身をはじめ、この事を知っている内輪の関係者達は公衆には貝のごとく口を閉ざしたまま40年の歳月が流れた。
証拠として残されたのはたった一枚の領収書であった。かってマッカーサー将軍の片腕とも言われ、あのミズーリ号上の日本降伏の署名にも立ち会ったサザーランド将軍の死後に残された書類の中から出てきた。サザーランド将軍自身は日本占領後にマッカーサーによって退役させられた将軍であった。英国名家出身の人妻との不倫をすぐに辞めなかったのがマッカーサーの不興をかった。彼女の夫は英国士官だったがシンガポール陥落で日本軍の捕虜となっていた。
 
同じケソン大統領は亡命直後、ワシントンを訪れた。その際、1935年から2年間、マッカーサーの副官としてフィリッピンに赴任し、マッカーサーを嫌っていたアイゼンハワー将軍にも例のピーナッツを申し出た。後のアイゼンハワー大統領は、歴史に残る自分の名を汚したくないので断わった、と日記に書き残した。そこに大統領になった人となれなかった人の差を見る人も多い。
 
このボーナス?が歴史家によって公表されるやいなや、マッカーサー元帥に対する評価は一挙に急降下。もちろんマッカーサー信奉者は様々な理由を捜して彼の弁護に当たった。大統領通達もその一つだ。話は以前にさかのぼるが、1935年にルーズベルト大統領がフィリッピン政府の軍事顧問をいう名目でマッカーサーをお払い箱にした際、フィリッピン政府からの報奨金を受け取る事からの罪の免除という通達を出した。この通達自体の合法性が現在なら問題となるところだろうが、ともかくもう遅すぎる。しかし事実を尊重する歴史家達の評価は厳しい。この作品もこうした歴史の流れの影響下にあるように思われる。
 
英語人の読者の中でただ一人だけこの作品に2つ星という辛い点をつけた人がいた。国民の英雄マッカーサーをこけにするのは許せない、とかきこんでいた。
 
たしかにタイトル、『天皇の将軍』にはシニカルな意味がある。
 
占領軍最高司令官としてのマッカーサーの任務は日本占領を遂行、維持し、1945年7月26日のポツダム宣言に従って戦犯の訴追と日本の民主化を監督することであった。ポツダム宣言で連合国側は米ですでに完成していた原子爆弾投下の予告をした。だが、天皇側はこれをすぐには受けいれなかった。天皇制維持に向け、もっと有利に戦争終結交渉を続けたかったからだ。もしポツダム宣言を即刻受け入れていたなら、広島、長崎の原爆投下は起こらなかった。
 
太平洋戦争に従軍した米兵にとっては“エンペラー・ヒロヒト”はヒットラー以上の悪役であった。それゆえ、ヒロヒトを打倒する事は日本人を圧制のくびきから解放し、日本に自由と正義をもたらすことだ、と信じた。米政府も他の連合国側も基本的には皆同じ考えであった。
ところがこれにたった一人頑強に反対したのが、マッカーサーである。なぜか?それはおそらく親米的支配階級と結びついたフィリッピンでの経験であろう。結果的には占領政策は問題解決よりも新たな危機を作り出す可能性が大きい。終戦時の日本の被支配者側のゴスペルは何といってもロシアからの共産主義であった。
 
米軍の軍事力と天皇の力で日本を完全に支配化におき、共産主義の嵐が吹き始める前にいちはやく民主化改革を実行し、新生日本をフィリッピンのように親米の傘下にとどめる、というのがマッカーサーのビジョンであったであろう。
 
だからマッカーサーは、誰からも“戦犯”と見なされていた天皇に身分を保証し、帝国的侵略戦争を可能にした天皇制を英国式立憲君主制にリメイクまでしようとした。その試みが成功したかいなか、答えは日本国憲法にある。
 
1932年、大恐慌の最中、救済を求めてワシントンに集まった第一次世界大戦の元兵士達を、共産主義者だと言って大統領命令を無視して情け容赦なく軍事力で押しつぶした過去がマッカーサーにはあった。その彼にとっては太平洋戦争で命を捧げた米軍兵士達を裏切る事は屁のカッパかも知れないが、日本国憲法作成に携わった米軍人達の良心にとっては耐え難いものがあったはずだ。
 
この小説の主人公はマッカーサー付きの日本語通訳官であった25歳のジェイ・マーシュ大尉。主人公はアーカンソー州の片田舎の貧しい農家に生まれた。父の不慮の死によって一家は食べていけなくなった。それで故郷のアーカンソーを捨て、家族でカリホルニアに移住した。
ふとしたことから八百屋の店番をしていた日本人娘と知り合い、日本語を習った。主人公がフットボール奨学生として南カリホルニア大学で苦学生をしていた時代だった。やがて“パール・ハーバー”が起こり、日本人娘は家族ともども内陸の不毛な砂漠地帯に設置された収容所へ。主人公は徴兵されて軍の日本語学校に送られた。
そこから日本語通訳としてオーストラリアに避難していたマッカーサーの部隊へ。それ以来日本語通訳兼アシスタントとしてマッカーサーと共に移動を続けた。
 
マッカーサーは念願だったフィリッピンに再上陸。主人公は日本軍敗退の大混乱の最中に、フィリッピンの名家の娘と恋に落ちた。それも束の間、恋人を残してマッカーサーと共に厚木に上陸したのだった。
 
さて、厚木でマッカーサーを待っていたのは、内大臣木戸幸一の率いる天皇側の要人達だった。
マッカーサーとその一行は、厚木から天皇側の用意した時代遅れのポンコツ木炭車に乗り込み、横浜のホテルを目指した。沿道の両側には3万人の憲兵達が起立し長い列をなした。天皇側のキャンペーンの開始であった。
 
主人公マーシュ大尉はこの時以来内大臣木戸とマッカーサーとの間に非公式のチャンネルとなった。
 
1945年9月27日の昭和天皇によるマッカーサー訪問では主人公がマッカーサー付き通訳として35分足らずの短い会見に立ち会った。
この訪問は天皇側からの申し入れによるものであった。主人公が内大臣木戸と根回しをしたように小説ではなっていた。
 
天皇側の意図は明らかだった。連合国側からの天皇制廃止の声が日ましに高まってきていた。だから危機感にかられてマッカーサー本人から天皇制安泰の口質を得たかったのだ。いわば、内輪の手打ち式といったことろだった。
 
すべてが前もってリハーサルされていた。だから天皇がマッカーサー最高司令官に直接談判しにやって来たというのではない。 
会談直後に撮影されたのが、あの有名なカーキ姿のマッカーサーとモーニングコートの天皇であった。
 
よれよれの洋装でマッカーサーの前に姿を現した天皇はマッカーサー側に命乞いにでも訪れたかのような印象を与えたそうだ。だが、マッカーサーと通訳だけの会談では天皇の言動は見かけとは全く違っていた。
 
自分も好戦派のやりかたは嫌だったが、天皇としての立場があった。すべての責任は私にある。だから私の忠臣が戦犯とみなされる事は心外だ。京都に帰って出家し、そこで余生を静かに送ることも考えている、と。
 
マッカーサーの負けだった。天皇無しではマッカーサーの日本占領計画は崩壊する。天皇に弱所をつかれたマッカーサーは大きく引き下がった。
 
その日、いつものようにワシントンにケーブルを送った。天皇との会見の報告が主だった。彼一流の長々しい自賛の後、最期に、天皇が責任を取るというのだから、戦犯裁判は必要ない、と彼の意見を添えた。
ワシントンからの返事はたった一行、ただちに戦犯訴追を行え、であった。
 
実はこの小説にはもう一人の『天皇の将軍』、山下奉文が登場する。山下はマッカーサーの命令によって、マニラのカンガルー法廷で死刑判決を受け、絞首刑に処せられた。著者はこの山下将軍をもっとも軍人らしい、と非常に好意的に描写している。
 
というように、この小説には、数々の歴史的論点がうまくとりこまれている。歴史小説のファンにとってはエンターテイメントな本だ。
 
 

日本のエンペラーゼネラル、マッカーサー

"The emperor general"はマッカーサーの伝記である。何といってもタイトルに惹かれた。こちらは『天皇ゼネラル』、つまり昭和天皇を差し置いてマッカーサーが敗戦後の事実上の天皇であった、という風刺が効いている。
 
しかし、タイトルの意に反して、この本はおそらく小学生向きのミニ伝記だ。米では普通に読み書き出来ない人がかなりいるので、まあ小学生から大人までとしておきたい。 
 
マッカーサーという歴史上の人物の名は誰もが知っている。しかし、彼の生い立ちやその後の経歴については私は全く何も知らなかった。コーンパイプを加えて厚木基地に降り立った姿、きちんと正装した昭和天皇と並んだカーキ姿の大男の姿、これらは歴史の教科書に記載されているおなじみの写真である。
 
ダグラス・マッカーサーのアメリカ人としてのルーツは、祖父のアーサー・マッカーサーがスコットランドのグラスゴーからマサチューセッツに移民するところから始まった。『マッカーサー』という苗字自体はスコットランドの有名なクラン(部族)からきている。祖父のアーサーは自分達はこのクラン・マッカーサーの族長の直系の子孫で王族とも縁続きだといっていたらしい。クランの族長はスコットランドの貴族であり、英王室とも遠い親戚である。クランの身内も族長と遠い血のつながりがあるから、祖父の言っている事もまんざらホラではなかっただろう。しかし数々の反乱の歴史に彩られたスコットランドのクランはイギリス軍に完敗し、生き残りはアメリカやオーストラリアの英コロニーに囚人として流刑に処せられた。しかしそれでもスコットランド人から昔かたぎの名誉・忠誠を重んじ、質素剛健なライフスタイルを守って生き抜いてきたというプライドを奪う事は出来なかった。こういっては失礼にあたるが、スコットランド人といえば今日ではケチの代名詞となっている。
 
しかしながら幼いアーサーがアメリカに渡った頃には家族は貧乏だった。彼自身も家族の生活を支えるためせっかくの大学を中途で断念せざるを得なかった。
だが運命の女神は彼には親切だった。
大学を中退し法律事務所の事務員をしたおかげで彼自身が弁護士になれたのだ。それに金持ちの娘と結婚できた。あれやこれやで、結局彼はウィスコンシン州の知事までなり、かの北軍最高司令官だったグラント大統領によって首都ワシントンのコロンビア特別区の最高裁判所判事に任命された。
 
彼の息子アーサー・ジュニアはウェストポイントにある陸軍士官学校を卒業した。南北戦争中にはウィスコンシン志願兵団の将校として戦闘に参加し、勇敢な兵士としてメダルを貰った。
彼の妻は南部の資産家出身だった。彼女の父はバージニア州のチェサピーク湾岸のノーフォークにかなりの財産を所有していた。マッカーサー元帥と彼の母とのつながりは標準をはるかに越えていた。その母とのつながりを記念するかのように、マッカーサー記念館はこのノーフォーク市に建てられた。皮肉にもノーフォーク市には東海岸最大の軍港と大西洋艦隊の司令部がある。陸軍とは全く縁がない。
 
マッカーサー元帥の父は根っからの軍人だった。南北戦争後も軍に残った。南北戦争後、軍人達は治安が悪化していた西部に向かった。
そこはジョン・ウェイン主演の西部劇、『黄色いリボン』の世界だ。ダグラスの父も指揮官として西部辺境の砦を転々とした。西部は少年マッカーサーの性にあっていた。読み書きよりも先に乗馬を覚え、銃を撃って遊んだという。
 
西部人は男も女も独立心が強い。広大な未開の地で生き残る為には自分と神を信じてプラグマティックな道をとらざるを得ない。だから自然と態度も大きくなる。そこが自己を過大評価し、礼儀に欠けるイナカモンとして誤解される理由でもある。
型やぶりのユニーク(これは良い意味ではない)な見方、やり方、自分を偉大に見せる演出家、等々のマッカーサーに対する批判は彼自身の生い立ちとも多少は関係があるのではと思ったりする。
 
砦は人里離れた荒野のただ中にある。マッカーサー少年はウェストテキサス・ミリタリーアカデミーという寄宿学校に入れられるまで母親に教えられた。この学校はサンアントニオでテキサス・ミリタリーインスティテュートとして今日でも続いている。
ところでマッカーサー少年は寄宿生ではなかった。驚いた事に、父親を国境のリオグランデ河の砦に残して母親とサンアントニオのホテルに移り住んだ。母と息子の絆は母が彼の赴任先のフィリッピンで亡くなるまで続いた。マッカーサーの最初の妻はこの母が原因で去ってしまった。
 
マッカーサー少年はこの学校を最優等で卒業、祖父ゆかりの地ウィスコンシン州ミルウォーキーのホテルで母子ともども暮らして、知事であった祖父の知人である下院議員からウェストポイントへの推薦を待った。その間、マッカーサー少年は家庭教師についてウェストポイント入試の準備に忙しかった。
努力の甲斐あって、マッカーサー少年はウェストポイントの現地入試試験に一番で合格、めでたく推薦を獲得して母子共にウェストポイントのあるニューヨーク州に出発した。マッカーサーは十七歳。
ウェストポイントは全学寄宿であるから、母は近くのホテルで四年間暮らした。父は少将に昇進し、スペインから譲渡されたばかりのフィリッピンの軍政知事として赴任していた。
 
4年後、マッカーサー仕官候補生は開校以来という優等の成績で卒業した。在学中から優れたリーダーシップの頭角を現していた。彼の将来はバラ色だった。
卒業後マッカーサー少尉はフィリッピンに派遣された。そこでは父のコネで大歓迎を受けた。しかしマラリアが悪化して米国に送り帰された。回復後父の部下として軍務を続けた。
1905年には日露戦争中に日本軍の動向を探る為に来日していた父と合流し、父母と共に長期間の極東視察旅行に出かけた。日露戦争直後の旅だった。
時の大統領はテオドール・ルーズベルト、この人は社会的正義の実現、貧民救済をかかげる社会革新
運動のリーダーだった。彼の名は米国の生み出した偉大な大統領の中に必ず入っている。
 
マッカーサーは平和時の軍務を要領よくこなしていた。だが、第1次大戦では自分が言いだしっぺの『レインボー部隊』を率いてヨーロッパ戦線に出征することになってしまった。
そのいきさつはこうであった。米にはナショナルガードと呼ばれる州兵制度がある。この州兵を第1次大戦に出兵させるかどうか軍部内で議論が起こった。法的には米は合衆国より合州国なのだ。州に属する事には国は介入できない。だから州兵は出兵しないでよいというのが軍部の意見であった。
当時国防長官付きだったマッカーサー中佐はその意見書に勝手に条項を書き加えた。
大統領にだけ必要に応じて訓練済みの州兵を出兵させるオプションがあるということを。
 
当時の大統領は国際連盟の提唱者、ウィルソンだった。これが大統領に気にいられた。
調子に乗ったマッカーサー中佐はさらに、その部隊は出身州にこだわらず米国民として団結した部隊にするべきだと主張したから、実際に州兵を組織するおはちが彼にまわってきてしまった。
 
そこでマッカーサー中佐は、部隊の指揮は大佐が取るもので、自分は中佐にしか過ぎない、とゴネた。 国防長官は、じゃ、君は今から大佐だ、とあっさりしたものだった。
 
ヨーロッパ戦線ではマッカーサー大佐は兵士達から親しみをこめて『ヤサ男』というあだ名で呼ばれた。
彼はいつも上からわざと押しつぶして変形させた仕官帽をかぶって野戦兵士の前に現われた。例の旧制高校のボロボロの学帽を思いおこせばよい。
おまけにWest Point A と ロゴの入ったタートルネックのセーターを着込み母の手編みだという超ロングのマフラーをクビにぐるぐるまきつけて。当時の写真を見ても、かなり異様だ。
実はこの異様ないでたちの為、見方の米軍によって敵のドイツ兵に間違われ捕虜になるという事件まで起こしたのだった。戦争も末期の事だった。
 
ともかくマッカーサーとレインボー部隊は次々と敵を撃退し、国民的英雄にまでなった。
マッカーサーは少将に昇進し、戦後は母校ウェストポイントの総監となった。その後、フーバー大統領によって陸軍の最高司令官に任命された。1930年、わずか50歳だった。
ところがそれから4年後には、2歳年下のルーズベルト大統領と対立し、身をひかなければならないはめに陥った。最高位にのぼりつめると後は引退のみ。そのとき、マッカーサー、ルーズベルト相方にとって救い主が現れた。旧友のマニュエル・ケソン比大統領が軍事アドバイサーとしてマッカーサー将軍をルーズベルト大統領に要請したのだ。
1935年、彼は病身の母と副官アイゼンハワーと共に、豪華客船でマニラに向かった。
到着後、ほどなくして、母は病死。しかしマッカーサー将軍は船上で、新しい妻、ジーン夫人とであった。
 
1937年にはルーズベルト政府によって突然彼のポジションが消滅。本当の引退に追い込まれた。友情厚いケソン大統領は比政府の軍事アドバイザーとしてマッカーサーを高給でそのまま雇い続けた。
 
またまた運命の逆転が起こった。1941年の7月に、マッカーサーは退役から現役に呼び戻された。同じルーズベルト大統領によってだ。任務は極東陸軍総司令官として、日本軍の攻撃に備える事だった。
12月7日、日本は真珠湾攻撃を行い、米に宣戦した。その足で翌8日にはフィリッピンを爆撃、制空権を掌握したのだ。翌年の1月2日には本間司令官が指揮する帝国陸軍がフィリッピンに上陸してしまった。
2月22日には、マッカーサーは妻子と側近数人で秘密裏にオーストラリアに脱出した。
 
これが問題となったマッカーサーのフィリッピン脱出である。その少し前には、亡命を計画していたケソン大統領から50万ドルという当時としては破格の礼金を受け取った。
後に残された米軍の運命は悲惨をきわめた。バターン死の行進に狩り出され、マラリア、疲労、虐待、飢えが原因で多数の犠牲者が出た。終戦後、本間司令官は虐殺の責任を問われてマニラで絞首刑に処せられた。
 
ところでマッカーサー元帥の日本占領が始まったとき、彼は65歳であった。
あの写真をおもいおこして欲しい。どうみても50歳ぐらいにしか見えない。私も学生時代、頭からそう思い込んでいた。頭脳の働きは年齢には関係ないそうだが・・・・
 
日本占領後も、朝鮮戦争の総指揮官として、有名な海兵隊によるインチョン上陸をおこなった。これによってほぼ朝鮮全土を占領するところだった北朝鮮軍を中国国境まで押し返した。しかしやりすぎて共産中国が介入してきた。1950年の事だった。
翌1951年、71歳にして、マッカーサー元帥は4歳年下のトルーマン大統領にクビにされた。
マッカーサー元帥はロシアに原爆を落としたかったらしい。それですでにもう原爆を二個も落とした責任者になっていたトルーマンに嫌がられたのだ。
 
老いてはいるが稀に見る偉大な戦略家、しかもアジア通、米国歴代の大統領と身近に仕事をしてきたという輝かしい経歴の持ち主、そういう人に敗戦国日本の民主化移行という重大任務が与えられた。
 
だがあくまで設計者はワシントンの政府であった事を歴史家は認めている。
 
マッカーサー元帥が日本を去る日、厚木飛行場へ向かう沿道には20万人もの長い見送りの列が続いたという。こうしてもう一人のエンペラーは日本を去った。
 
今日、マッカーサーは全く歴史の人である。
日本では未だにマッカーサーの亡霊が生き続けているようだ。
 
Amazonの読者批評によれば、この本を読むより、グレゴリー・ペック主演の伝記映画を見る方を薦めるそうだ。