chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

愛するアリゼ and/or ムカつくw

 
 
 
 
Alizee, アリゼちゃんは、日本では、「恋するアリゼ」と銘打ったブルボン・クッキーのCMですっかりおなじみに。
ナポレオンと同じコルシカ島出身、最初で最大のヒットソング、『私はロリータ 』 ‟Moi, Lolita” で一躍ヨーロッパのロリコンおじさん達のアイドルに。
彼女のパーフォーマンスを見れば理由は一目瞭然、説明の必要なし。
しかし、ロリコンおじさん達を「ヘンターイ」と呼んで一方的に断罪してしまうのは極端に一方的で、フェアじゃないような。
 
拙ブログで記事にした『旅の重さ』という映画、これは主人公の思春期をテーマ
にしている。思春期には、性ホルモンの分泌がはじまり、いよいよ生殖モードに突入。つまり、女(の子)の方もパートナー探しに忙しくなるというわけ。性ホルモンはムードに影響するから、反抗期の幕開けである。
 
『アイドルを探せ』、1963年、のシルヴィ・バルタンは今日でも日本のシャンソン界の永遠のアイドルだが、歌詞は、「今夜のダンパー(これ、今の日本では死語ですね)で女王様になって、今日こそは好みの男を捕まえてやる」というもの。しかし、これでは日本語の題が与えるイメージと歌詞との間にちょっと差があり過ぎないか? こんなことを書くと、ムードを壊すなと逆切れされそうだ。何しろ、おフランスは愛のメッカ。
 
誰だ、彼女に捕まりたい、と思っているのは。
 
能書きが長くなって申し訳ないが、日本では、『恋するアリゼ』、原題は ‟J'en ai marre”, 気分悪い、つまり、「ムカつくw」 (これ、拙訳)。だから、恋とは関係ない。
 
ところでアリゼちゃん、何にムカつくって? 
 
これ、私の問題じゃない(つまりあなたに問題が=フランス人の決まり文句)
これが私の癪に触るもののリストよ
 
不平不満ばかりで
どこへも行きようがない
固定観念から
私への批判を止めない人には
本当にムカつくw
でもその人がホンモノのテロリストなら話は別。
 
社会は暗黒、私を偽善者とレッテル貼って
大物ぶってる人(お局様)
すべてが気に入らないと、いつも
泣きっつらの人。
ムカつくw
 リストは延々と続くのだが、最後は
ワタシね、ムカつくことにムカつくw
これ一体どーゆーこと
 
ところで、彼女のMVを見た人は、アリゼのセクシーなダンスはナンだ
と思うはずだ。実は、歌詞によれば、彼女はバブルバスの真っ最中
金魚さんと一緒に、というわけで、歌う彼女のバックには赤い金魚。
 
見て、私のすべすべしたお肌
バブルバスの中
全く平穏
身体も心も
すっかりリラックス。
 
ところが、出ました、日本のアリゼちゃんこと、鏡子ちゃん、ノーパン、割れ目チラリだそうですが、アリゼちゃんの見事なコピーキャット
 
おーい、金魚がないぞ!は英語コメントからでした。
 

 

小野田寛郎が終戦を知らない残留日本兵!?

小野田寛郎は終戦をフィリピンのジャングルで知っていた。皇太子のご成婚も知っていた。
以下の記事を書いたNHKは国民から受信料を受け取る資格なし。
 
 
太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日本陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日本に帰国したときは、日本中が沸き立ちました。
小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者)    
 
この3億円は、事実上のHush Money= 賄賂。もちろん受け取り人は当時のフィリッピン独裁者、マルコス大統領 。 この金は、ルパング島はおろか、犠牲者の家族になど、一銭も渡っていない。 
 
以下はウィキから
 
 小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
 
太平洋戦争の終結をしらないまま、とウソを平気で報道するNHKに対して、日本の歴史学者からは一言も抗議が出てこない、とは何と悲しいことだろう。
 
以下は小野田寛郎の終戦からルパング島脱出までの30年だ。
 
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。島を防御する予定だった日本軍は崩壊。少数の兵士は山中に逃亡。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と4人グループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
     1945年12月 二度目の勧告ビラを見る。山下奉文将軍名による降伏命令である。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけ。同年3月下旬まで計41名の日本兵が投降。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田少尉をリーダーとするの4人のうち、赤津一等兵が投降に成功。というのは、小野田組からの脱出を3回繰り返し、捕らえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功したという。フィリピン軍に保護された赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ山中に潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と書いた。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いた。
  • 小野田グループの島民襲撃、殺害、略奪が続く。フィリピン政府は軍の討伐部隊を送ることになった。最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見された。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国
小野田寛郎は、上記中の日本政府の捜索を隠れてじっと見ていた。後で家族が残していった手紙や雑誌を読み、住民から奪ったラジオの日本語放送で、競馬放送を聞いたそうだ。
 
1975年に小野田寛郎グループの迷惑料に3億円、2016年には、韓国人慰安婦に対する迷惑料にわずか10億円。
日本政府は寛大なのか、ケチなのか?理解に苦しむ。
 
 
 
小野田さんの来ている軍服もどきのシャツですが、明らかに島民から奪ったものですね。ひょっとして被害者は彼が殺した人かも?

小野田寛郎の死と不都合な真実

 
    弔辞
 
 
当時、小野田少尉と小塚1等兵は「狼煙(のろし)作戦」と称して、銃撃や収穫した米に火を放ち、住民に対する威嚇と自分たちの存在を誇示する行動をとっていました。

1972年10月19日
この日が小塚1等兵にとって運命の日となります。

夜明けとともにテリックの町を見下ろせる丘に出て威嚇射撃をし、作業中の住民が逃げ出すと稲むらに火をつけました。
あちこちから火煙が上がり2人は引き揚げようとしますが、大きなドハの木の脇に積んである米俵を見つけた小塚1等兵は、火をつけるために近くへワラを取りに行きました。

しかし、この行動が小塚1等兵最後の行動となってしまいます。


以下、小野田寛郎著「たった一人の30年戦争」より

その時、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
敵は激しく撃ってきた。
応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。
いままで何度もあったことだ。
だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」
小塚が叫んだ。
振り向くと右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く。先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。
小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
敵の銃声が途絶えた。
いまだ!私は二丁の銃を持って後ずさった。
退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚! 小塚!」
私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
反応がない。顔をみた。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
私は両手に二丁の銃を持って、一気に灌木の斜面を駆け下りた。
激しい銃声が後を追った。
私は最後の戦友を失った。
小塚、51歳であった。


小野田氏の手記では、銃撃された小塚1等兵がその場で死亡したように書かれていますが........
 
検視解剖の結果、遺体の胃には100cc近い量の血が飲み込まれていて、銃撃を受けた小塚1等兵はその場で即死したのではなく、数分間は生きていたようです。
さらには、刃物で切り付けられた無数の傷が体中にありました。

丘の上で銃撃され、ドハの木から急な斜面を谷に降りた小さな水の流れの手前で血みどろになって倒れていた小塚1等兵。
警察軍に対し最後の力を振り絞りナイフを振り上げようとしますが、数発の銃弾を撃ち込まれ「オーイ」と誰かを呼び息を引取りました。
そして、遺体が麓の町まで運ばれると、日本兵に恨みを持つ住民達が蛮刀で切り付けたようです。


人生の半分以上を小野田少尉とジャングルで過ごし、家族を残し51年の生涯を閉じた小塚金七1等兵。

最後の力を振り絞りナイフを振り上げた瞬間何を思い、誰を呼んだのか。
小塚1等兵の無念さが伝わってきます。
 
ー以上、勝手にコピペいたしましたー  アカベコさん堪忍してや
 
 
 
生きている人の眼と死後直後の人の眼には見た目はあまり差がないように思えますが..............
 
 
  
 

日本の皆様さん、コメントありがとう。

上記の記事からのみ推測すると、小野田少尉は、負傷しショック症状に陥った小塚一等兵を残して、彼の銃を手に急いで撤退してしまったようです。

小野田氏の名がでる度に拙者はなぜか小塚一等兵のことを思い出してしまうのです。棺におさまったよれよれの軍服姿(?)の写真が印象的だったせいでしょう。小野田氏の帰国後は彼の名は全く忘れさられてしまったようです。 削除

反安倍バッシング

私は東京都知事候補の鳥越氏の名さえ知らなかったのだが、あるブログで、この候補がもう十年以上も前にした発言、拉致被害者を北朝鮮に返せ、は絶対に許せない、都知事にしてはならない人だ、というのを読んだ。
 
それで、以下のようなコメントをカキコ。
 
これ、15年も前のかなり過去の話ではないですか。今、彼がどう考えているか、話を聞いてみたいというのが、私のようなフツー人のスタンスではないですか?
 
このブログ記事のソースは明らかにyoutubeのネトウヨサイトのプロパガンダ動画なのだが、ブログ主は、確固たるソースだと思ったと返答してきたところから、何も知らないらしい。また、この人はネトウヨではない。
この怪情報のソースの一つは、作家百田尚樹氏のツイッターにあるらしい、が真相は今だに不明。
 
ところが、偶然見つけたのは以下の記事、拉致被害者を北朝鮮に返せ、といったのは、実は安倍総理だった。
 
 
 

Rest in Peace ダッカの犠牲者達

7月2日の夜、パキスタンの首都ダッカの富裕層向けのカフェがISISテロリストグループに襲撃され、外国人客が惨殺された。日本人7人がその中にいた。同様に3人の米大学の学生も惨殺された。
彼ら3人は、米国有名大学、バークレー校、エモリー大学に在籍し、優秀な学生であり、将来が嘱望されていた。
Abinta Kabir, Faraaz Hossein and Tarishi Jain
 
真ん中の Hossein君は、バングラデシュ出身であるので、釈放の許可がテロリストから出た。しかし、彼の連れの女子学生は、一人はバングラデシュ国籍、二人ともダッカ育ちであったにも関わらず、ヒジャブ、黒いベールを被っていない、西洋のドレスを着ている、とケチをつけられ、釈放を拒否された。
このHossein君は、それで友人の女子学生とそこに残ることにした、とニュースで伝えられている。
 
彼の勇気に拍手を!
 
この事件の現場となったこの、Holey Artisan Bakery というカフェは2年前に開店した。焼きたてのベーグルやクロワッサン、ピザなどを提供していて、値段は地元庶民にはちと高すぎるが、金持ちや外国人にはまだ安い、といった具合だったそうだ。オーナーはこれで閉店だと言っていた。そもそもテロリストが、アッラーアクバル、という決まり文句を叫んでこのカフェに突如侵入した時、従業員にはもうこれは予想していたことらしく、すぐにかねてからの逃げ口を使って脱出だ。その時オーナーは都合よく不在だったとか。
その後、テロリストはISIS系のサイトで、恐ろしい惨殺現場を流した。このテロリスト達が ISISとは無関係だと報道してる日本のマスゴミの裏に隠された意図は何だろう?どうせバングラデシュに恩を売り、その返し手で、自分達にかかる火の粉を払おうということだろう。
現地の国民的宗教慣習はレスペクトされるべきだ、そういった指導はなされていなかったのだろうか。国民大多数が無宗教の日本人には理解しがたいことだが、宗教は神社の柏手や寺参りでは済まない、それは生活なのである。
 
下のは、NYの不動産王、いや最近では、脱税王、NYのオレオレ詐欺王、となったトランプ候補に対抗する野球帽。$20です。しかし、なぜ、これが拙者のブログに?自分でもわかってません。
 

 

 

 

 

 

日韓ヒップホップ It G Ma 

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韓国で大人気のラッパー達、Keath Ape、JayALLDay, Okasian、日本のLoota,Kohhが一緒になった結果が、この‟It G MA”。  テーマは、韓国語を英語発音で表したものだそうだ。
意味は『絶対忘れない』。
 
しかし、曲の50%が韓国語、40%が日本語、10%が英語 だというわけで、一体全体100%意味の分かった人がいるのかという疑問がでてくるのも当然。
それでも、この曲、ネットでViral大拡散、海外で多くのファンを獲得。
 
もちろん、この曲のスターラッパーは韓国系 Keith Ape。韓国の高級ブランド製品の、カモ(迷彩服)を着こんでいる。何といってもアジア系バッドボーイのオーラが凄い。
 
しかし彼を完全に喰ってしまったのが、日本人ラッパーのLoota と Kohh。
Why? Loota の武士道をおもわせる歌詞と、Kohh の 『ありがとう』というセリフが大受けしたからだ。
下にコピペしたフォトがそれ。 
 
それから、この‟It G Ma” は 実は パクリ。 米の黒人ラッパー、OG Mako が、ドロボー韓国人、とツウィッターして一時は大騒ぎに。 しかし、金で見事解決。これで心おきなくこのソングがエンジョイできるということにあいなった。本家よりグー。
 
ではここでテーマについて。何を絶対忘れない? 
KeithとJayALLDAYが連発している文句は何と
 
 잊지 마, 잊지 마, 우리가 이찌방(一番)
It G Ma, It G Ma, Uri ga Ichiban.
Don't forget, don't forget that we are Ichiban.
 
一番 Ichibanはもちろん日本語!私には、オレが一番、と聞こえたが?
 
‟You are you,I am me, accept that shit”
オレはオレ、オマエはオマエ、このクソ事実を認めろ
 
というように、過激な歌詞。つまり、格差社会からのおしつけはまっぴらごめん、というわけだ。
 
実はこの曲は、2番目のラッパー、JayALLDAYが中心となって作られた。彼は韓国で生まれ、米国で育ち、また韓国に、そして日本でも暮らした経験がある。彼は今の日韓関係の悪化についてこう言っている。
 
We have a history behind us I don’d give a fuck about it I think it better for our generation to do positive things together. It is not about a country,it is all about a person。
私達の背景には歴史がある、しかしそんなものは全く気にするべきじゃない。ポジティブな事を共にやることが我々の世代のためになる。国としてというよりも、一人の人間としての方が大切だ。
 
 
過去の話すんのださいから
昔のこと忘れちゃったらいい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

慰安婦映画『帰郷』を見たい方へ

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以前にこのブログで取り上げた 慰安婦映画 『帰郷』 ‟Spirits Homecoming”を youtube で見つけた。残念ながら、中国語字幕。それでもストーリーはとれる。興味のある人、下をクリック。
 
この映画は下のハルモニ(元慰安婦)が描いた絵にインスピレーションを得て作られたそうだ。
 
この映画では、国に眠る英霊たちヘンタイのレイピスト、となってしまっている。
舞台となった満州の慰安所は、強制収容所をモデルとしているようだ。
 
だからといって、この映画がウソだ、というのは無理である、しょせん映画は映画、フィクションの世界なのだから。何と言っても責任は、慰安婦達を軍需品として戦場に送り込んだ当時の帝国政府と軍、統帥権のあった天皇にある。
 
連合国側は兵士達に、性病感染と予防についての教育映画を見せ 戦場で売春婦を買う事を自粛するように伝えていた。何という違い!
 
 
 
 
 
Part 1
Part 2