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chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

スカーレットハート麗 韓ドラ大ヒット#2

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現在放送中の、『スカーレットハート・麗』は、前に記事にした DTS=太陽の末裔たち、を凌ぐ空前の大ヒットドラマになりそうだ。主人公を演じるのは、日本でも大人気の韓流スター、イジュンギ と歌手アイドルのIU=アイユー。
このドラマは、2011年の中国ドラマ、『スカーレットハート』、原題、歩歩驚心 のリメイクで、長い間ファンに待望されていた。
中国ドラマの原作は、米在住の中国系人気作家 Tong Hua のデビュー作である。
北京で会社勤めをしている若い女性がボーイフレンドと口論になり、成り行きで道路工事中に発生したエレクトリックショクを受け、失神。気が付いたら、18世紀の清王朝へタイムトリップ。しかも、当時の乾隆帝の第8王子の第二妃の妹となり替わっていた、それ以来、一歩一歩が驚きの連続。やがて彼女は、歴史上の結末を知っていながら、乾隆帝の王子達の血で血を洗う後継者争いに巻き込まれていく、というのがストーリー。
 
こちらの韓国版は、時代をもっとさかのぼって、10世紀中頃の建国したての高麗へ。日本では、平安朝の真っ盛り。ソウルの高級化粧品ストアのセールスガールだった主人公は、休暇中に溺れそうになった子を助けようと湖に飛び込むのだが、子供は助かった。しかし彼女は流れに足を取られて水底に引き込まれ、もがいて水から顔を出したところが、高麗宮殿の沐浴池。そこには沐浴をしようと初代高麗王の王子達が集まっていた。
その中で一番肝をつぶしたのは、第8王子。なんと主人公は、この王子の妃が引き取っていた親族の孤児だったからだ。
というように、韓国版は、二匹目のドジョウを狙ったリメイクであるが、韓国側はリメイクではない、高麗を舞台にした新しいストーリーだと言い張っている。だからタイトルに『麗』がついているのだそうだ。
 
最初は、韓国内では低視聴率。ファンの怒りは、主演女優IUのへたくそな演技に向けられそうだが、これはイジュンギ・ファンのジェラシーか?しかし、回を重ねるごとに人気が爆発、今ではアジア系ドラマブログの話題を独占している。イジュンギをもっと出せ、というファンのカキコが多いこと。
このドラマは製作費に多額の金をつぎ込んだとか、でロケや衣装が豪華で、あの『奇皇后』を思い起こさせる。中国の放映会社は、『太陽の末裔』以上の金額を払って中国で同時放映だ。
例によって中国政府から、韓ドラ中毒の警告が出ている。
 
このドラマに関してブログでよく出てくるのが、高麗王室の近親結婚だ。韓国系にとっても驚きだそうだ。主人公の第4王子の正妃は彼の母違いの妹であり、歴史では二人の子孫が王位を継承している。日本古代の皇室の近親結婚も特異だが、おそらく朝鮮半島経由なのではないだろうか、というのが拙者の感想。

 

BIGBANG ‟Loser” 日本語

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Bigbangについては、とりたてて説明する必要はない。彼らは世界的なKーPOPスター。上は日本公演MV.‟Loser”は彼らの去年の大ヒット曲。
 
Loserとは英語で「負け犬」の意で日常語なのだが、日本語では、『落ちこぼれ』かな?そこらへんのところで、英語社会と日本との発想の違いが感じられる。
日本語の歌詞と韓国語の歌詞が違う、というのがコメント欄で話題になっていたので、下は日本語歌詞付の、オリジナルのMV。韓国語の方が好き、どちらも好き、というのが半々ぐらいだったかなかな。
 
 
一言いわせてもらえば、Bigbangは日本でも若い人達を中心にもの凄い人気。ゼネレーションギャップが大き過

反天連8・15恒例デモ@靖国

 
‟人民の、人民による、人民の為の政府は
 この地上から消え去ることはない。”
 
エブラハム・リンカン 1863年11月19日 ゲティスバーグ演説より
 
拙者はリパブリカニスト、共和国主義者。
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日本は今や歴史に逆行する国になりました。
基本的には日本に天皇制は必要ないのです。現憲法の天皇制はシンボルです。要するにマクドナルドのアーチと同じ。
 
 
 
不況と格差社会の蔓延は日本だけではないのだが、なぜか日本だけが希望を無くしてもうヤケクソ。これもあの、腸炎治療でステロイド多量投与を受けているアタマのおかしくなったリーダーのせい?
それとも国民がちと愚民過ぎる?
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‟愛させて” アモリ・バシリ

このミュージックビデオはフランスを愛の国だと憧れている人へささげよう。
歌っているのは、アモリ・バシリ(Amaury Vassili)、見た通りのイケメンシンガーだ。
顔だけじゃなく、小さい頃からクラシック音楽の勉強したとかで、声もサイコーだ。
タイトルの、‟Laisse moi t'aimer” は直訳すると、「僕に君を愛させてくれ」。何だか聞くだけで身体がアツくなりそう。これはフランス人も同じだそうだ。
 
このソングは、実は70年代初めの大ヒット曲。それ以後数々のリメイクが登場したのだが、これが最新でサイコーだと私は思っている。ところで、この歌を最初に歌ったのは、当時フランスのイケメン歌手ナンバー1だったミック・ブラン(Mike Brant)。
しかし、ミック・ブランはフランス語があまりうまくない、イスラエル出身の外国人。
それでフランス人から、声が大きいだけが取り柄だとバカにされたのだが、ミック・ブランは、文句があるならオレのように歌ってみろ、と言い返したそうだ。
しかし、いろいろストレスに悩まされていたとかで、ヒットを飛ばし続けていた人気絶頂のさなかにホテルの窓から身を投げ、自殺をはかった。そして二度目はパリの自宅の窓から投身自殺。28歳の若さで世を去った。
 
歌詞は拙訳ですが、誤訳があれば本当にゴメン。
 
 
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Laisse-moi t'aimer toute une nuit
Laisse-moi toute une nuit
Faire avec toi
Le plus long, le plus beau voyage
Veux-tu le faire aussi?
一晩中 あなたを愛させてくれ
いいだろう 一晩中
 
そして僕は君と最高に長い、美しい旅に出るんだ
君もOKしてくれるだろう?
 
Une hirondelle fait mon printemps
Quand je te vois
Mon ciel devient plus grand
Je prends ta main
Alors je sens que j'ai pour toi
L'amour au bout des doigts
 
一匹の燕が僕に春を告げるように
僕が君と会ってる時は
青空が大きく広がるんだ
僕が君の手を握ると
僕は感じるんだ
僕の指先に君への愛を
 
La feuille qui grandit a besoin de lumière
Et le poisson meurt sans l'eau de la rivière
Aussi vrai que nos corps sont nés de la poussière
Toi tu es mon soleil et mon eau vive
 
葉は太陽の光で成長する
そして、魚は川に水がなければ死んでしまう
人の身体は塵から生まれるというのも本当だ
君は僕の太陽だ、生命の水だ
 
 
Laisse-moi t'aimer
Rien qu'une nuit
Laisse moi, rien qu'une nuit
Voir dans tes yeux
Le plus merveilleux paysage
Oh oui si tu le veux
愛させてくれ
一晩だけでも
どうか、一晩だけでも
僕は見たいんだ、君の眼の中の
最高に美しい風景を
オーイエス、君がOKなら 
 
Laisse-moi t'aimer
Laisse-moi t'aimer, toute ma vie
Laisse-moi, laisse-moi t'aimer
Faire avec toi le plus grand de tous les voyages
Laisse-moi, laisse-moi t'aimer, t'aimer.
 
愛させて、一生をかけて愛させて欲しい
愛させて、愛させて
二人一緒に最高に素晴らしい旅に出よう

巨泉さんはいい死に方をした

 
 
最初に大橋巨泉氏が亡くなった、というニュースを知った時、私の正直な感想は、「え?この人まだ生きてたの!」。
実は巨泉さんのことは、『11PM』で司会してた、恰幅がよくてえらく調子のいいおじさんとしか覚えていない。あの時の彼の新妻が元祖アイドルの浅野順子ちゃん。当時も二人はラブラブで、いったい順子ちゃん(現寿々子夫人)はこの年上おジンのどこにひかれて?というのがやっかみ混じりの『11PM』のファンからの声でした。
ところで上のフォトを見て、二人(永六輔さんと)の変貌には驚いた。(自分のことは棚にあげて、の話)。
 
巨泉さんの最後は、愛する家族にみとられながら、眠るように亡くなったそうだ。彼は大変いい死に方をした。誤解しないで欲しいのは、いい死に方というのは、家族に囲まれて死ぬことができたから、ということではないのです。ホスピスケアでは、死にゆく人を一人にしない、というのが原則ですが、世の中には、一人で死にたい、と望む人も結構多い。その理由の一つに、家族に悲しい思いをさせたくない、というのがある。今回の、「あの医者、あの薬に殺された」という巨泉さん御家族の怒りの告発を読めば、後者の方々の、一人で死にたい、という気持ちも一理あるように思えるのだが。
 
 〈先生からは「死因は〝急性呼吸不全〟ですが、その原因には、中咽頭がん以来の手術や放射線などの影響も含まれますが、最後に受けたモルヒネ系の鎮痛剤の過剰投与による影響も大きい」と伺いました。もし、一つ愚痴をお許し頂ければ、最後の在宅介護の痛み止めの誤投与が無ければと許せない気持ちです〉

 これは7月12日に亡くなった大橋巨泉さん(享年82)の妻・寿々子さんが、その心情を綴った文章の一節である。
 
巨泉さんの最初の胃がん摘出は11年前。その時彼はすでに70才だから手術からの回復はかなりきついはず。だが、彼はそういった困難を見事に克服。しかしつい数年前になって怖れていた癌が再発、放射線、および抗がん剤の治療を受けたのだが、体内でがん細胞は転移・再発を繰り返したようだ。再発以来彼の壮絶なる死闘が始まった。その時彼は75才を過ぎていたのだ、まず巨泉さんの並外れた闘魂に心からの畏敬の意を表したい。
 おそらく3度にわたるがん切除手術と4回の放射線治療に加え、昨年の11月に発症した腸閉塞の手術は身体に大きなダメージを与えただろう。上の痩せて弱々しい彼の姿が何よりもバトルの凄絶さを物語っている。

 もしあの時、モルヒネを大量に投与されていなければ、もっと生きられたのではないか―。
 冒頭の寿々子さんの言葉からは、そう悔やむ気持ちがひしひしと伝わってくる。

 事の経緯を振り返る。巨泉さんが20年にわたり続けてきた、週刊現代コラム『今週の遺言』(6月27日掲載)の最終回にはこう書かれている。

 〈3月27日に国立がん研究センター中央病院に緊急入院して検査をしたが、幸いがんは見つからなかった。(中略)CVポート(胸に埋め込む点滴補助器具)をすれば自宅での在宅介護で問題ないと言われ、がんセンターを4月5日に退院したのである。しかしこの在宅介護が大ピンチの始まりになろうとは神のみぞ知るであった。

 退院した5日の午後、我が家を訪ねてきた在宅介護の院長は、いきなりボクに「大橋さん。どこで死にたいですか?」と訊いてきた。以前にも書いたようにボクは既に死ぬ覚悟はできていたのだが、「エッ?俺もう死ぬの?」と呆然とした。

 次に「痛い所はありますか?」と訊くから「背中が痛い」と答えたら、直ぐにモルヒネ系の鎮痛剤のオプソやMSコンチンが薬局から大量に届いた。院長は毎日来るのだが特に何もしない。この頃からボクの記憶は曖昧になる〉
がんセンターの先生からは『今のところがんはないので、まずは体力を回復させましょう』と言われていたのですが、この在宅介護の医者は『どこで死にたいですか?どうやって死にたいですか?』とばかり聞いてきました。がんセンターから兄のカルテが届いているはずなのに、読んでなかったのでしょうか……。

 そして、『とにかく背中の痛みを抑えるために、薬を飲みましょう』とモルヒネ系の薬をどんどん送ってきたのです。その中には貼り薬もありました。
 
この箇所を読むと、ご一家の前に何だかとんでもない医者が現れたようである。
その前に、まず癌センターでは癌が見つからなかったということについて。ここで読者は、なんだ、巨泉さん、癌でなくなったんじゃないんじゃない、と思うかも知れない。しかし、彼のように悪性癌がリンパに転移した人は、検査で癌が見つからなかったというだけで、もう癌じゃない、と思い込むのはちと早すぎる。癌が今回の検査で見つからなかった可能性、を考慮する必要があるからだ。だから、癌センターから緩和ケアの専門医が紹介されたようだ。問題は、この緩和ケアの医者は、巨泉さんをホスピス患者と勘違いしたことにあるようだ。
当人の巨泉さんは非常にポジティブで楽天的、その後の行動が示すようにホスピスケアにはむしろ反対にもかかわらず。
 
ホスピスケアに適用される患者は、医者により、6か月以内に自然死すると医師に判断された人である。自然死というのは、癌患者の場合は、病気完治の為に必要な手術とか抗がん剤投薬を行わない、栄養補給の為のPEGチューブを胃または小腸に挿入しない、等々のアグレッシブな治療を行なわないということが前提となっている。理由は前述した治療を施しても、回復の見込みはなく、患者は肉体的及び精神的苦痛にさいなまれながら治療途上で亡くなってしまうケースが多いからだ。当然死直前の最後のレスキューである、心肺蘇生という救命措置についても、これは「コードブルー」として日本でもおなじみだが、ホスピス患者にはこれを行わない。以上のような患者サイドと医師サイドの法的合意がホスピスケアの前提となっている。
ホスピス患者の望みは痛みのない死であるから、効果的な鎮痛剤の処方が重視される。モルヒネ系の鎮痛剤は、癌による痛みに効き目があるとされ、ホスピスケアの癌患者のトップチョイスとなっている。
 
そんなによくきくなら、どんどん使えばいいじゃないか、ということになるが、モルヒネ系の鎮痛剤には痛み止めの他に深刻は逆効果がある。巨泉さんのご家族が怒っている通りなのである、それは呼吸機能を弱めるということだ。
普段、私達の一分間の呼吸回数は16から20回なのであるが、それが15回以下になると、アタマの酸素不足で、あらこの人、ちょっとボケてるんじゃない、というような症状が現れるのだ。10回近くでは、ひどい眠気におそわれ、眼を明けていることが難しい、10回以下だと、外から見ると意識不明、といったぐあいだ。
あのプリンスの死因は、このモルヒネ系鎮痛剤の過剰摂取によるもの、と死後解剖で判断されたが、彼は生前に機内で意識不明となり、ナルカンというモルヒネ系鎮痛剤の効果を消す薬の静脈注射で意識回復、という事件を起こしている。
というように、苦痛を感じないで死ぬということには、モルヒネ系及び多の精神安定剤(=催眠剤)などの併用の影響で痛みを感じる意識そのものが薄れてくるということも含まれているのが現実だろう。
話がそれてしまったが、つまり、ここの緩和ケアのお医者さんは、苦しんでいる巨泉さんを早く楽にしてあげたい、と思ったようだ。
在宅ホスピスを選ぶ理由は、日常生活の延長として静かに死んでいきたい、ということだそうだから、どこで死にたい、と尋ねたこのお医者さんはかなり勉強不足に見える。
大病でベッドで長い間寝転がっていると、背中ぐらいは痛くなるのは当たり前。体を回転させたり、ベッドの中で運動したりする方法もあるし、なぜ、こんなに強力な痛み止めがいるのだろうか、と思ってしまう。

 さらにこの医者は、『まあ、もって2~3ヵ月でしょう。私は専門医だから分かるんです』と言う。兄も私たち家族も、相当なショックを受けたのは言うまでもありません」

 次の日から、巨泉さんはこの医者に言われた通りに処方されたモルヒネ薬を飲み始めた。するとこんな症状が出始めたという。

 「薬を飲むまでは普通に歩いていたし、トイレも自分で行けていたのですが、飲み始めて2日目になると、フラフラして一人で歩けなくなりました。寿々子さんから電話がかかって来て、一人では抱えられないと言うから、飛んで行ったんです。

 3日目になると二人がかりじゃないと支えられないほどになり、兄も『なんか変なんだよ。空を飛んでいるみたいだ』と訴えていました」(哲也さん)

 終末医療に詳しい、帯津三敬病院の帯津良一名誉院長が解説する。

 「医療麻薬として知られるモルヒネ系薬は、痛みをとる代わりに、副作用として意識障害や、呼吸抑制により心臓に負担がかかることがある。特に高齢者で体力が衰えている方は慎重に使う必要があります。服用量を間違えると死期を早めてしまう危険性もある」

 寿々子さんと哲也さんは、がんセンターで「今のところがんの転移はない」と言われていたのに、モルヒネを投与されてから、日に日に弱っていく巨泉さんを見て不安を募らせていた。

 見かねた寿々子さんと哲也さんはがんセンターの片井均医師と、長年にわたり巨泉さんを診てきた若山芳彦医師に連絡。二人の先生は異口同音に「痛み止め(モルヒネ)の使用法に問題がありそうだ」と、再入院をすすめた。

 だがこの在宅医は、「薬を中止しよう」とは言わなかったという。
 
鎮痛剤は、原則として必要に応じて、ということなのであるが、モルヒネ系鎮痛剤ではそれが非常に難しくなるケースが多い。特に依存性は無視できない。
その上、去年、重症の腸閉塞で手術、という病歴を考慮するなら、モルヒネ系の鎮痛剤の量は、巨泉さんがホスピス患者でなければ、慎重にするべきに思えます。モルヒネ系鎮痛剤は、腸の蠕動運動をブロックすることでもよく知られているからだ。私が感じたのは、問題はこのお医者さんと癌センターとのコミュニケーションにあるようだということです。そこは、寿々子未亡人の指摘通りです。
 
 「毎日自宅には来るのですが何もしない。こんなにフラフラになって意識が混濁しているので、普通の医者なら『おかしい』と思うはずなのですが……。付き添いの看護師が脈を測ったりはしていましたが、この医師が問診することは、ほとんどありませんでした。それでいて『早いなあ、(寿命が)1~2週間になっちゃったかなあ』と言うのです」(哲也さん)

 不信感を募らせた哲也さんが、知人に調べてもらったところ、この医者は元々「皮膚科の専門医」だったことが判明したという。それが現在は緩和ケアの病院で院長を務めていたのである。

 この時点で寿々子さんと哲也さんは、「この在宅医に診てもらうのをやめよう ところが薬を服用してから5日目、在宅医から「今日がヤマです」と突然告げられた。

 「最初は2~3ヵ月と言っていたのに、急に『今日が危ない』ですからね。翌日、別の病院に入院することを伝えても『そうですか』としか言わない。

 もしあのまま薬を使い続けていたら、間違いなく死んでいたと思います。

 処方する前から量がおかしいとは思わなかったか?素人では分かりませんよ。自宅には使わなかった30日分以上の薬が残っています」


 巨泉さんのコラムの最終回には、こう記されている。

 〈翌11日の朝、若山先生が同乗してくれた弟の車で家を出たのだが、突然ボクの意識は飛んだ。そのとき若山先生が的確な指示を出してくれて、途中の病院に緊急入院の形で担ぎ込まれたという。たった5日間で意識も薄れ、歩行もままならぬ体になったのだから恐ろしい事だ。

 モルヒネ系の痛み止めの薬は体内に蓄積される事で知られるが、がんセンターではボクの体力に合わせて使っていたようだ。普通の病院なら、がんセンターからの資料を読めば理解できた筈なのだが、何故だか大量に渡されたのである。何しろ九死に一生を得たのだが、82歳の老人には大打撃であった。結局、緊急入院になったために、ノーチョイスで救命処置を受ける事になってしまったのである〉

 結局巨泉さんは、集中治療室を出ることなく、息を引き取った。コラムの最終回が掲載された直後、この在宅ケアの医師から寿々子さんと哲也さんに連絡があったという。

 「医者からは『申し訳なかった。てっきり(巨泉さんは)緩和ケアをするものだと勘違いしていた』と電話があった。

 兄と私たち家族が望んでいたのは、最後に好きなことをして逝くことでした。でも結果として、兄は、最期においしい物を食べることも、ワインを飲むことも、ゴルフをすることも何も叶わなくなってしまった。まさか寝たきりになってしまうとは想像もしていませんでした」(哲也さん)

 巨泉さんはかつて最初の胃がんを患った時に「がんを治すのは医者ではなく、自分自身の力です」と語っていた。

 その言葉通り、4度のがんを乗り越えてきた。だが、結局最後はベッドに寝たきりのまま、亡くなってしまった。

 本来なら「さようなら、逝ってくるよ」と軽口を言って旅立つはずだった。あのモルヒネの誤投与さえなければ……。巨泉さんと残された家族の無念はあまりに大きい。

 「週刊現代」2016年8月6日号より

 
私が巨泉さんは、いいい死に方をした、と書いた理由は、自分が望んだように、ポジティブな生き方を最後まで貫けた、ということである。病気治療のプロセスでは予想外の問題がおこることもある。このモルヒネ系鎮痛剤の過剰投与もその一つだろうが、普通なら、モルヒネ系鎮痛剤の効果は、大体4時間から6時間だから、おかしいと思ったら飲むのを止め、貼り薬ははがしてしまえばいいのだが、巨泉さんのように高齢で、体力の弱っている方には、呼吸困難の他に予想外の逆効果が出てきたのかも知れない。また彼が運ばれたICUの感染率の高さはよく知られてことでもあり、ICUでの感染が原因の肺炎で亡くなる人も多い。数々の障壁と困難に最後まで闘った人、というのが巨泉さんついての私の印象である
ところで、巨泉さんのような癌の再発と死というような場合に直面したら、私達のチョイスは?という問題をこのご家族の怒りの告発記事は私達に考えさせませんか?うがった見方をさせてもらえば、医者として、最後まで手術や抗ガン剤の投薬をおこなってみたい、というスタンスの方も多いのです。
 
私の友人は、巨泉さんとは正反対に、ホスピスケアを選んで亡くなりました。彼もいい死に方をしています。
 

愛するアリゼ and/or ムカつくw

 
 
 
 
Alizee, アリゼちゃんは、日本では、「恋するアリゼ」と銘打ったブルボン・クッキーのCMですっかりおなじみに。
ナポレオンと同じコルシカ島出身、最初で最大のヒットソング、『私はロリータ 』 ‟Moi, Lolita” で一躍ヨーロッパのロリコンおじさん達のアイドルに。
彼女のパーフォーマンスを見れば理由は一目瞭然、説明の必要なし。
しかし、ロリコンおじさん達を「ヘンターイ」と呼んで一方的に断罪してしまうのは極端に一方的で、フェアじゃないような。
 
拙ブログで記事にした『旅の重さ』という映画、これは主人公の思春期をテーマ
にしている。思春期には、性ホルモンの分泌がはじまり、いよいよ生殖モードに突入。つまり、女(の子)の方もパートナー探しに忙しくなるというわけ。性ホルモンはムードに影響するから、反抗期の幕開けである。
 
『アイドルを探せ』、1963年、のシルヴィ・バルタンは今日でも日本のシャンソン界の永遠のアイドルだが、歌詞は、「今夜のダンパー(これ、今の日本では死語ですね)で女王様になって、今日こそは好みの男を捕まえてやる」というもの。しかし、これでは日本語の題が与えるイメージと歌詞との間にちょっと差があり過ぎないか? こんなことを書くと、ムードを壊すなと逆切れされそうだ。何しろ、おフランスは愛のメッカ。
 
誰だ、彼女に捕まりたい、と思っているのは。
 
能書きが長くなって申し訳ないが、日本では、『恋するアリゼ』、原題は ‟J'en ai marre”, 気分悪い、つまり、「ムカつくw」 (これ、拙訳)。だから、恋とは関係ない。
 
ところでアリゼちゃん、何にムカつくって? 
 
これ、私の問題じゃない(つまりあなたに問題が=フランス人の決まり文句)
これが私の癪に触るもののリストよ
 
不平不満ばかりで
どこへも行きようがない
固定観念から
私への批判を止めない人には
本当にムカつくw
でもその人がホンモノのテロリストなら話は別。
 
社会は暗黒、私を偽善者とレッテル貼って
大物ぶってる人(お局様)
すべてが気に入らないと、いつも
泣きっつらの人。
ムカつくw
 リストは延々と続くのだが、最後は
ワタシね、ムカつくことにムカつくw
これ一体どーゆーこと
 
ところで、彼女のMVを見た人は、アリゼのセクシーなダンスはナンだ
と思うはずだ。実は、歌詞によれば、彼女はバブルバスの真っ最中
金魚さんと一緒に、というわけで、歌う彼女のバックには赤い金魚。
 
見て、私のすべすべしたお肌
バブルバスの中
全く平穏
身体も心も
すっかりリラックス。
 
ところが、出ました、日本のアリゼちゃんこと、鏡子ちゃん、ノーパン、割れ目チラリだそうですが、アリゼちゃんの見事なコピーキャット
 
おーい、金魚がないぞ!は英語コメントからでした。
 

 

小野田寛郎が終戦を知らない残留日本兵!?

小野田寛郎は終戦をフィリピンのジャングルで知っていた。皇太子のご成婚も知っていた。
以下の記事を書いたNHKは国民から受信料を受け取る資格なし。
 
 
太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日本陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日本に帰国したときは、日本中が沸き立ちました。
小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者)    
 
この3億円は、事実上のHush Money= 賄賂。もちろん受け取り人は当時のフィリッピン独裁者、マルコス大統領 。 この金は、ルパング島はおろか、犠牲者の家族になど、一銭も渡っていない。 
 
以下はウィキから
 
 小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
 
太平洋戦争の終結をしらないまま、とウソを平気で報道するNHKに対して、日本の歴史学者からは一言も抗議が出てこない、とは何と悲しいことだろう。
 
以下は小野田寛郎の終戦からルパング島脱出までの30年だ。
 
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。島を防御する予定だった日本軍は崩壊。少数の兵士は山中に逃亡。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と4人グループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
     1945年12月 二度目の勧告ビラを見る。山下奉文将軍名による降伏命令である。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけ。同年3月下旬まで計41名の日本兵が投降。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田少尉をリーダーとするの4人のうち、赤津一等兵が投降に成功。というのは、小野田組からの脱出を3回繰り返し、捕らえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功したという。フィリピン軍に保護された赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ山中に潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と書いた。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いた。
  • 小野田グループの島民襲撃、殺害、略奪が続く。フィリピン政府は軍の討伐部隊を送ることになった。最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見された。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国
小野田寛郎は、上記中の日本政府の捜索を隠れてじっと見ていた。後で家族が残していった手紙や雑誌を読み、住民から奪ったラジオの日本語放送で、競馬放送を聞いたそうだ。
 
1975年に小野田寛郎グループの迷惑料に3億円、2016年には、韓国人慰安婦に対する迷惑料にわずか10億円。
日本政府は寛大なのか、ケチなのか?理解に苦しむ。
 
 
 
小野田さんの来ている軍服もどきのシャツですが、明らかに島民から奪ったものですね。ひょっとして被害者は彼が殺した人かも?