chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

日本の秘められた恥:伊藤詩織さんの準強姦訴訟

Sekiyannさんの反アベブログに英BBC制作のドキュ‟Japan's Secret Shame” というのが紹介されてました。それをググってみるといくつかネットに掲載され、フリーで見れます。このドキュは伊藤詩織さんというフリージャーナリストの準強姦事件を扱ったものです。
 
彼女は去年カミングアウト。アベの取り巻きジャーナリスト、事件発生当時TBSワシントンDC局チーフだった山口敬之氏を強姦加害者として告発したのです。この事件は2015年にさかのぼる。被害者詩織さんの全面協力で警察の捜査がなされ、結果として山口容疑者に逮捕状が出されました。ところが警察署員が成田空港で容疑者到着を待機していたところ、上からのつるの一声で逮捕状がドタキャンされたのです。
これについてはアベ政権による司法権の干渉だという疑惑が国内外で高まっています。
 
検察側の言い分は証拠不十分の一点張りだそうですが、このケース、一般の密室タイプのレイプケースに比べると証拠ははるかに多いようです。それだけでも裁判に値すると思われます。私達には誰でも公平な裁判を受ける権利があるのですから。
しかし裁判自体は必ずしも詩織さん側の期待にはつながらない可能性もあります。これが民主主義下の裁判なのです。
山口敬之氏については、米の公文書を誤訳した(?)事で有名です。米軍のお役所文書の関連個所には『慰安所』については一言も書かれていません。誤訳か捏造か不明ですが、これが原因でTBSを退職させられたトンでもジャーナリストのようです。
 
詩織さんのケースは、あのケネディ家のレイプ事件を思い出させてしまいます。
その事件は1991年、フロリダのパームビーチという金持ちの遊び場で起こったのです。
容疑者は故ケネディ大統領の甥で当時インターン医師だったウィリアム・スミス、被害者は地元在住のやはり金持ち女性でした。
この事件の関係者として当時上院議員の故エドワード・ケネディと彼の息子で政治家のパトリックがいます。
彼等ケネディ家の三人は深夜に地元のバーに出かけ、二人の女性をパームビーチのケネディ家の別荘に連れ帰ります。その後、ウィリアム・スミスと被害者女性は二人きりで別荘の外にいました。被害女性によると、ウィリアム・スミスは突然彼女を芝生に押し倒しレイプしたのです。その時被害者は大声で助けを求めたそうですが誰も助けに来なかった。
当然ながらこのレイプ事件の裁判は米国で大きなセンセーションとなりました。何しろ、加害者側はあの名門ケネディ家です。この事件が報じられた当初から、エドワード上院議員は激しい批判にさらされました。彼とて女性問題では過去がある人だからからです。
ケネディ家は大金を払ってフロリダ州の著名な刑事弁護士と全米で著名な裁判員専門家を雇ったのです。地方裁判所の検事は弁護士資格をとったばかりの新人も多く、法廷プロにとっては赤子の手をひねるようなもの、というのが常識です。この裁判はレイプ事件として米で初めての公開裁判となったのです。しかし、悪い予想が当たったかのように、女4人と男2人で構成された市民の裁判員はわずか77分後に判決を出してしまいました。
無罪です。
理由は、被害者の身に着けていたドレス・下着には抵抗した跡が全くない、よってこれは合意だと判断されたというのです。事件時に被害者が身に着けていたのは、あのビクトリアシークレットの黒いレースパンティだったことも被害者に不利に働いたようです。
 
この判決に対して被害者側に立った人達はマスコミを通して激しく抗議しました。
この間終始口を堅く閉ざしたままのケネディ家メンバーに対しての批判も凄いものでした。この事件でケネディ家の神話が崩壊した、とまで言われる有様でした。
とりわけ注目すべきは裁判中に女性の裁判長が過去に加害者にレイプされたという女性3人の証言を二度拒否したことから、誤審だという声が上がった事です。
 
この声に押されて、1994年には、米下院によって過去の強姦被害者の法廷証言を無条件で認める法が通過しました。
 
ところで、2004年、無罪となったスミス医師は自分が運営している医療慈善団体で働いていたある女性からレイプによる賠償金請求の民事訴訟を起こされています。しかしこの女性、レイプ後も数回にわたり合意で行為したとかで、訴訟却下となりました。
2005年には、やはりスミス医師が運営している医療慈善団体で働いていた既婚女性とのセクハラ事件でスミス医師は多額の慰謝料を払わされています。この女性は当時妊娠していましたが、スミス医師は妊娠した女性の性的魅力がたまらないとかで、この女性をストーキングしたそうです。
 
詩織さんの準強姦ケースはすでに民事で裁判が開始されています。日本は裁判官裁判ですから、コンセントに関して米よりもっとハードルが高いことが予想されます。
下のは米女性に絶大の人気を誇るビクトリアシークレットののレースパンティ。
2 Pairs Of Victoria's Secret Panty Size XL Dream Angels Cheeky And Body Shortie
 
一枚$20=¥2100です。
ビクトリアシークレットのファンによると、実際に履けるのはせいぜい3回が精いっぱいだそうです。高すぎるという不満がのってました。

肉の日BBQ:今日のランチ

日本では毎月29日は肉の日だそうですが、こちらは7月4日の独立記念日という連邦大祝日、つまり、庶民には『BBQと花火の日』が控えています。そこでどうやらBBQの日が待ちきれなった拙娘がBBQレストランで買ってきました。下がそのBBQです。右は牛スペアリブ。左側はスライスしたのが牛ブリスケット。それからプルドポーク、名の通りバラバラにほぐした豚の肩肉。BBQソースがついてますがこのソース、レストランの秘伝だそうです。
 
 
ところでBBQレストランは結構高い。1パウンド=約450グラム、が1500円ぐらいですから上のはトータルで6000円ぐらいだそうです。というのは写真を撮る前に娘がすでにリブを数本食べてました。これに食パンがついてきてサンドイッチにして食べます。肉の味もよく、ここのサンドイッチは結構おいしかった。まずいレストランのは、ソースが甘過ぎたり肉がパサパサで硬過ぎるのが特徴です。
 
ところでBBQは普段私達もよくします。BBQに使う肉はブリスケットですが、これは牛肉の肩の部分。硬いのでステーキや焼き肉には向いてません。このブリスケットは4-5パウンドの塊を買います、南部は物価が安いので大体4000円前後です。それを一晩BBQソースに漬けて、翌日BBQグリルに放りこむわけです。少なくとも4時間かかります。BBQグリルを使わないでオーブンで料理してもいいです。実はオーブンの方が失敗しないでいいんですけど。じゃなぜBBQ?
 
答えはビールですね。バカ話しながらパテオで飲むビールがたまらない!ホームBBQに呼ばれたら、手みやげとして何か一品、たとえばサンドイッチ用のバンズ(パン)とか自家製ポテサラでも持っていけば大歓迎されること請け合い。ポテサラで凄かったのは、インスタントのマッシュポテトをマヨネーズで混ぜたものを持ってきてくれた人がいた。それでも誰も文句なし。サザン・ホスピタリティです。それとシックスパック(小瓶6本入り)の自分好みのビールをお忘れなく。拙者の好みはコロナというメキシカンビールだったのですが、何となくここ数年間禁酒してます。それでアイスティーです。

からゆきさんから慰安婦へ

迷えぬ羊の独り言  
 
日本に住んでいる日本語人なら❝からゆきさん❞という名を一度ぐらいは聞いたことがあるはずだ。しかし現在では❝ジャパゆきさん❞の方がもっとポピュラーなのではないだろうか。
歴史の中のからゆきさんとは戦前海外で売春を強要された日本女性を指している。強要された、と書いたのは、これらの女性達は日本の悪しき風習である身売りの犠牲者だったからだ。
 
からゆきさんの歴史的存在は山崎朋子の『サンダカン八番館』(1972)や森崎和江の『からゆきさん』(1976)に負うところが大きい。この方々の努力がなければ、からゆきさん達は固く口を閉ざしたまま世を去り、歴史の奥底で忘れ去られてしまった可能性が大きい。この点でもからゆきさんと日本人慰安婦との類似性に注目すべきである。
 
慰安婦関係の著作や論文には必ずといっていいほど慰安婦の先駆けとして❝からゆきさん❞があげられている。それでからゆきさん関係の本や文献を主としてネットで漁った。
英語圏からもいくつかのKarayuki-san論文やシンガポールの強制売春についての著名な本 『AhKu and Krayuki-san, Prostitution in Singapore 1870-1940』(2003) を参考にさせてもらった。 
 
❝慰安婦❞❝からゆきさん❞も非情な歴史の犠牲者達であることには変わりないと私は思っている。
 
さて、歴史の中の❝からゆきさん❞とは、明治末期から第一次大戦後にかけて活躍した海外の日本人売春婦達のことである。活躍という言葉を用いたのは、海外、たとえば、シンガポール、満州、米国西海岸等で、日本女性売春婦として社会現象として目立つ存在となったということである。
 
上のはいわば「広義のからゆきさん」で、「狭義のからゆきさん」は、山崎朋子や森崎和江のからゆきさんで, 当時南洋と呼ばれた、中国南部の香港、シンガポール、マレー、ボルネオ、インドネシア、で強制売春をしいられた日本人女性達を指している。
 
「からゆきさん」という名はユーフェミズム(過酷な現実を茶化した名)であり、「唐人お吉」と同様に外国男の娼婦となった女を指している。この名はは九州北部のからゆきさん出身地あたりから広まったと書かれている。当時の日本人は彼女達を醜業婦とか女郎と呼んだ。要するに遊郭の売春婦のことである。当時日本人の間できわめてポピュラーなもう一つの呼び名は❝娘子軍❞であった。
娘子軍もユーフェミズムであるが、これなどは史実をある程度反映しているかもしれない。
歴史的には人身売買を基盤とした売春業は鎖国下の農耕国家日本の重要な産業の一つとなっていた。今でいうエンタメ業と風俗・飲食を一緒くたにしたものと考えたらよい。
この売春産業は鎖国化の日本の格差社会、少数の支配者と大多数の農民及び貧民=日雇い労働者層という社会経済的構造下で生まれた。 
明治維新による開国で、多くの日本人が飢餓からの解放と一攫千金の夢を抱いて海外に向かったのだが、絵に描いたような成功者は希だったようだ。その中で明治政府が必要とした外貨獲得に貢献したのがからゆきさんであった。彼女達の相手は当地の外国人であった。彼女達の滞在先でからゆきさんの必要品を供給する日本人達の商売がはじまり、そこに日本人達が集まるようになった、いわば彼女達が日本人進出の足掛かりとなったわけである。日本を遠く離れた辺境で外国人相手に身体を張っての儲けぶりに、一足遅れにやってきた日本の男達は感心せざるを得なかった、というのが娘子軍の由来だそうだ。こういったからゆきさんの存在は日本を離れて情緒不安的になりがちな日本人移住者達の心の支えにもなった、というのだ。娘子軍は後に慰安婦を指すようになる。こちらは身体をはっての愛国サービス、というわけで、この呼び名は明らかに戦時下のナショナリズムに繋がっている。
 
歴史上のからゆきさんについて重要なイシューが存在する。それは彼女達が渡った外地の法律である。からゆきさん達の行く先は二つに分かれる。一つは上海なの中国の日本租界、満州や朝鮮半島のように日本の勢力下にあった地と、もう一つは米国西海岸、ハワイ、英領南洋、オランダ領インドネシアのように、宗主国の売春規則法に従わなくてはならない外地であった。後者は登録売春婦制である。登録売春制は日本の研究者が唱えるような、娼婦の国家管理を目的としたものではない。私は日本の研究者が上のような誤解的見解を持ち出す理由がわからない。
 
ヨーロッパではじまった登録売春制の目的は性病の伝染拡大の阻止であった。性病、とくに梅毒は今日のエイズのようなものと考えてよい。ヨーロッパでは梅毒が15世紀末から住民を恐怖で震撼させ大きな社会問題となった。売春婦は神の教えに背くインモラルな行為に従事し、梅毒の犠牲者となった売春婦は神の罰を受けたと考えられた。聖職者達は売春の悪について熱心に説いたのだが、それでも売春はなくならないし、梅毒患者も多く出た。
しかし特にナポレオンの時代のように大規模な国民軍を必要とするようになると、軍隊内の梅毒感染率の高さは国家の興亡を左右する深刻な問題と見られるようになった。
当時一般兵士は独身であるので軍の駐屯地には売春宿はつきものだった。そこで兵士相手の売春婦を登録制にさせ、二週間に一度軍医による局部検査が義務つけられ、梅毒と認定された売春婦は一か月から一年に及び病院に強制収容された。彼女達はその後元の軍相手の登録売春婦には戻れなかったようだ。
しかし19世紀後半になると登録売春婦制度は英仏本国では女性に罪をなすりつける人権蹂躙だと批判され、すでに廃止されていた。しかしこの法律は植民地では施行されていた。その理由は植民地では自国の女性を売春船や売春宿に監禁しあくどい金儲けに徹する外国人がいたからだ。それは日本人と中国人の遊郭業者であった。犠牲者であるはずの売春婦も客の手をひき熱心に客を勧誘した。

今日のランチ

今日は朝食抜きでアップスケール(=上流)のスーパーへ。そこには下のようにコーヒーのサービスがあるので、ここでコーヒーをちょっと一杯。下のプチカップが私のです。スタバ並なのでこれで十分。スタバといえば職場のスタバのコーヒーで一度病気になったことがありました。
アップスケールなので値段はあの庶民のスーパー‟ウォルマート”の2倍以上。オルガニックが多いです。それにエントランスには制服姿で拳銃を腰にさしたバイトの警察官もいません。つまり万引きがないってこと。すべてがクリーンで品の良い客ばかり。故郷に帰った気分というのはかなり言い過ぎか。
 
 
 
 
そこでワンコインランチ見つけました。寿司ですが500円です。その場で作ってます。ナンチャラ寿司という名がついてましたが、中はアボカド、ツナとキューリ。上に例の鼻につーんとくるわさびグリーンピースのかけらがパラパラと。
いわばクランチ🍣すし。これいつもは1000円です。水曜日は半額。
 
 
美味しかったかって? 私は食べられれば何でもOK.
 
ただフランスの学食で遭遇した腸のトマトソース煮はダメ。最初はスパゲッティかと思ってぬか喜びしたのもつかぬま、それが恐怖に変わったあの恐ろしい思い出は今でも忘れられない。
あの頃のフランス料理は今のとは格段の差があるようだ。

わが朝食:その2

グッドモーニング!といってもランチタイムでした。拙娘がトルティーヤを手作りしておりました。形がおかしいのはそのせいです。味もそこそこですが腐敗防止の食品添加物が混ざっていないだけましです。そこで遅い朝食になりました。
さっそくブレックファーストブリトーを作ってみました。これ日本のマクドにもあるのでしょうか?米では人気の朝食メニューです。
 
スクランブルエッグに娘が料理したタコス用の牛ひき肉をちょっと失敬。いつものように味なし。それに刻みトマトとシラントロ、こちらは日本ではパクチーと呼んでいますが、これこそメキシコの国民野菜、だとメキシコ系の親戚の人が言っておりました。そして市販のオルガニック・サルサソースと塩代わりのケソフレスコ(フレッシュチーズ、白いのがそうです)を上からかけてトルティーヤでクルっと巻いて食べます。味の方は結構いけます。拙愚娘にサンキューと一言声かけて食べました。もう舞い上がってました。
 
朝起きたてなので、画面までぼやけていますが、下が我が手作りのブリトーです。
 
 
 
下はメキシコ及びチカーノ(メキシコ系米人)の国民的チーズ・ケソフレスコ、ラージサイズで¥1000ぐらいだそうです。何にでも塩代わりにパラパラとかけます。ナマのモッツァレラチーズに近い。
 
 
ここで今さっき見た(聞いた)TVの最新ジョークを一つ 
 
‟トランプと金正恩の会談場所のシンガポールのホテルは(と地図をみせながら)、ゴルフコースまで車で一分、KFC(ケンタ)まで車で5分(笑)”
 
トランプの好物はマクドのビッグマックにケンタのフライドチキン、オレオクッキーなどのジャンクフード。
 
さすがにタコスやブリトーは入ってません。被害妄想による彼の敵はラティノ(メキシコ・プエルトリコ系)です。
 
トランプ、はよ死ね!  (60%の米市民の声):

アイリス・チャン: 南京レイプ

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前回では、1937年(昭和12年)12月の南京攻略・大虐殺を境として日本国内で従軍慰安婦の勧誘が起こったことを書いた。翌1938年には、中国大陸前線各地 に帝国陸軍専用の慰安所が次々と設置された。前述の麻生軍医の陸軍への意見書(1938年)はこういった背景のもとで書かれたものだった。彼は上海で最初の陸軍特殊慰安所設置に関与している。この慰安所モデル(=一般兵士を対象とした清潔な公衆便所)が中国前線に普及したと考えられる。一般兵士向けと書いたのは、将校向けは公衆便所ではなく、高級料亭や当時流行っていたカフェをモデルにしたものだからだ。これは今日の水商売モデルに繋がっている。
 
ところでその南京大虐殺であるが、戦後、東京戦犯裁判で1948年に責任者は死刑に処せられた。
その後、中国共産党の中華人民共和国との国交回復は1972年であり、1949年の共産中国成立以来23年間日本と中共とは国交がなかった。
しかも1970年前半は中国は文化大革命の真っ最中。国交回復に関しては南京虐殺は別に大きな障害とは見られていなかった。むしろ尖閣諸島の所領がイシューとなりかけた。
日本は戦後経済高度成長を維持し、1980年代になって日本経済はピークを迎えようとしていた。後進国中共の南京事件などはすっかり忘れ去られていたはずだったが、寝た子を起こす人が現れた。当時朝日新聞記者だった本田勝一氏である。彼の「中国の旅」は朝日新聞に連載され、戦後生まれの戦争を知らない新左翼世代に大きな反響を呼び起こした。本田氏が三光作戦、南京大虐殺、百人坑(百人斬切り)などの日本軍の残虐行動を、天下の朝日新聞で白日の下に晒した格好になった。
しかしこれに対抗するがごとく、1973年、鈴木明氏の‟南京大虐殺のまぼろし”、が出版された。この本こそが、今日の、南京レイプはなかった、という都市伝説の始まりだと私は思っている。しかしその鈴木氏も南京虐殺までは否定することは出来なかった。
ところで今年5月に再放送されたNNNのドキュメンタリー「南京大虐殺II 」がYouTubeに載せられている。真相を究明したいという日本側の努力の結晶であり、ぜひ英字幕を付けて欲しい。
 
しかし、これは日本国内の事であり、戦後の中共の孤立化によって南京大虐殺は第二次日中戦争の歴史の一コマとして歴史の埋もれていた。それを‟忘れられたホロコースト”と銘打って一晩で世界的に有名にしてしまったのがアイリス・チャンだった。彼女による1987年の‟The rape of Nanking” (=ザレイプオブ南京)は3か月に渡ってNYタイムスベストセラーのリストに入っていた。
 
そのアイリス・チャンをYouTubeで検索してみた。YouTubeには生前の彼女のインタビューや講演がいくつか掲載されている。
YouTubeには南京大虐殺 のドキュメンタリーとして、‟Rape of Nanking , Atrocities in Asia”、があったのでそれを見た。
当時南京に残って南京占領を体験した外国人達、米人医師、金陵女子大の学長だった米女性、南京のナチ代表のドイツ人ジョン・ラーベ、米人記者、になったつもりで俳優達に彼等が残した証言を語らせる形とドキュメンタリーで構成した米Film ‟ The Rape of Nanking 、2007‟ があったのでこれも見た。
 
アイリス・チャンとのインタビューはC-span(米有線公共放送)のブックチャンネルのがよかった。聴き手の質問が鋭かった。例えば、アイリス・チャンとの中国系団体との関係についてである。この団体は日本戦争犯罪を世界に忘れさせないことを目的としている。アイリス・チャンはこの団体からかなりの援助を受けたようである。
番組中に、このフォトのソースは?とか、このエピソードのソースは、とまるで詰問口調で次々とアイリス・チャンに質問を浴びせていたのには驚かされた。
アイリス・チャンはそういった質問に理路整然と答えていた。すごく頭のいい人だったようだ。
 
なぜ、南京レイプなのか?
1937年に帝国陸軍と中華民国は開戦した。その年の12月、上海占領後、中華民国の首都であった南京に兵団を進めた。ここで一挙に中華民国の首都南京を攻め、蒋介石に中国における日本の覇権、すなわち利権(領土割譲なども含めて)を確立する為だった。
ところが、蒋介石はいち早く南京から奥地の重慶に政府まる抱えで撤退、帝国陸軍の歩兵部隊が上海から南京に到着した時には南京政府はもぬけの殻。全くの無政府状態におちいった。後は日本軍の入城を待つばかりというわけで、家々には日の丸が掲げられ、置いてきぼりをくった兵士達は軍服・武器を棄て一般市民の中に紛れこんだ。
事実は南京は日本軍が到着するまでの100日間、毎日朝から無差別爆撃にあっていた。市は連日の火事や建造物破壊で大混乱し、多くの住民は城外に逃げていたのだが、外からの避難民や国民党兵士達が市内にあふれつつあった。
そこに到着した帝国陸軍は、中国人の男を国民党兵士と言って集団連行した。裁判も何もないまま、彼等は後ろ手に縛られたまま集団処刑された。陸軍の報告によれば、実際に投降した国民党軍2万人あまりを最初の2日間で全員虐殺してしまった。その後は、一軒一軒のハウスサーチをして、金品を略奪、男は連行、女はレイプし、その後の軍の処罰を怖れて殺した。現地女性のレイプは帝国陸軍では重刑であった。老人、子供もみさかいなく殺した。
市の街頭は死体で溢れ、揚子江は数万の惨殺死体で一挙に血色に変わったと言われた。この南京には27人の西洋人が残っていた。そのうち数人は新聞記者であり、13日の日本軍入城から2日後の15日には、揚子江を上ってきた米軍砲撃艦オアフで電信を送ることに成功した。もちろん、日本軍は厳密な箝口令を出し、残留西洋人が南京を脱出することを禁じていた。
速くも12月15日付けでシカゴデイリーが南京大虐殺を報道した、続いて全米各地にニュースは広まったのだ。
 
あの麻生軍医はカメラが趣味で、1938年のはじめに上海で日本人写真家と一緒に写真を現像したことを日記に記録している。多くの写真は前線の日本兵が写したものだったそうだが、たくさんの残虐写真があったそうだ。それらは軍の検閲にそって廃棄したと自ら書いていた。しかし、彼は南京事件のことは詳しく知らない、そういった軍による集団殺戮については聞いてない、と戦後報告している。
 
アイリス・チャンは 帝国陸軍が2万人の国民党軍捕虜を皆殺しにしたのは上からの命令であったと述べている。その後3か月に及ぶ民間人虐殺・レイプもこの無血入城を利用して、中国人に皇軍の怖ろしさを徹底的に憶えさせるという戦略であった。
彼女は、日本兵士達の残虐行為の理由は明確ではないが、兵士達は皆残忍な私的制裁を日常としていたこと、そのトラウマが中国人に対する怒りとなって爆発したのではないか、と述べている。その背景には、異様な中国人蔑視がある、と指摘していた。南京で行われた事は、南京を中心とした中国人人口の絶滅化であり、ユダヤ人へのホロコーストと全く変わりない。
 
南京市街の中心部に安全地帯が南京ナチのリーダーだったジョン・ラーベによって設置されたのだが、その中の金陵女子大学キャンパスに避難した女子学生を狙って日本軍は毎日押しかけてきた。
今日世界的に有名となったジョンラーベの日記はアイリス・チャンによって再び日の目を見るに至った。
アイリス・チャンはあのような日本軍の行動を、ローマ帝国を滅ぼしたフン族のアッチラ大王やモンゴル軍団と同様だ、と述べていた。