chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

ケネディ大統領は覚せい剤常習者!?

米の偉大な大統領の常連はワシントン(=独立戦争の勝者)、リンカン(=奴隷解放)、ルーズベルト(=第二次大戦の勝者)の3人。大体それに続いてJFK(=ジョン・F・ケネディ)といったところか。彼は当時のソ連首相ニキータ・フルシチョフと対決しミサイル危機回避で世界を原子力戦争から救った英雄である。一方国内ではキング師を支持、黒人と女性の公民権確立の足固めをした大統領だった。JFKは史上最年少で大統領に選ばれながら任期半ばの19631122日にテキサス州ダラス市をオープンカーで遊説中に暗殺されてしまったという悲劇の大統領でもある。今年はちょうど彼の暗殺50周年にあたっている。

 

Dr. Feelgood”(=気もちイイ)の目新しさはJFKと覚せい剤の繋がりを真っ向から主題として取り上げているいることである。

実はJFKが覚せい剤の成分のアンフェタミンにはまっていた事自体は目新しいことではない。だがJFKに覚せい剤を供給したドクターとその辺の事情を詳しくレポートした本はおそらくこれが初めてだろう。

しかし、JFKに関連した部分は全体の半分もみたない。その上この本はわずか170ページしかなく、従来のケネディものとしては短か過ぎる。

案の定、説明不足で納得のいかない箇所がかなり出てきた。

特に結論としてJFKの覚せい剤中毒が原因で彼が次期大統領に選ばれるのを恐れたCIAFBIの陰謀説の可能性を強く示唆しているのはこの本の真実性を著しく損ねているように思えるのだ、これではあれだけの時間とリサーチが無駄になってしまう。

 

覚せい剤の成分はアンフェタミンだが、俗にスピードと呼ばれている。名前の通りアンフェタミンは脳の中枢神経を刺激し思考や運動効果を高める。

第二次大戦中にはドイツ軍や日本軍がこれを大量に使ったことはよく知られている。この薬を取ると24時間ぐらいは眠らないで全く平気でいられるからだ。しかし使用後には極度の疲労感に襲われるのだが、その際鬱症状をともなう事が多い。それが進行すると思考過程が被害妄想・錯覚幻想に影響される。

アンフェタミンは戦前から民間でも広く使われていた。日本ではヒロポンという市販薬の名で知られ、これも偶然ネットで知ったのだが、故昭和天皇でさえヒロポンを使った経験があったようだ。

しかし今日では薬物規正法によってかってのように自由に手に入れることは出来ない。だから巷では家庭用化学物資から作られた自家製ものが売られているので非常に危険であり、ヘロインと共に死亡原因の高い危険な麻薬ということになってしまっている。

 

Dr. Feelgood”は米国の著名な雑誌編集者二人、Richard A. Lertsman William J.Birnesによる綿密なリサーチの成果だと銘打っている。AMAZONでは★★★★にランクされ、すでに86人がコメントを寄せ、大多数はこの本を好意的に解し高い評価を与えている。

というのは、暗殺後JFKのすべてがそれこそ重箱の隅を爪楊枝で突っつくように暴露された結果、今日、JFKを若くて長身のスポーツマン、ハーバード出身の頭脳明晰なイケメン大統領、という当時のケネディ側によって作られたイメージを素直に信じる米国人はむしろ小数派になってしまったからである。

 

私はこの“Dr. Feelgood”を読んた後、ネットで少しリサーチをしたのだが、今年になってJFKの投薬記録がやっと公開されたことを知った。

 

よく知られているように、JFKは当時の彼の医師が一般向けに公開した健康証明書とは裏腹に、生きているのが不思議なくらいの病気持ちだった。JFKは子供の時から格段に病弱で入院・退院を繰り返していたのだが、小学校の時の盲腸炎手術が恒常的腸炎につながったらしい。それで炎症抑制の目的でステロイド(副腎皮質ホルモン)の投薬を受けた。この副作用で副腎皮質が破壊され体内でにホルモンが分泌されなくなりアディソン病と診断されたのは第二次大戦直後のロンドンであった。その為JFKは一生ステロイドを体外から摂取しなければ生きられない身体になってしまった。このステロイドには数々の副作用がある。性格変化もその一つである。

背骨の痛みというのも、ステロイドの常用が背骨の問題箇所を損傷させた結果ではないか、というのがネットでの多数派となっていた。

その痛みを解消する目的で背骨の手術をしたのだが、局部が濃化してしまい手術は失敗に終わった。身体の感染抵抗力の低下もステロイドの副作用の一つなのである。

 

従来のステロイドの投薬を続けるかたわら、JFKは背骨の激痛に悩まされることになる。だから彼は鎮痛剤を数種類常用していたのだが、これらはいずれも今日米国で施行されている薬物規正法で麻薬として規制されている。

しかし、麻薬と同等の鎮痛剤の量には制限があるので、一日3回ぐらいの割合で、局部麻酔薬を背骨の問題の箇所に注射していた。

彼のような重病持ちには不安感がつきもので不眠におちいりがちであるから、彼は精神安定剤も常用していた。その他にも有名なのは、テストスタロンという男性ホルモンの常用である。これはこの本でも、JFKのセックス狂いの原因ではないか、と指摘されている。

 

JFKの背骨の箇所は常時局部麻酔にかけられていたといっても誇張ではない。だからJFKは感覚を失った背骨を常時コルセットで守っていた。暗殺された時も同様であった。だから一発目が喉を通過し意識不明に陥った際も席に崩れ落ちることがなかった。その同じ弾丸が、前席に座っていたコナリー・テキサス州知事の背中から肺を撃ち抜いたのだが、知事の身体はたちまち崩れ落ちた。左横の妻の膝の上に抱えられた為に一命を取り留めた。しかしJFKはこのメタル製の頑丈なコルセットのせいでジャッキーに支えられまるで標的の案山子になり、二発目の弾丸が彼の右側後頭部を脳もろとも吹き飛ばしてしまった。だから、もしコルセットをつけていなければ命は助かったのではないか、というのが、暗殺地ダラスでJFKを担当した医師の見解であった。

 

この本では、JFKは自分の健康状況をよく把握している人として描かれている。それにもかかわらず、TVではアジソン病であることを明確に否定、自分を若さと健康のシンボルのように米国の大衆に見せかけた。

 

大統領選最中の1960年、JFKはニクソン候補とのTV討論を前に深刻な鬱状態にいた。政治的討論は副大統領ニクソンのもっとも得意とするところ。そこで、JFKは当時NY(ニューヨーク)で映画界やスポーツ・芸術界でミラクル・マックスと評判のあったある医師と密かに会った。 

 

マックス・ヤコブソン医師はホロコースト前夜にユダヤ避難民として米に到着した。プロシア国境のポーランド側村出身だが、ドイツで教育を受けたユダヤ人医師である。1900年生まれだから当時60歳。しかし、彼も年とは思えないほど非常に若々しくエネルギッシュに見えた。その秘密は、彼自身が作り出したビタミン注射である。しかし成分は秘密。後にJFKの弟ロバート・ケネディ司法長官の依頼でFBIが検査し明らかにしたところでは、ヤギや羊の血清にビタミンB類、及び、さまざまの動物の性ホルモン、人間の胎盤ホルモン、それから多量のアンフェタミンを溶解したしろものであった。

 

NYにはナチスの迫害前夜に一足早く避難したユダヤ系の映画人やアーティスト達のが集まっていた。そのつてからヤコブソン医師のビタミン注射はスランプを抜け出させる注射として評判を得ていた。もちろん中身は覚せい剤であるから、当然といえば当然なのだが。

彼はミラクル・マックスとか Dr. Feelgoodというニックネームで呼ばれていた。Dr.Feelgoodの方は、大統領のシークレットサービスによってホワイトハウスに出入りする際のコードネームに使われた。

 

そこでJFKも彼のビタミン剤をその場で試してみた。効果絶大。たちまち大統領の背骨の痛みは消失、再びどんどん歩けるような気がする、とまでJFKは言ったそうだ。彼は大統領に明日の討論の前にこのビタミン剤を飲むようにと1びん手渡したのだが、直前になって大統領は再びヤコブソン医師を訪れた。声が枯れ、すっかり打ちひしがれていた。これではTV討論などとても無理な話。そこでミラクルマックスは、声帯に彼のビタミン剤を直接注射した(?)というのだ。しかしTV討論の結果、米国民のチョイスは明らかになった。頭の禿かけた疲れた中年男ニクソンよりも、ドーランを顔に塗りたくり若さとエネルギーを売り物とするイケメン候補に人気が集中した。

スピードが大統領を決めた、というのはの本の著者。

 

それ以来、このドクターはケネディの非公式の影の従医となった。大統領どころか、夫人ジャッキーも彼からビタミン剤の注射を受けた。

次に重要なエピソードとしてあげているのは、19616月のウィーンでのフルシチョフ首相との米ソ首脳会談である。直前の4月に、CIA傭兵によるキューバ侵略が大失敗に終わったばかりで米ソの関係は一発触発といっても大袈裟ではないくらいに緊張していた。JFKは米大統領として自分に何が要求されているか、よく知っていた。JFKは、キューバ侵略の失敗で足元を見透かしたフルシチョフの強硬な論理に負かされ言いなりになってはならない、その為には強く立ち向かう必要がある、と持論を展開した。

JFKDr.Feelgoodをお供にウィーンに乗り込む計画を立てた。

 

だが、その前にドクターのクリニックは何者かによってすっかり荒らされてしまった。ドクターはこれはKGBだと信じた。著者もこれに同調している。

しかし影の医師であるから、ドクターとその妻は大統領一行のエアフォース・ワンとは別にエア・フランス機で最初の目的地パリに向かった。しかし乗客はDr.Feelgood夫妻二人だけであった。

パリからは、Dr.Feelgoodをエアフォース・ワンに乗せてウィーンへ向かった。

しかしその当日、思いがけない予定の変更があり、Dr.Feelgoodは大統領に3回に渡って大量のアンフェタミンを投与しなければならないはめに。

だがJFKはフルシチョフと強く対立したまま彼の脅しに乗ることなく、西ベルリンの存在をフルシチョフに認めさせた。しかしこれがその後の西ベルリンを完全包囲する壁となって発展していくのである。

 

Dr.Feelgoodのビタミン剤注射の常用は大統領の公式従医達や弟のロバート司法長官の強い疑惑と警戒心を呼び起こした。ロバート司法長官は自分の権限を使って、サンプルを兄から取り上げFBIに送って分析させたところ、それには、ビタミンB類や他の動物の性ホルモン、人間の胎盤からの性ホルモン、そして多量のアンフェタミンが含まれていた。

ロバートは兄の大統領と真っ向から対立した。

JFKは、中身が馬のおしっこでもかまわん、気持ちよければそれでいいんだ!(= it makes me feelgood)と弟に言い返したそうだ。

JFKがビタミン剤を止めないので、業を煮やしたロバートは、ホワイトハウスでヤコブソンを捕まえて

What are you fukin kikes doing in the White House? You Jews arent welcome here.

Go back to New York  with other jews.

要約すれば、ホワイトハウスではユダヤ人は歓迎されていない、とっととお仲間を連れてNYへ帰れ、とユダヤ人蔑視丸出しの悪口雑言を投げつけた。

1962年の4月のことだった。

当然の事なからロバートの屈辱にドクターは怒った。彼は大統領に、もうホワイトハウスを訪れることも治療をすることもできない、という手紙を送った。

 

そこで大統領はNYに飛び、常宿であったカーライルホテルでドクターと密かに会った。大統領はドクターを、彼の注射はすべてお国の為だ、彼を市民として受け入れナチから守ってくれたアメリカの為だのだ、と説得した。

このドクターは大統領から治療費を貰っていなかった。

さらに大統領は彼にホワイトハウスに移らないかと誘ったそうだが、ドクターはそれを断った。彼にはここに面倒みなければならない多くの患者がいるから、と。

そこで、大統領と和解の印として彼に念願のビタミン注射を一本打ったのだが、それが効き過ぎた。

ドクターが去った後、気持ちよく成り過ぎた大統領は、服を抜いて素裸になり、部屋の中を飛び歩きだ。それだけならシークレット・サービスはしのび笑いをしながら見てみぬ振りをしていたのだが、部屋を出てホテルの廊下を忙しく往来し始めて、シークレット・サービスも始めて事の重大さに気ずいた。ホテルの1階ロビーには報道陣もいるはずだ。緊急電話でNYでもっとも著名な精神科医に駆けつけて貰った。この精神科医がシークレット・サービスの連中に押さえ込まれた裸の大統領に鎮静剤を注射し、やっと大統領は序々に自分を取り戻すことができた。

しかしそれ以後もDr.Feelgoodはホワイトハウスにでかけて夫妻に治療を続けていた。

もうロバート司法長官どころか、ジョンソン、ニクソンを始めCIAFBIJFKがアンフェタミン中毒であることは周知の事実であった。おそらくソ連も。だから、著者は、暗殺には麻薬中毒に陥った大統領を廃するという目的があったと示唆しているのだがこれには確たる証拠がない。

 

Dr.Feelgoodについては、ケネディ大統領一家の写真家でもあった世界的に著名な写真家の覚せい剤中毒死によってNY市当局で捜査が始められた。それが1972年にTimes で大きく取り上げられたことで大スキャンダルに発展した。翌年になって医師免許の査問に出席する直前に、ジャッキー・ケネディ・オナシスが密かに彼に会いに来た。理由はただ一つ、彼がJFKの業績を傷つけるような事を話すのを阻止する為だった。彼は、医者として患者のプライバシーを漏らすことは絶対ないとジャッキーを安心させた。だが話はそこで終わらなかった。Dr.Feelgoodにはそれまでに莫大な弁護費用がかかっていた。今や世界一の大富豪夫人となっていたジャッキーにそのことを匂わせると、ジャッキーは即座に、心配することはない、それは何とかなるから、と言ってドクターを安心させた。Dr. Feelgoodは彼女の言葉を信じて、彼女が彼の設立した非営利団体を通して適切な額の寄金をしてくれるものとばかり信じ込んでいたが、実は全く一銭も貰えなかった。

しかし、Dr.Feelgoodはジャッキーとの約束を守り、大統領については極力触れなかった。

しかし、皮肉にもジャッキーの命を奪った悪性リンパ腫は長期に投与されたあのビタミン注射が原因だ、と息子のジョンJRは信じていたそうだ。

 

Dr.Feelgood1875年にNY州の医師免許を失っている。

今日では75歳の現役医師がいることさえ珍しいのだが、それでも自宅で密かに元患者達にビタミン注射投与を続け、さらに彼は医師免許を取り戻そうとした。しかし1979に却下され同年失意の内に亡くなった。

 

ケネディには常時数種の注射が続けられていた。ステロイドは身体の抵抗力を低下させるので皮膚には化膿がおこりやすい。だから、彼には常時ペニシリンも投薬されていたらしい。

ケネディは自分がこれらの多数の薬のバランスの上に生きているということを自覚していた。だから薬の効果は利用するが使用に対しては非常に慎重であったといわれている。アンフェタミンの影響についても、あれだけ多数の薬を摂取しているので明確には指摘できない。おそらくこれらの薬の統合的効果といったほうが適切だろう。

 

JFKは大統領になるべきではなかった、というのがこの本の底を流れている見解のようだが、米憲法では、大統領になれる年齢と米国生まれであることが定められているだけだから、JFKは明らかに合憲であり、しかも大統領として優れた業績さえ残している。明らかに覚せい剤が国の助けになったのだ。