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chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

小野田寛朗の不都合な真実

小野田寛郎の話は最初からつじつまがあっていなかった。理由は帰国前から産経を中心とする右翼陣営の『大日本帝国陸軍将校小野田寛郎』という一大キャンペーンがはられたせいだ。

2年前の1972年にグアム島から帰国した残留日本兵の横井庄一軍曹の第一声は、『恥ずかしながら帰って参りました』、であって、28年間所持していた天皇陛下から賜ったはずの銃はすっかり錆びついていてとても使い物にならなかった。
これでは日本帝国陸軍の名がすたる、というので、これは横井庄一氏が単なる一兵卒、しかも市井の縫製屋出身であったからだ、ということであっさり片ずけられてしまった。
 
小野田氏にとって銃、刀は生存の手段であったということ、彼がとにかくも将校であった、という2つの事実を都合よく結びつけて、右翼陣営は小野田氏を最後の日本兵に祭り上げることに懸命となった。
 
この背景には小野田氏が帰国した1974年当時の社会情勢がある。
1970年、日本赤軍は北朝鮮を真の共産主義国だと大誤解し、日本刀を振り回して日航よど号をハイジャックした。1972年のテルアビブのロッド空港無差別乱射殺戮事件、は世界中で赤軍によるカミカゼアタックとして有名になった。1973年のドバイ空港日航機ハイジャック。1974年のシンガポール製油所襲撃事件及び在クウェート日本大使館占拠事件、と海外では日本赤軍によるはでな事件が続いていた。
中でも、1973年のドバイ空港日航機ハイジャックでは、乗っ取られた日航機が着陸したリビアのトリポリ空港で、日本政府は40億という身代金と乗客150人を交換した。当時の福田赳夫総理は、人命は地球よりも重い、という言い訳を残している。当時、これは迷言として散々非難された。
 
だから小野田さんには有力な競争相手がいたということになる。日本のサムライ精神の継承者は何と極左の日本赤軍とみなされていたのだから、当時の右翼陣営の悔しさがいかばかりのものであるか、充分理解できるはずだ。
 
ところで今回の小野田寛郎の高齢による逝去というニュースを知り、ネットを捜していたら、興味をそそる記事を見つけた。それを記事にとりあげたのだが、小野田さんが嘘をついているというのか、というコメントが送られてきた。
小野田さんの話には嘘と事実が混じっている、というのがかっての一般的な見方であったが、今日ではどう見られているのか、と思いさらにネットを捜すと、かなりおもしろい事が出てきた。
驚いたことに、小野田氏の著作は代筆によるものらしい、ということだ。
 
だから小塚一等兵の死の場面、
 
見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
 
という下りはこの本を代筆した津田信氏の創作だと思った方がよいだろう。
 
丘の上で銃撃され、ドハの木から急な斜面を谷に降りた小さな水の流れの手前で血みどろになって倒れていた
 
という箇所は、『最後の戦死者、陸軍一等兵小塚金七』からの引用らしい。
小塚氏の死に場所が小野田氏による自伝とは違うとことを指摘したのはこの本である。
 
もしこれが事実なら、小野田氏は負傷して一時的に動けなくなった小塚一等兵を置き去りにし彼の銃を持って一足先にトンズラだ。
 
彼らには逃げる時は別々のルートをとり、どこかで落ち合うといういうルールがあった、というのは小野田氏。だからこれも当然といえば当然なのだろうが、これを書くと、なぜ30年来の戦友を置いて自分だけ逃げたのか、といって非難を浴びることは間違いないだろう。
 
それから、小塚氏が単に一時的な出血多量が原因で身体が弱体化してしまっただけなら、まともな医療施設に運び込めば助かる見込みがあったのかも知れないが、しかし、どうやら、小野田氏達が日頃から恐れていたことが実現してしまったようだ。
 
小塚氏は復讐心に燃えた住民達、小野田氏が土人をもじってドンコーと蔑称していた人達に銃やナイフでなぶり殺しにされた可能性が大きい。もし撃たれたのが小野田氏ならば、おそらく彼も同じ運命を辿っていたに違いない。
 
小野田さんの自伝は、小野田氏達がルバング島の住民を130人(小野田氏自らの言葉)殺したことを意図的に隠している。それも食料や生活必需品などを分捕る為に仕方なく殺したというのではなくて、住民を威嚇し、服従させる為に意図的に殺したのだ。そういう事は絶対に口にしないようにというのが暗黙の了解であったそうだ。
 
小野田氏の代表的著書、“我がルパン島の30年間”(1974)は、代筆者による創作とフィクションの中間であるらしい。
しかもこの本は、“No Surrender, My 30 Year- War 1999  というタイトルで英訳されている。海外での小野田氏についての知識はこの本がもとになっていることも真実である。
 
ところが、当時大ベストセラーとなった、“我がルパン島の30年間”の代筆者であった作家・津田信は、自責の念にかられて、“幻想の英雄” 1977、を出版している。
 
“幻想の英雄”は津田信のご子息によってネットでフリーで読めるようになっている。
小野田氏のルパング島の生活を主とした自伝を書くために3ヶ月間小野田氏と兄小野田格郎市と一緒に暮らした時のいきさつを題材にしたものだ。後に私小説作家として名をなしただけあって著者は観察眼のかなり鋭い人だったようだ。
 
その他に、youtubeの小野田氏のインタビューとか、フィリッピンTVによる最後のサムライ・小野田、というのも参考になった。特に後者には、小野田氏の犠牲者達の親族の声があった。
 
皮肉にも、小野田氏を最後の日本兵、と呼ぶのはまことに的をついている。
小野田氏こそ、最後の最後まで、ルパング島で、日本陸軍による悪名高いあの三光作戦=略奪、殺戮、放火、を遂行していた人に他ならない。だから彼のいう敵は米軍などではない、敵は、武器も何ももたない、ドンコーと呼んで見下げ侮蔑していた極貧のルパング島民であった。その上、彼らの生存は、この貧しいドンコー達からの分捕り品に100%かかっていたといっても間違いではない。運んでいけないものは、焼いた。たんぱく質を採らなければいけない、というわけで、放牧されが牛を撃っのに銃は重宝だった。稲などは、自分達が食べられないので、焼いたというわけだ。全く住民の生存などは無視した極悪無法ぶり。住民から奪ったトランジスタで競馬に興じ、週刊誌で東京オリンピックや皇太子後成婚の写真に見入り、年老いた父が籠にかつがれて息子の名を呼ぶのを目にしても、出てこない。
いったいどういう神経の持ち主なのか?頭の状態がとても通常とは思えない。
それは、津田氏の著作、“幻想の英雄”を読めば明確である。彼らは日本軍の残虐性をルパング島という限られた空間で体現していたのである。