chuka's diary

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ディーン・ラスク:38度線の立案者

 

  

MOFA (外務省)サイトではラスク書簡Rusk note of 1951)がSF条約(サン・フランシスコ平和条約)で竹島が日本に返還されたことの決め手として紹介されている。

このラスク書簡の竹島箇所については、拙ブログ『竹島:ICJ提訴への道』の冒頭にて紹介させて貰った。

 

このラスク書簡極秘(confidential)であるから、米側もラスク氏の直接の上役に当たる当時の国務長官アチソン氏とSF条約の米側代表のダレス氏しかこの書簡の存在を知らなかったのではないかと思われる。双方共にラスク氏の良き友人であった。

 

受け取った韓国側も一体誰が内容を知っていたのか今日でも明らかにされていないようだ。1980年以降だと思われるが、米で1951年までの外交文書が一挙に公開された。しかしこの機密ノートの内容は日本ではそれ以後も長い間研究者達にも知られていなかったようだ。

 

私はこのラスク極秘書簡ラスク氏についてリサーチする為に以下の3冊の本に当たってみた。

 

Dean Rusk : Defending the American Mission Abroad2000

これは題名通り、ラスク氏が関連した当時の外交政策を解説したもの。

 

Waging Peace & War : Dean Rusk in The Truman Kennedy & Johnson Years1988

これは著名な国際法学者であり、ジョージア州立大学のディーン・ラスク・センターの所長だったThomas J.Schoenbaumによる文書を基にしたラスク氏の外交政策の分析・解説 

 

As I Saw It Dean Rusk 1990 はディーン・ラスク氏が息子と共著した回想録である。  

 

3冊中、最後に上げた氏の回想録はラスク氏の人間性がよく出ているようだ。いずれにせよ、外交の世界は酷いものだ。それにしても冷戦とはよく言ったものだ。ところで、実際の戦争はHOT WARと言っていた。

 

このラスク氏という名前は今や老いたるベトナム戦争世代にとって極めて懐かしいものになっている。

ラスク氏は1960年から1969年の約9年間、ケネディ及びジョンソン両政権の国務長官を務めた。米の60年代というのは、ヒッピー・ウーマンリブ・公民権運動(黒人差別反対闘争)などに代表されるように若者達が米社会の伝統的保守姿勢に強く反抗し米社会が大きく左回りに旋回した時期だったのだ。それには、ケネディ、ジョンソンという超リベラルの大統領の存在が大きな役割を果たした。

このラスク氏は、ベトナム派兵の中心人物と見なされ、米ではベトナム戦争を、『ディーン・ラスクの戦争』(Dean Rusks war)と呼び、すこぶる人気が悪かった。しかし、後のソ連の崩壊と冷戦の終結で彼の歴史的評価はかなり持ち直してきているようだ。

 

1959年に大統領に選出されたケネディ氏に請われて国務長官を引き受けたラスク氏はその時52歳、一方のケネディ大統領は43歳で米史上最年少の大統領であった。

しかしどちらも第二次世界大戦に従軍したのだが、ケネディ大統領は下っ端の無名の少尉であったに過ぎなかった。だが一方のラスク氏はCBI(ビルマ戦線)に送られ米側代表のスティルウェル将軍の参謀となり将軍がワシントンに送ったケーブル(報告)は皆彼が書いた。その才能を見込まれてワシントンの陸軍作戦部に引き抜かれてしまった。1945年ドイツ降伏直後であった。そこで、来るべき日本の終戦及び戦後の計画に参画することになったのだ。

 

そこで彼は38度線を立案させられるはめに陥いるのである。

 

政府側、すなわちデスク側は日本の降伏にともない米軍は満州まで進むべきだと主張したのだが、現場の陸軍側は、日本で手一杯、とても中国大陸まで上陸する余裕はない、と反対した。しかし陸軍は朝鮮半島に上陸することさえも消極的な姿勢を示していたのだった。

814日、日本が降伏した同じ日に、議員と軍の合同委員会の討論が夜遅くまで続いていた。軍のお偉方に随行したラスク大佐は会議室の隣室で同僚の陸軍大佐と朝鮮半島の地図を前に、どこらへんまで米軍が進むべきかと考えこんでいた。まず首都ソウルを米側に入れ、自然の境界線を探したが全く見つからなかった。ところが地図上の38度線が目に入って、これでどうだろう、と二人で話しあった。38度線ぐらいまでなら陸軍にもさして負担にならないはずだ。

 

まず、米の合同委員会が彼らの提案を受け入れた。驚いたことに、ソ連もすんなりそれを受け入れた。実はその時、この38度線は日露戦争前に日本とロシアの間で朝鮮の影響力を二分する目的で過去に議論の対象となったことがあったそうだ。そういうことはその時疲れ切っていた二人にも、米の委員会のメンバー達も全く知らなかった。もし過去の歴史を知っていたなら、38度線を絶対に選ばなかった、とラスク氏は回想録で述懐している。

当時の米側は朝鮮半島がこの38度線によってそれ以後南北に分断されたままになるとは全く予想していなかった。遠くない将来に韓国はあくまで一国として独立する、というのがカイロ・ポツダムからの見通しであったのだった。

 

原爆投下についてラスク氏は、トルーマン大統領の決定は間違っていたとは思わない、と回想録で述べている。

日本がこのまま降伏しないと想定した米側は概に8月に日本に進攻上陸する計画を立てていた。まず最初に日本の都市及び沿岸地帯を徹底的に爆弾攻撃する予定となっていたから、これが実行されれば、原爆よりももっと多数の死傷者が出ることが予測されていた。沖縄戦を参考にし、その後の上陸でも戦闘で数百万人の死傷者が出ることが予想された。後になって日本は米側の予想よりもはるかに弱体化していたという事が分かった。しかし、戦争が終わったのは原爆投下のせいであったという事実は変わらない。

第二次大戦ですでに5千万という膨大な死者が出ていた。これ以上戦争を続けることは全くの無駄だというのが米側の判断であったが、日本側は1945年の8月に入っても全く戦闘を止める気配を見せていなかった。

ところが長崎に原爆を投下して5日後に日本は無条件降伏を受け入れた。これは米側が予想したより早かった。

それでラスク氏の部署では92日の戦艦ミズーリで予定された降伏文書の署名に間に合わせる為に文書作成に大忙しとなった。その為部署の大佐を特別機に乗せて降伏文書を東京まで運ばせ、さらにモーターボートで戦艦ミズーリまで駆けつけさせた。ミズーリ号の甲板で待ち受けいたマッカーサー付きの仕官はその大佐から文書だけ受け取り、マッカーサー将軍があなたは乗船する必要ないと言った、と大佐に告げたそうだ。

 

この様な、マッカーサー司令官の度を越した傲慢ぶりを示すエピソードはよく知られている。ラスク氏の回想録にも似た様なエピソードが他に数箇所出てくるのだが、これではマッカーサー将軍は意地悪婆さんならぬ意地悪爺さんだ。

1951年に朝鮮戦争の戦略をめぐってマッカーサーはトルーマン大統領を大っぴらに批判してしまった。その時ラスク氏は躊躇する事なくトルーマン大統領に将軍の罷免を進言している。

 

しかし、やはり何といっても日本人として一番興味があるのは天皇制維持という米側の決定であろう。

日本的特殊社会を考慮し天皇が国民に降伏を受け入れることを要請すれば国民もそれを受け入れ日本を平穏に占領すること可能だという確信からラスク氏の米陸軍作戦局は天皇制存続を強く押した。ラスク氏によれば、これはむずかしい理屈などとは全く関係がないことで、単なる戦略的理由からであった、とのこと。国務省から反対の声が上がったがトルーマン大統領が陸軍側に賛成したので米側は天皇制維持に動いた。