弔辞
当時、小野田少尉と小塚1等兵は「狼煙(のろし)作戦」と称して、銃撃や収穫した米に火を放ち、住民に対する威嚇と自分たちの存在を誇示する行動をとっていました。
1972年10月19日
この日が小塚1等兵にとって運命の日となります。
夜明けとともにテリックの町を見下ろせる丘に出て威嚇射撃をし、作業中の住民が逃げ出すと稲むらに火をつけました。
あちこちから火煙が上がり2人は引き揚げようとしますが、大きなドハの木の脇に積んである米俵を見つけた小塚1等兵は、火をつけるために近くへワラを取りに行きました。
しかし、この行動が小塚1等兵最後の行動となってしまいます。
以下、小野田寛郎著「たった一人の30年戦争」より
その時、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。 しまった!至近距離だ。 私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
敵は激しく撃ってきた。
応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。
いままで何度もあったことだ。 だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」
小塚が叫んだ。 振り向くと右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く。先に走れ!」 「胸だ!ダメだ」 私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。
小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
敵の銃声が途絶えた。
いまだ!私は二丁の銃を持って後ずさった。 退いたものと思っていた小塚がいた。 「小塚! 小塚!」
私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。 反応がない。顔をみた。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
私は両手に二丁の銃を持って、一気に灌木の斜面を駆け下りた。
激しい銃声が後を追った。 私は最後の戦友を失った。
小塚、51歳であった。 小野田氏の手記では、銃撃された小塚1等兵がその場で死亡したように書かれていますが........ 検視解剖の結果、遺体の胃には100cc近い量の血が飲み込まれていて、銃撃を受けた小塚1等兵はその場で即死したのではなく、数分間は生きていたようです。
さらには、刃物で切り付けられた無数の傷が体中にありました。
丘の上で銃撃され、ドハの木から急な斜面を谷に降りた小さな水の流れの手前で血みどろになって倒れていた小塚1等兵。
警察軍に対し最後の力を振り絞りナイフを振り上げようとしますが、数発の銃弾を撃ち込まれ「オーイ」と誰かを呼び息を引取りました。
そして、遺体が麓の町まで運ばれると、日本兵に恨みを持つ住民達が蛮刀で切り付けたようです。
人生の半分以上を小野田少尉とジャングルで過ごし、家族を残し51年の生涯を閉じた小塚金七1等兵。 最後の力を振り絞りナイフを振り上げた瞬間何を思い、誰を呼んだのか。
小塚1等兵の無念さが伝わってきます。
ー以上、勝手にコピペいたしましたー アカベコさん、堪忍してや
生きている人の眼と死後直後の人の眼には見た目はあまり差がないように思えますが..............
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