chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

吉田清治の‟ His Little White Lie”

Image result for 吉田 清治
 
『父の謝罪碑を撤去します、慰安婦問題の原点「吉田清治」長男の独白』
という本当にクソ長い題名の本の抜粋がサンケイに掲載されていた。もちろんこの本はサンケイ出版社から。
これ、数日前にサンケイの花形記事だった。時は奇しくも日本の誇るアベ・ステロイド総理が共謀罪を国会でごり押ししている最中、とても偶然の一致とは思えない。
 
***ステロイドとは、彼のような慢性腸炎を抑制する為に大量投与されるホルモン剤であるが、副作用としてムーンフェイス(おかげでケネディは顔が若作りだと間違えられた)、喜怒哀楽反応が極端に走ってしまう、(アベの国会での異様なヤジぶり?)がある
 
私は吉田清治という悪名高い作家を知らなかった。理由は80年代に日本を出てしまったからだ。しかし千田夏光さんが火付け役となった従軍慰安婦ブームはよく憶えている。彼の「従軍慰安婦慶子」を読んだ記憶がある。
 
今回、サンケイの記事を読んでネトウヨ側が常に悪の張本人のように槍玉にあげている吉田清治さんとはどういう人なのか興味を持ち、ネットでリサーチ。といっても、記事はネトウヨ側ばかりからなので、かなりの誇張があるのを覚悟。
下は吉田さんの生涯の年表ですが、年度に間違いがある可能性があります。拙者は西暦しか使いませんから。
吉田清治さんは、非常に数奇な一生を送った人ではないかと思いませんか?ネトウヨの方々が、事実は小説よりも奇なり、と書いていましたが、それ当たってるようです。
 
ネトウヨの方々によれば、吉田清治に関しての
 
在日説、
コミンテルンのスパイ説
KCIAから金を貰った説
 
3つがあります。上の著者、大高記者はネトウヨ記者らしく吉田清治在日説を追及していたのですが、今度は息子を愛国者として褒め称える、という180度の方向転換、いったい裏では何があったのか、と好奇心が湧いてきます。
 
                     吉田清治さんの年表
 
 
1913年(大正2年) 10月15日 吉田雄兎, 『ゆうと』と発音する、として生まれる。本人によれば出生は山口県だそうですが、吉田雄兎の本籍は福岡県、息子さんによれば、一家は川筋の人みたいです。
          
1931年(昭和6年) 門司市立商業学校卒 しかし卒業生名簿によると、吉田氏の生存中から当時者は死去となっているそうだ。
     上京、法政大学の法学部夜間に学ぶ、が 法政大学の学籍名簿には彼の名前がない
 
   
1937年 (24才)満州国地籍整理局に勤務
      朝鮮人李貞郁(20才)を養子にする。
1939年 中華航空、上海支店に支店長として転勤 
1940年 民族主義者金九の逃亡幇助で懲役2年、秦氏には、アヘン密輸に絡む軍事物資横領罪と言った
1942年 下関、労務報告会下関支部の支部長、民間の組織だが、在日を集めて労働させたようだ
      息子によると、その朝鮮人労働者のほとんどが共産党員だった!
1943年、5月、済州島で慰安婦狩り 一週間で205人
1944年、妻フサエと結婚
1946年 共産党から門司市議に出馬、落選
1949年 長男生まれる
      朝鮮人養子の籍を抜く
1951年、次男生まれる
 
1963年(昭和38年=49才)NHK私の8月15日エッセイコンテストで佳作入選
それ以前にもラジオと私、という作文コンクールで一等⒑万円を獲得。その当時は朝鮮人の経営するパン屋で働いていたが生活苦にあえいでいた。
 
1968年、長男ソ連留学(ルムンバ友好大学?)福岡日ソ友好協会の役職についていた。
1969年、次男 ソ連留学
1971年、長男帰国 (両親が職を失ったので)
1973年、吉田清治、息子を頼って上京
      千田夏光、従軍慰安婦、発行 それ以後従軍慰安婦ブームが起こる。
1977年、『朝鮮人慰安婦と日本人』
1983年、『私の戦争犯罪』 (済州島での慰安婦狩り)第ヒット
      元養子が死亡、労働運動の幹部だった、息子は会ったことなし
1989年 韓国語版『私の戦争犯罪』出版
1992年、秦郁彦、済州島で調査、吉田清治の慰安婦狩りは嘘と確信
1993年、韓国天安市の国立墓地に、謝罪碑を建立。
      吉田清治は式典参加者の前で土下座し謝罪。
1996年 UN 人権弁護士によるクマラスワミ報告で、『私の戦争犯罪』は奴隷狩りに加担した日本人の告白として引用される。
    
1996年、週刊新潮にて、『事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんて 新聞だってやっている』と書かれる。
1997年、サラ・ソー、吉田清治にインタビューを申し込むが、吉田氏は、たくさんの脅迫電話を受けてるので            電話口で怒ってしまったことを謝罪、健康状態が悪いので、インタビューを断る
2000年、(86才)直腸がん闘病生活の後死亡
 
2017 年5月、息子によって、『謝罪』の文字が『慰霊』に変えられた。
 
私の興味をひいたのはコミンテルン説。満州時代から、吉田氏は、コミンテルン下の共産党員の可能性が?無きにしも非ず