chuka's diary

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慰安婦=公娼=性奴隷:娼妓取締規則による売春の合法化

❝当時は公娼法があり売春は合法ビジネスだった。現在の価値判断で当時を裁くべきではない❞
 
上の主張は秦郁彦を先頭とする日本のネトウヨ学者達の、慰安所の一体どこが悪い!という反論の根幹をなしているものです。確かに明治33年(1900)の公娼法は日本国内での売春の合法化に間違いありません。しかし今日の私達はその条文を読めば読むほどずいぶんおかしな点に気付くはずです。イシューはこの法の目的です。この法は売春を合法化しながら一方では人身売買を一切サポートしないという明治政府からの性奴隷産業界に対する縁切り状になっているという事にあります。
 
前回は明治5年10月(1972)の‟牛馬解き放ち令”について触れましたが、実際にトリガーとなったのは、同年7月にペルー国籍のマリアルス号が中国本土からクーリー達を奴隷船のように船底に押し込めて輸送していたのを日本政府が横浜港で待ったをかけたという事件です。明治政府高官は同じ東洋人である中国人がまるで奴隷船の黒人奴隷のように扱われているのはけしからんと主張、日本中が人権蹂躙だとホットになった事件です。ところがお雇いイギリス人弁護士が、何をいうか、日本にも前借金に縛られた性奴隷がいるではないか、と反論逆襲したのがこの芸娼妓解放令の理由です。
しかし、その根底には、身売りは人倫に反する、という日本人の信念があったという事実は疑いようがありません。
 
注:このマリアルス号事件はたくさんのネトウヨがブログ記事で、誇るべき日本、というテーマで拡散させていますから、ネトウヨならこの事件に詳しい筈。しかし、どうしたわけか、例のイギリス人弁護士の反論については記事では一言も触れていないのが特徴です。
 
明治政府は芸娼妓解放令を出した後は、この事項については、府県に任せるということで手を引いてしまうのです。明治5年ですから、欧米式の法が何であるか知る人もいない時代と言ってもよいでしょう。
 
明治政府は明治22年(1889)に帝国憲法を発布しました。
政権交代からわずか20年で欧米の法を修得適応、法的には天皇を頂点とする欧米もどきの近代的立憲君主制を見事に作り上げたわけでこれも私が明治時代を高く評価する理由の一つです。
 
欧米化をさらに促進するため、華やかな鹿鳴館時代の到来となりました。ここでの欧米スタイルの夜会では政府高官達が全く不慣れなレディファーストもどきでなれない舞踏服の妻たちをエスコートし、ぎこちなくダンスまでしてみせ、欧米の外交官達の失笑をかっていたのですが、これほどまでに明治政府の高官達は必死だったのです。
 
憲法発布よりおよそ10年遅く、明治31年(1998)には待望の民法が施行されました。これにより帝国は欧米並みの法治国家の仲間入りを果たしたのです。
 
その中の民法90条では
公的秩序または善良な風俗に反する事項 を目的とする法律は無効とする❞
 
となっています。売春は法的には醜業、すなわち善良な風俗に反する稼業です。だから民法では売春を肯定することを前提とする判決は無効と言っているわけです。この条文が後の前借金の返済義務についての違法判決の決め手となるわけです。
 
さて能書きが長くてすみません、本題の公娼法と呼ばれれている明治33年(1900)の娼妓取締規則に入ります。この法のテーマは何といっても法的醜業としての娼妓稼業は本人の厳密な自由意思にのみもとずくという事です。
 
娼妓は18才以上、志願者は所定の書類をすべてそろえ、指定の場所で健康診断を受けた上で所轄警察署に出頭し、娼妓稼業を自由意思で行うことを明らかにし、娼妓として登録されてあらかじめ特定された貸座敷=遊郭でのみ売春ができることになったのです。娼妓自らが警察署に出頭というのは、志願者の意思を本人に直接確認することが目的でした。
また廃業の際には、娼妓が警察署にてその意思を筆頭か口頭で伝えるだけで即娼妓登録から削除される規則になっていました。
これは当時に遊郭の女郎となるような女性は教育程度が低く字が読めない書けないことが普通であったのを政府側はちゃんと知っていたからです。
この娼妓取締規則では、本人の廃業意思に対する妨害行為については罰金や懲罰が課せられることとされています。
公娼法で明確なのは、人身売買=前借金及び消費債務を理由に身柄拘束し売春をさせるという遊郭の商売のやり方にはっきりと法的歯止めがかけられた、ということです。
これでは秦郁彦の主張するような❝売春の合法化❞とは意味がずれているとしか思えません。
 
実はこの法の出た明治33年(1900)頃には、国内での遊郭は人気をなくして凋落時代を迎えていました。人倫に反する上に、時代遅れ、暗すぎる、と見なされていたのです。代わりに出てきたのが、今日の水商売の元祖ともいえる、料亭兼連れ込み宿に当たる待合、今日のホステス・バーの先祖、カフェです。これらは公娼法を全く無視したもので違法売春です。しかし政府側は全く取り締まる気もなかったようです。
だから、今日の水商売の感覚で慰安所を考えるのは歴史の誤解だと私は思います。ひょっとして、現在の価値判断で当時を裁くべきではない、というネトウヨの主張はマジで当たっているかも知れません。
 
それでは一体どうしてこの斜陽産業化した公娼制がおよそ30年後に慰安所として戦地にぞくぞくと現れたのか、凄い疑問だと思いませんか?
しかも娼妓取締規則のコアである自由意思による売春の部分は慰安所制度では全くカットされているのです。
 
下は台湾の台北市に残る遊郭跡です。日本占領下に開店しました。
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