chuka's diary

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トランプのアメリカ:キング師の夢がただの夢になった!?

chuka123.hatenablog.com

アメリカ政府が閉鎖されてすでに30日が経過。連邦職員、つまり日本でいう国家公務員の給料は2週間毎に支払われるので、これで連続2回貰えない事になった。これは年収300万円前後の職員にとっては大変なことだ。多くの職員とその家族達は今やフードバンクからの無料配給フードで生活をしのいでいるとTVニュースで大々的に報道されていた。
無料フードは缶やインスタントでまずい。卵とか牛乳、肉、野菜などの生ものはフードバンクでは扱わない。自分の好きなものが食べられないことでさらに苦痛が増すのは確実。
上はフードバンクからのクリスマス特別配給についての拙ブログである。
 
1月21日はMLKデー。黒人差別撤廃のリーダーだったキング師誕生を祝う連邦祝日だった。
1963年のキング師が率いたワシントン大行進をどれだけの人が知っているだろうか?
米黒人のロイヤル御一家はこのキング師のご子息と息女の方々なのです。
ところでこの日、キング師の息子は、ペンス副大統領がトランプを父であるあの偉大キング師にたとえたことに腹を立て、
『とんでもない事だ、私の父は、橋をつくる人で、壁をつくる人ではない』と壇上から皮肉を飛ばした。
さらに『ヘイトではなくLOVEこそがアメリカを偉大にする』と、トランプのスローガンMAGA=Make America Great Again をこき下ろした。
しかし全米を席捲したその日の大ニュースは
ソーシャルメディアで大拡散したミニ動画である。御覧のようにMAGAティーンと呼ばれるようになったトランプ支援の赤い野球帽を被った白人少年とアメリカンインディアンの御老体との睨めっこ。傲慢な薄笑いの白人少年はレイシストとして全米の非難を浴びた。
皮肉なことにこの事件は1963年のワシントン大行進でキング師が あの ‟I have a dream” で始まる大演説をした首都ワシントンのナショナルモールと呼ばれる巨大な空間公園で起こった。
 
 
 
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その場で名乗り出たアメリカインディアンのベトナム帰還兵である御老体が、 あのような冷たい目付きで睨みつけられ本当に怖かった、と発言したことから、このMAGAティーン少年はヘイターとして非難をあび、彼が通うカトリック系ハイスクールは公衆に謝罪し、該当者の処分を考えていると発表。
この動画を撮った人はMAGAティーンをヘイターとして認識したわけだが、その後他の人々もこの対立を撮っていることが明らかになった。それで真相らしきものが現れた。
 
MAGAティーンを含むカトリック系ハイスクールの生徒達は三日連休を利用して遥か遠くのケンタッキーから貸し切りバスで首都にやってきた。目的はここで開催された中絶反対!?の集会に参加することであった。カトリック系ハイスクールに在学している拙愚孫と同年代のガキどものようだが、学校では表向きは男女交際の深入り禁止である。このガキ達が中絶禁止の政治的意味を理解しているとは到底思えない。
 
この事件は帰りのバスを待っている間に起こった。発端はブラックヒブルー(黒人ユダヤ人)4人組グループとの激しい罵り合いだった。そこに割って入ったのがアメリカンインディアングループだったのだが、生徒達は今度はアメリカンインデアンの太鼓にあわせて一斉ジャンプ。アメリカインディアン側の祈祷にあわせて彼らのスローガンを言い返したようだ。その中には、ビルザウォール、というトランプのスローガンがあったとのこと。興奮した生徒側は暴徒化しコントロールを失っていたようだ。そこに現れたのがこのMAGAティーン。翌日のインタビューによれば彼の目的は対立の悪化を防ぐ為に先頭のご老体の前進を防いだ、それであのような睨みあいになった、というものだった。
彼の言い訳はかなり眉唾ものだが、ガキはガキ、という事にしておこう。嫌がらせメール攻撃を受けたとかで、TVではえらく怯えていた。
 
しかしこの高校は一体何なのだ?
これもニュースで報道されたのだが、去年この高校の最優等卒業生はゲイだった。最優等生は卒業スピーチを卒業式でするのが米高校の慣例なのだがこの高校はゲイ高校生にスピーチをさせなかった。それでこの高校生は卒業式直後の会場外で自分で用意していた卒業スピーチをした。その動画も報道されていた。ケンタッキーのようなクソ田舎州ではまだこういう時代錯誤が普通に行われているようだ。
 
またトランプがツィートした。この事件はすべてフェイクニュースのせい、だと。
 
下の We Shall Over Come を憶えているだろうかか?キング師が先頭に立った公民権運動のテーマソングだった。その後日本でもベトナム反戦集会で必ず歌われていた。