chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

続・敵国から見た日本文化!?

前回戦時中の米軍の日本文化紹介映画について書きましたが、日本語字幕付きを見つけました。
 
ところどころで省略されていますが意味は充分に取れます。
 
上のは日本の歴史・文化についての兵士向け教育映画だが、対象は白人米兵だった。米兵の多くは田舎出身で教育もない。文盲率も相当なものだったはずだ。現在の米国白人の祖先の大多数は英国ではなくドイツ系と見なされているが、第一次大戦ではドイツは言葉が通じない遠い国になっていた。だから日本については火星みたいなもの、と言った方が当たっているだろう。
戦争中米兵士を対象とした教育映画がたくさん作られている。米軍兵士は愛国心と冒険心から自ら志願した者が多かった。徴兵で引っ張られた日本の兵士達と比べると士気に違いが出るのは当然だ。
 
私の出遭った方で、16歳で年齢をごまかし海兵隊に志願して硫黄島の戦闘に参加した、というかくしゃくとした老人がいた。一人ではない。親友と示し合わせて志願し、奇しくも二人とも生き残った。あの戦争がなかったなら、こういう人達は地元を離れることもなくそこで一生暮らしていたはずだ。これは日本も同じであろう。とにかく戦争は多くの若者の運命を変えた。
 
当時黒人や東洋系兵士は軍内では全くの少数派だった。米軍部は忠誠心を含めて実際の戦闘能力に疑問を抱いていたことが理由のようだ。皮肉なことにこの人種偏見の壁をを打ち破ったのが日系二世部隊で、この映画の最初に日系二世部隊の活躍が賞賛されている。しかし、映画では日本人を‟Jap”と一貫して呼んでいる事から、この映画は日本を敵視する米のプロパガンダだ、と思いこんだ人も多い。
 
この映画の武士道についての視点がユニークだ。
ところで外国に行くと多くの日本人が、日本人はサムライの子孫で武士道に生きる民族だ、と自己紹介をするのによく出会う。不思議に思った私は、あなたは武士の子孫か?と尋ねることにしているのだが、これまで本当の武士の子孫にはあったことがない。ほとんどが田舎の水呑み百姓の倅である。どうして外人にこんなウソをつくのか私には理解できない。
 
この映画での武士道というのはで権力奪取の道であり、その手段として奸計・裏切を常習とする、となっている。そして日本の歴史は武士階級が政権を握って以来、この熾烈な権力闘争のリピートである、というのだ。天皇は大昔は宗教及び武力の覇者であったが、明治以前は太陽神の子孫として単なる宗教的継承者に過ぎなかった。明治以降の藩閥出身の指導者により近代国家日本の神となり、武家制度はそのまま軍部に継承された。だから、日本の軍部の本質、Aggression =過度な攻撃性、とGreed =野望(強欲)、は武士道に由来する、と主張。
太平洋戦史に詳しい方なら、上の2つのキーワードはポツダム宣言や東京裁判で繰り返し聞く言葉であることを知っている。第一級戦犯の罪はこのAggressionGreed であった。
だからこの映画は戦時下の米軍のスタンスを見事に反映している。
 
日本人は八百万の神を拝んで暮らしてきた。それは今日も変わっていない。天皇家というのも庶民にとっては諸々の神の一つにしか過ぎないはずである。
しかしキリスト教は多神教を認めない、また神の前では人間は平等、を信徒に厳しく要求する教えであるから、日本的な宗教観が破壊されるという事もあって豊臣秀吉と徳川家康がキリシタン弾圧に走り、鎖国を強行した。
明治以降キリスト教は再び日本に帰ってきたが、神格化した天皇制と競合することが出来なかった、というのはある牧師さんの話である。
 
他国で鎖国した国にタイがある。原因は同じく西洋文明に対する抵抗であるが、山田長政の活躍したアユタヤ王朝は鎖国状態の中、隣国ビルマ王国に侵入され滅亡した。あのままフランス王から軍事援助を受けていれば、滅亡することもなかったかも知れない。
 
李氏朝鮮も日本と同じく鎖国を続けたが、開国後日本によって併合され滅亡した。
 
日本では明治以降の天皇の神格化は国家の統合と富国強兵政策、つまり植民地獲得に大きく貢献したが、その後の軍部の暴走を抑えることが出来なかった、というのが米側の視点である。
 
軍部による天皇神格化に呼応するように大戦への道に貢献したのが、日本文化の根底を流れる日本人の気質だそうだ。
もう一つの短編映画、Japanese Culture WW2Eraに出てくるのは、
『ヤコブの梯子』ならぬ 『日本人の梯子』である。
 
旧約聖書の創世記にユダヤ人の始祖とされている族長アブラハムとその子イサク、孫のヤコブの話が出てくる。三人とも揃いも揃って狂信的であり、姿の見えない、触れられない、従って名も付けられない絶対神を崇めていた。ただこの神だけを愛し、この神が喜ぶことをすれば神に愛される、と信じこんでいた。ユダヤ人というのは聖書ではこのヤコブの子孫ということだ。読んでわかるように、神の喜ばれる事をするというのは並み大抵ではない。神によって選ばれた人のみに可能だ。そのヤコブが見た夢の一つに天からの梯子というのがある。この梯子は夕暮れ時に見える太陽の残光だという説がある。ヤコブには梯子(光線)を上り下りする天使が見えた、というのである。神に愛されているヤコブはやがて自分もこの梯子を上って神の御許に行く、と解釈したそうだが、反対に短編の中の日本人の梯子はそれとはかなり違う。
 
最上に神として天皇をいただくところは同じなのだが、その下は日本人の梯子では下に向かう果てしない階段である。日本人は常に自分が社会のどの階層=ステップに属するかを見極める民族だそうだ。しかし下だけはもちろん御免だ。だから下にならない為にはだれか他人の存在が下に必要になるということにもなってしまう。
そこで、身の程を知る、というのは、梯子全体での自分の位置を知ることを意味する。しいては日本人は常に梯子を、つまり社会全体を気にしていなければならなくなる。
そうなると、個人の権利、幸せの追求、独創性、などは二の次になってしまう。目標はいかに社会にうまくはまり込むかということで、日本兵がいとも簡単に生をギブアップし死を選ぶのはこの梯子のせいだ。
 
これが米国側から見た日本人の国民気質であるが、果たして当たっているのだろうか?