chuka's diary

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吉田清治は本当に日本を貶めたのか?

mop**srさんが数日前に吉田清治氏についての記事を載せていた。かなり古いものらしいが、これがインスピレーションとなり、拙ブログでも記事にする事にした。
なお、下の拙記事は上の記事の反論ではなくネットのリサーチをもとに私による独立した観点から書いている。
 
今日まで ‟吉田清治” の名は‟朝日新聞”とワンセット、‟慰安婦強制連行を世界中に広めた元凶‟ だと信じるネトウヨ側からは親の仇である。言あるごとに吉田非難がネットでリピートされてきた。つい数日前にも彼の謝罪碑が韓国政府の手によって見事復元、という記事が産経に載っていた。ネトウヨ側の口惜しさが目に見えるようではないか!
 
また、吉田清治と言えば彼のウソを暴いた功労者、‟秦郁彦”の名を忘れることはできない。実際、‟日本を貶めた吉田と朝日新聞”というキャッチフレーズは秦が作り出したようなものと言っても間違いではないだろう。
しかし吉田の強制連行捏造発見は秦のたった一つのポジティブな業績のようだ。
‟慰安婦はなんちゃって売春婦” 説を正当化する目的の著作、 『慰安婦と戦場の性』、 は非常にプロブレマティックである。
 
吉田清治のタイムライン
 
1913年(大正2年) 10月15日 吉田雄兎, 『ゆうと』と発音する、として生まれる。本人によれば出生は山口県だそうですが、吉田雄兎の本籍は福岡県、息子さんによれば、一家は川筋の人みたいです。
          
1931年(昭和6年) 門司市立商業学校卒 しかし卒業生名簿によると、吉田氏の生存中から当時者は死去となっているそうだ。
     上京、法政大学の法学部夜間に学ぶ、が 法政大学の学籍名簿には彼の名前がない
 
   
1937年 (24才)満州国地籍整理局に勤務
      朝鮮人李貞郁(20才)を養子にする。
1939年 中華航空、上海支店に支店長として転勤 (確証なし、秦郁彦より)
1940年 民族主義者金九の逃亡幇助で懲役2年、秦氏には、アヘン密輸に絡む軍事物資横領罪と言った
1942年 下関、労務報告会下関支部の支部長、民間の組織だが、在日労務者を集めて目的地に送る。
      息子によると、その朝鮮人労働者のほとんどが共産党員だった!
1943年、5月、軍の命令で済州島で慰安婦狩り 一週間で205人
1944年、妻フサエと結婚
            4月3日 山口県知事から女子挺身隊動員命令を受け、地元の在日女性100人を集める、『朝鮮人      慰安婦と日本人』より
      
1946年 共産党から門司市議に出馬、落選
1949年 長男生まれる
      朝鮮人養子の籍を抜く
1951年、次男生まれる
 
1963年(昭和38年=49才)NHK私の8月15日エッセイコンテストで佳作入選
それ以前にもラジオと私、という作文コンクールで一等10万円を獲得。その当時は朝鮮人の経営するパン屋で働いていたが生活苦にあえいでいた。
 
1968年、長男ソ連留学(ルムンバ友好大学?)福岡日ソ友好協会の役職についていた。
1969年、次男 ソ連留学
1971年、長男帰国 (両親が職を失ったので)
1973年、吉田清治、息子を頼って上京
      千田夏光、従軍慰安婦、発行 それ以後従軍慰安婦ブームが起こる。
1977年、『朝鮮人慰安婦と日本人』 在日女性を労務者と同じように海南島の軍慰安所に送る。
1982年、5月、講演で慰安婦狩りを話す 朝日新聞記事となる。
      9月、11月、サハリン裁判で法廷証言、済州島で慰安婦203人を捕獲、サハリンの慰安所へも送ら         れた
1983年、『私の戦争犯罪』 (済州島での慰安婦狩り)第ヒット
1983年12月、韓国天安市の国立墓地に、謝罪碑を建立。
      吉田清治は式典参加者の前で土下座し謝罪。
 
      元養子が死亡、労働運動の幹部だった、息子は会ったことなし
 
1989年 韓国語版『私の戦争犯罪』出版
1991年 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟の告訴状の提訴理由の一つとなる
1992年、秦郁彦、済州島で調査、吉田清治の慰安婦狩りは嘘と確信
1993年 河野談話
 
1996年 UN 人権弁護士によるクマラスワミ報告で、『私の戦争犯罪』は奴隷狩りに加担した日本人の告白として引用される。
    
1996年、週刊新潮にて、『事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんて 新聞だってやっている』と書かれる。
1997年、サラ・ソー、吉田清治にインタビューを申し込むが、吉田氏は、たくさんの脅迫電話を受けてるので            電話口で怒ってしまったことを謝罪、健康状態が悪いので、インタビューを断る
2000年、(86才)直腸がん闘病生活の後死亡
 
 
ところで当の吉田清治だが、彼は戦前の1942年に2年の刑期を終えて国内で出所している。彼の罪名は明らかでない。中国の上海で起こった、と本人は言っている。ひと儲けを狙って満州から上海へ流れていくのはありそうな話だが、彼が上海の共同租界に居住していたという確証はない。
国内の刑務所を出所後、1942年に下関に現れ、その地の翼賛組織である勤労報国会で労務者集めの仕事にありついた、というのは本当らしい。ここで対象となる労務者は、下関周辺に多かった在日や韓半島からの移民労働者だった。こういう半島系の男たちは、定職を持たずに港湾や工事場で肉体労働に日雇い的に従事していた。戦時中、山口・広島県内では鉱山を開発し鉱物資源を確保する試みがなされた。それに従事した(させられた)のがこの半島系労務者である。この鉱山群は戦後廃坑となっているところから、日本政府の試みがいかに現実性を欠き地に浮いていたものであることがわかるはずだ。
 
吉田は徴兵検査で既に不合格になっていた、と彼は『韓国人慰安婦と日本人』の中で書いている。写真で見る彼の分厚い眼鏡がそれを裏ずけているようだ。 
 
あれから40年、吉田清治は再び法に触れる行為をした。
1982年、9月と11月の2回、吉田は樺太残留者帰還請求訴訟、通称サハリン訴訟、に証人として法廷に立ち証言した。内容は、1943年に軍命令により済州島で慰安婦狩りをおこない、203人を捕獲、サハリンにも送った、と供述した。(産経より)
 
私はネットで慰安所マップを探したが、サハリンには軍慰安所はないようだ。しかし、地元で働いていた朝鮮人は炭鉱の売春宿を慰安所とたじらうことなく呼んでいた(産経の記事)のが興味をひいた。というのは、そもそも ‟慰安所‟ とか“慰安婦” という名自体は韓半島由来ではないか、という疑問が私の頭の中にあるからだ。それは、日本では昔から売春宿は遊郭で売春婦は遊女であった、日中戦争以前は慰安所の名はでてこないが、サラソー教授の本によれば、韓半島ではかなり古くから軍の慰安所として使われている、ほとんどの日本人、徴兵前は遊郭の性病医であった麻生軍医も含めて、は最初は慰安所の意味が分からなかった、などの事からの推察にしか過ぎないが、売春セックスを遊びと見なすか慰安とみなすかには文化の違いがからんでいるように思われる。
 
サハリン訴訟は1989年に原告4人のうち一人が帰韓、3人が死亡となり提訴が取り下げられた。この訴訟の原告代表が、著名な人権弁護士、高木健一氏だった。
しかし朝鮮人補償問題はそれで終わったのではなかった。全く正反対となった。
このサハリン訴訟を継承するのは1991年のアジア太平洋韓国人犠牲者補償請求訴訟である。そしてこの訴訟の告訴状には、吉田清治の慰安婦狩りが補償要求をサポートする重要な違法行為として挙げられている。この訴訟の原告は総勢34人、軍人(戦死者、被爆死)、軍属(捕虜虐待で懲役)、日本の国家総動員法で日本国内に働きにきた韓国人被害者(少なくとも一人は徴用者)と遺族、それに3人の元慰安婦女性で構成されていた。その3人の中には、その年に韓国初の元慰安婦として名乗りでた金学順がいた。 この裁判は2004年にまで及び、最高裁で時効として棄却判決を受け結審となった。この訴訟の原告代表も高木健一弁護士だった。
 
この告訴状はネットで公開されている。それを読むと当時の原告側の法的スタンスとクマラスワミ報告の法的スタンスには一つの共通項があるようだ。それは人権問題ではなく、‟慰安婦という戦時下の女性に対する暴力問題の責任追及”である。この法的セオリの進化・暴走が今日の解決できない慰安婦問題となっているのではないだろうか?
 
一方、秦邦彦が済州島を訪れ、吉田の強制連行は捏造だと発表したのは、1992年。彼の根拠は彼の出会った済州島の住民は誰も吉田の慰安婦狩りをおぼえていない、地元の図書館で1989年に吉田の本の韓国訳が出た際、それは虚言だという地元新聞の記事を発見、それをつてに元記事の信憑性が確認された、という点にある。そこまで来ると、吉田の本が想像の産物であるという確率は非常に高い。
吉田側は何らかの証拠を提示し、反論する必要がある。またはフィクションであることを認めることだ。しかし吉田側は何もしなかった。
その時点で吉田は偽証罪に問われるべきだった、と私は思う。なぜなら法は吉田のような詐欺師から市民を守る目的で存在するのだ。
 
しかし、吉田の偽証疑惑は引用程度でお茶を濁したようだ。焦点は吉田という個人と彼を記事にした朝日新聞に向けられた。
こういう事は米では考えられない事だ。
 
英語で捏造本を ‟hoax”(=ホークス) と呼んでいる。事実、‟hoax”は山ほどあるが、それがベストセラーになったり、ピュリッツァー賞を貰ったりすると、有名になった事が逆効果となりやはりバレてしまう。偽物である事が暴露されると、バブルのように消えるのみ。暴露した者が話題になることも、出版社が社会的に非難される事は聞いたことがない。実は拙者もこのホークスによる被害者であって、一旦本の中のイメージが頭の中に定着するとそれを打ち消すことは難しいのだ。
朝日新聞のようなメディアについては報道の自由という憲法条項があるので、日本のようには非難されない。ウィキーリークスも同様。今のところロシア介入事件で起訴は無理と見なされている。
しかし偽証は別問題だ。二つの訴訟が偽証に依存していることは当該弁護士の資格問題にも発展する。クリントン元大統領は関係した女性とセックスをしなかった、と偽証し、弁護士資格永久剥奪となったのはそのいい例だ。
 
驚くべき事は、高木弁護士側はこの吉田偽証に対する社会的責任を全く回避してしまっているという事だ。弁護側からの公式発言はネットでは見つからなかった。日本の戦後責任を法的に追及するという正義の味方を名乗るにはあまりにもお粗末過ぎる。彼の側が利を得るからというので吉田清治の違法行為を黙認するのは人権弁護士として間違っている。2つの訴訟に関わった高木健一弁護士及び関係弁護士連はこのイシューを明確化する義務がある。
 
今からでも決して遅くない、と私は信じている。
 
なぜなら、日韓間の慰安婦問題解決は和解しか道はない、と私は思うからだ。