chuka's diary

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戦時下の朝鮮人家族:When My Name was Keoko

 

When My Name Was Keoko

When My Name Was Keoko

 

 

“When My Name was Keoko”,2002、は以前紹介した“So far from the Bamboo

 grove”『竹の森遠く』(題名のみ日本語訳)と同年代の主人公の開戦前夜から日本の敗戦までの体験である。ただしこちらは朝鮮サイドからのストーリーとなっている。

 

この本は米図書館協会によって2003年のベストブックに選ばれた。『竹の森遠く』と同様に米の中学校で英語の副教材として広く使われている。

 

著者はLinda Sue Park。韓国系米国人だ。学校時代を通じて自称本の虫というくらいの本好きだった。今日では朝鮮を舞台にした青少年向けの歴史小説家として米国では非常に著名でありファンも多い。

 

“When My Name was Keoko”(=私の名がきょうこだった時) の日本語訳はない。

“Keoko”は『きょうこ』。理由は一般的に使われるいる“Kyoko”の方は英語では『きょうこ』と発音しにくいからだそうだ。

実はこの『きょうこ』は1945年の敗戦まで彼女の母の日本名であった。著者は両親から戦時中の体験を聞きながら育ったとかでそれをもとにしてこの本を書いたそうだ。

 

>1935年から1945年にかけての朝鮮史には空白がある。朝鮮側の確とした記憶にも関わらずこの10年間の日本総督府による朝鮮人抑圧政策の記録が無いのだ、また戦時中日本と共に働いた朝鮮人達もその史実をきれいに消してしまっている。

 

上記は“Korea’s place in the sun”by Bruce Cummings からの著者による引用である。特に戦時下の朝鮮人達の体験はこれまでほとんど国外には知られていない。だからの本には希少価値があるという意見も出ていた。

 

主人公は1940年当時13歳のTae-yulと10歳のSun-heeの兄妹。ストーリーは二人の交互の語りで展開していく。

 

当時この金一家は朝鮮半島のある地方都市に住んでいた。

父は小学校の教頭を務めていた。戦時色が強まってきた時代である。日本人の監督下での父の任務は生徒をよき皇国の民として教育することであった。この年までにはすべての教育は日本語で実施され学校内での朝鮮語の使用は厳禁であった。この学者肌の父はひたすら職に忠実であり常によき朝鮮人として振舞うことを忘れない人であった。

目の前で日本兵が息子のTae-yulに大切な自転車をよこせと命令した、天皇陛下の名においてだ。息子は自転車のハンドルを硬く握ったまま凍りついてしまった。たちまち日本兵との間に自転車の取り合いがおこったのだが、中に入った父は息子の指を一本一本ハンドルから引き離して日本兵に自転車を取らせたのだった。

息子の心は怒りに打ち震えたがどうして父に逆らえようか。

その時の父の蒼白な表情をTae-yulは決して忘れる事ができなかった。

 

母は家庭菜園に精を出し今や米の代用食となったかっての鶏の餌だった雑穀類を何とか食べられるように炊いてひたすら家族の日々の暮らしを守っていた。

しかしそんな従順な母でさえ槿(むくげ)の木を残らず引き抜いて焼け、代わりに桜の木を植えよ、という日本側からの通達にはさすがにムカッときたらしい。とにかく庭の槿の木はひっこ抜いたがこっそりと一本の槿の若木を納屋に隠したのはこの母であった。

槿(むくげ)の花は日本の農家や町屋の軒下でよく見られる花である。

日本国内で戦時下にそんな命令が出たというのは未だに聞いたことがない。

朝鮮人達はこの槿(むくげ)の花を国花として愛していたのでそれを妨害し止めさせようとしたのだ。

このように日本の同化政策は被支配側の朝鮮人達にとっては悪意のこもったハラスメントにしか他ならなかった。

 

父の弟である独身の叔父は広告宣伝ビラを作成する小さな印刷屋をしていた。血気盛んな若者らしく宗主国日本を憎んでいたが表向きは日本人相手の商売で経営を乗り切っていた。しかし裏では反日活動を行っていたのだ。

 

主人公の兄の方のTae-Yul は日本語学習に明け暮れる学校に不満を持っていた。その上、戦況の悪化により松脂取りや飛行場建設に学徒動員されるようになり学校をいっそう嫌うようになった。一体何の為にこういうことをしなければならないのか彼にはさっぱり納得が出来ない。しかしTae-yulは大好きな叔父さんのように日本に反抗する事はしなかった。父の教えを守って面倒を避け要領よくノルマを果たすというのが彼のとる道となった。

 

しかし妹のSun-heeは学校での日本語の学習、とりわけ漢字に意欲を燃やした。そんな娘に父は毎晩時間をさいて漢字を教えていた。

そのかいがあってSun-heeは小学校四年の時に日本語が最優秀であるということを全校で表彰され優等生のバッジさえ貰った。

ところがである、学校の帰り道で朝鮮人生徒に待ち伏せされ、“親日派”と囃し立てられた上に石を投げつけられた。

“親日派”chin-il-pa  とは日本統治に協力する朝鮮人売国奴という意味がこもっているのだ。

 

もう恐ろしくてバッジをつけて学校に行くのも嫌になったがつけないと今度は先生側に睨まれる。そういうわけでSun-hee はすっかり落ち込んでしまった。

そんな娘 の心情を察した父は、朝鮮王朝時代に有名な学者だった祖父は中国の古典に精通していた、漢字を学ぶことは祖先を崇拝する事につながるのだ、と説得した。そのおかげで彼女は再び漢字の勉強に熱中することができた。

Sun-heeの一番の友達は近所に住む日本人校長の息子“トモ”であった。

しかし同学年の“トモ”は日本人だけの高等小学校に去っていった。その後を埋めるように一人の転校生が新しい親友になった。この生徒の父は日本の銀行に勤める“親日派”だった。

 

この物語は戦争前の“創始改名”で始まる。父は集まった家族に新聞を読んで聞かせる。

『天皇陛下の御命により、この度朝鮮人はめでたく日本名を拝領することになった』

それを聞くなり叔父は烈火のごとく怒り出した。

『なにぃ!めでたく拝領するだと!全くうまく言い繕いおって!なぜヤツラは少しでも正直に言わないのだ!つまり俺たち朝鮮人は日本名を強制されるということなのだ。』

『来週にも皆で警察署に行って登録せんとな。』と深刻な表情の父。

『登録せんと、皆逮捕されるからな』と。

『やれるものならやってみろってんだ!俺の身体はつかまっても心まではつかまらんぞ。俺の名は俺の魂だ!』

その時の叔父の顔は唐辛子のように真っ赤だった。

『そんな事いっても何の役にも立たんぞ。』と父は叔父をたしなめた。

「皆、考えるからちょっと時間をくれ。」と父。

しばらくして父は息子の日本語の教科書から漢字を探し出して来た。この家族の祖先は金氏だ、だから祖先を忘れない為に金山という苗字にした。ついで兄をノブオ、妹をキョウコとつけた。

 

もちろんその後の数日間学校では大混乱がおこっていた。

それまでの朝鮮名が全部日本名に変えられてしまったからだ。何しろ日本名で呼ばれた本人ですらそれが自分だとわからずキョトンとしてしまう有様だから事情のほどは察せられる。Sun-heeは出来るだけ注意していたつもりだったが、第二日目にうっかりと同級生を朝鮮名で呼んでしまった。ところが運悪くその時軍人視官の“大西さん”が教室に視察に来ていたのだ。

“大西さん”は、まず『ゴホン』と大きく咳払いをし棒で片手をたたいて先生に合図を送った。

先生はただちに『金山きょうこ、前へ来なさい』と命じた。

そして金山きょうこことSun-heeは竹の鞭で足を打たれたのだ。鞭をふるった先生の表情は暗かった。

あの“大西さん”さえいなけれがこんな事は起こらなかったはずなのに。

Sun-hee は心の中で憤懣やる方なかった。教頭の娘で優等生の彼女がたった一回の間違いで皆の面前でみせしめとして鞭で打たれなければならないのだ。

しかし彼女にはこの不道理な罰と痛みをじっと耐えることしか方法はなかった。

 

そして真珠湾攻撃。その後朝鮮半島でも隣組が出現した。ラジオは没収されている。代わりに日本側は命令伝達手段として隣組点呼を頻繁に行うようになった。隣組は10列10家族で構成されていたのだが、Sun-heeの隣の一人暮らしのお婆さんは日本語が分からなかった。点呼の際にこのお婆さんは日本語で“ロク”が言えなかった。代わりに朝鮮語で“ロク”と言ってしまった。

たちまち日本軍人がお婆さんを前に引き出して、『このババァ、何をいっとるんだ?』と怖い顔で尋問した。

『まことに申し訳ごさいません、日本語がわかりません』

と隣のお婆さんは膝をついて謝罪したが朝鮮語だったのでこの日本軍人には通じない。

『大ばか者!お前の脳ミソは腐っておる。この国の公用語が日本語になってからもう30年も経っておるというのに日本語がわからぬということがあるものか!』

そういうなり手に持っていた棒で隣のお婆さんを頭といわず肩といわず滅多打ちにした。

お婆さんは前につんのめって倒れたまま動かなくなった。

『ロクだ、うすのろめ。ロクだぞ!』とその日本軍人は気を失ったお婆さんに向かって叫んだ。

ついで、母に向いて、『続行せよ』と命じた。

母は大きく息を吸い込み『シチ!』と怒鳴った。その後横の倒れたお婆さんを起こしにかかった。

『コラ!ソコのお前は何をしとるんじゃ?』

母は日本軍人に深く頭をさげ恐れ多い口調で、

『あなたさまがお年寄りを大切になさるように、私もお年寄りを助けなければならないのでございます』

日本軍人は母を睨み付けたまま、『それなら連れて行け!』とはき捨てるように言った。

その間Sun-heeは母も棒で打たれるのではないかと生きた心地がしなかった。しかしあの普段は口数の少ない母がこのような強い口調で年配の男の人に話すとは、と内心では驚いていた。

それ以後Sun-heeは点呼がかかると真っ先に外に出て隣のお婆さんの場所を取るようにした。このお婆さんは何とか五までは日本語でいえるがその先は、『私は日本人じゃないからこれで充分』とかたくなに拒否していたのだった。