chuka's diary

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アイリス・チャン: 南京レイプ

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前回では、1937年(昭和12年)12月の南京攻略・大虐殺を境として日本国内で従軍慰安婦の勧誘が起こったことを書いた。翌1938年には、中国大陸前線各地 に帝国陸軍専用の慰安所が次々と設置された。前述の麻生軍医の陸軍への意見書(1938年)はこういった背景のもとで書かれたものだった。彼は上海で最初の陸軍特殊慰安所設置に関与している。この慰安所モデル(=一般兵士を対象とした清潔な公衆便所)が中国前線に普及したと考えられる。一般兵士向けと書いたのは、将校向けは公衆便所ではなく、高級料亭や当時流行っていたカフェをモデルにしたものだからだ。これは今日の水商売モデルに繋がっている。
 
ところでその南京大虐殺であるが、戦後、東京戦犯裁判で1948年に責任者は死刑に処せられた。
その後、中国共産党の中華人民共和国との国交回復は1972年であり、1949年の共産中国成立以来23年間日本と中共とは国交がなかった。
しかも1970年前半は中国は文化大革命の真っ最中。国交回復に関しては南京虐殺は別に大きな障害とは見られていなかった。むしろ尖閣諸島の所領がイシューとなりかけた。
日本は戦後経済高度成長を維持し、1980年代になって日本経済はピークを迎えようとしていた。後進国中共の南京事件などはすっかり忘れ去られていたはずだったが、寝た子を起こす人が現れた。当時朝日新聞記者だった本田勝一氏である。彼の「中国の旅」は朝日新聞に連載され、戦後生まれの戦争を知らない新左翼世代に大きな反響を呼び起こした。本田氏が三光作戦、南京大虐殺、百人坑(百人斬切り)などの日本軍の残虐行動を、天下の朝日新聞で白日の下に晒した格好になった。
しかしこれに対抗するがごとく、1973年、鈴木明氏の‟南京大虐殺のまぼろし”、が出版された。この本こそが、今日の、南京レイプはなかった、という都市伝説の始まりだと私は思っている。しかしその鈴木氏も南京虐殺までは否定することは出来なかった。
ところで今年5月に再放送されたNNNのドキュメンタリー「南京大虐殺II 」がYouTubeに載せられている。真相を究明したいという日本側の努力の結晶であり、ぜひ英字幕を付けて欲しい。
 
しかし、これは日本国内の事であり、戦後の中共の孤立化によって南京大虐殺は第二次日中戦争の歴史の一コマとして歴史の埋もれていた。それを‟忘れられたホロコースト”と銘打って一晩で世界的に有名にしてしまったのがアイリス・チャンだった。彼女による1987年の‟The rape of Nanking” (=ザレイプオブ南京)は3か月に渡ってNYタイムスベストセラーのリストに入っていた。
 
そのアイリス・チャンをYouTubeで検索してみた。YouTubeには生前の彼女のインタビューや講演がいくつか掲載されている。
YouTubeには南京大虐殺 のドキュメンタリーとして、‟Rape of Nanking , Atrocities in Asia”、があったのでそれを見た。
当時南京に残って南京占領を体験した外国人達、米人医師、金陵女子大の学長だった米女性、南京のナチ代表のドイツ人ジョン・ラーベ、米人記者、になったつもりで俳優達に彼等が残した証言を語らせる形とドキュメンタリーで構成した米Film ‟ The Rape of Nanking 、2007‟ があったのでこれも見た。
 
アイリス・チャンとのインタビューはC-span(米有線公共放送)のブックチャンネルのがよかった。聴き手の質問が鋭かった。例えば、アイリス・チャンとの中国系団体との関係についてである。この団体は日本戦争犯罪を世界に忘れさせないことを目的としている。アイリス・チャンはこの団体からかなりの援助を受けたようである。
番組中に、このフォトのソースは?とか、このエピソードのソースは、とまるで詰問口調で次々とアイリス・チャンに質問を浴びせていたのには驚かされた。
アイリス・チャンはそういった質問に理路整然と答えていた。すごく頭のいい人だったようだ。
 
なぜ、南京レイプなのか?
1937年に帝国陸軍と中華民国は開戦した。その年の12月、上海占領後、中華民国の首都であった南京に兵団を進めた。ここで一挙に中華民国の首都南京を攻め、蒋介石に中国における日本の覇権、すなわち利権(領土割譲なども含めて)を確立する為だった。
ところが、蒋介石はいち早く南京から奥地の重慶に政府まる抱えで撤退、帝国陸軍の歩兵部隊が上海から南京に到着した時には南京政府はもぬけの殻。全くの無政府状態におちいった。後は日本軍の入城を待つばかりというわけで、家々には日の丸が掲げられ、置いてきぼりをくった兵士達は軍服・武器を棄て一般市民の中に紛れこんだ。
事実は南京は日本軍が到着するまでの100日間、毎日朝から無差別爆撃にあっていた。市は連日の火事や建造物破壊で大混乱し、多くの住民は城外に逃げていたのだが、外からの避難民や国民党兵士達が市内にあふれつつあった。
そこに到着した帝国陸軍は、中国人の男を国民党兵士と言って集団連行した。裁判も何もないまま、彼等は後ろ手に縛られたまま集団処刑された。陸軍の報告によれば、実際に投降した国民党軍2万人あまりを最初の2日間で全員虐殺してしまった。その後は、一軒一軒のハウスサーチをして、金品を略奪、男は連行、女はレイプし、その後の軍の処罰を怖れて殺した。現地女性のレイプは帝国陸軍では重刑であった。老人、子供もみさかいなく殺した。
市の街頭は死体で溢れ、揚子江は数万の惨殺死体で一挙に血色に変わったと言われた。この南京には27人の西洋人が残っていた。そのうち数人は新聞記者であり、13日の日本軍入城から2日後の15日には、揚子江を上ってきた米軍砲撃艦オアフで電信を送ることに成功した。もちろん、日本軍は厳密な箝口令を出し、残留西洋人が南京を脱出することを禁じていた。
速くも12月15日付けでシカゴデイリーが南京大虐殺を報道した、続いて全米各地にニュースは広まったのだ。
 
あの麻生軍医はカメラが趣味で、1938年のはじめに上海で日本人写真家と一緒に写真を現像したことを日記に記録している。多くの写真は前線の日本兵が写したものだったそうだが、たくさんの残虐写真があったそうだ。それらは軍の検閲にそって廃棄したと自ら書いていた。しかし、彼は南京事件のことは詳しく知らない、そういった軍による集団殺戮については聞いてない、と戦後報告している。
 
アイリス・チャンは 帝国陸軍が2万人の国民党軍捕虜を皆殺しにしたのは上からの命令であったと述べている。その後3か月に及ぶ民間人虐殺・レイプもこの無血入城を利用して、中国人に皇軍の怖ろしさを徹底的に憶えさせるという戦略であった。
彼女は、日本兵士達の残虐行為の理由は明確ではないが、兵士達は皆残忍な私的制裁を日常としていたこと、そのトラウマが中国人に対する怒りとなって爆発したのではないか、と述べている。その背景には、異様な中国人蔑視がある、と指摘していた。南京で行われた事は、南京を中心とした中国人人口の絶滅化であり、ユダヤ人へのホロコーストと全く変わりない。
 
南京市街の中心部に安全地帯が南京ナチのリーダーだったジョン・ラーベによって設置されたのだが、その中の金陵女子大学キャンパスに避難した女子学生を狙って日本軍は毎日押しかけてきた。
今日世界的に有名となったジョンラーベの日記はアイリス・チャンによって再び日の目を見るに至った。
アイリス・チャンはあのような日本軍の行動を、ローマ帝国を滅ぼしたフン族のアッチラ大王やモンゴル軍団と同様だ、と述べていた。