chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

からゆきさんから慰安婦へ

迷えぬ羊の独り言  
 
日本に住んでいる日本語人なら❝からゆきさん❞という名を一度ぐらいは聞いたことがあるはずだ。しかし現在では❝ジャパゆきさん❞の方がもっとポピュラーなのではないだろうか。
歴史の中のからゆきさんとは戦前海外で売春を強要された日本女性を指している。強要された、と書いたのは、これらの女性達は日本の悪しき風習である身売りの犠牲者だったからだ。
 
からゆきさんの歴史的存在は山崎朋子の『サンダカン八番館』(1972)や森崎和江の『からゆきさん』(1976)に負うところが大きい。この方々の努力がなければ、からゆきさん達は固く口を閉ざしたまま世を去り、歴史の奥底で忘れ去られてしまった可能性が大きい。この点でもからゆきさんと日本人慰安婦との類似性に注目すべきである。
 
慰安婦関係の著作や論文には必ずといっていいほど慰安婦の先駆けとして❝からゆきさん❞があげられている。それでからゆきさん関係の本や文献を主としてネットで漁った。
英語圏からもいくつかのKarayuki-san論文やシンガポールの強制売春についての著名な本 『AhKu and Krayuki-san, Prostitution in Singapore 1870-1940』(2003) を参考にさせてもらった。 
 
❝慰安婦❞❝からゆきさん❞も非情な歴史の犠牲者達であることには変わりないと私は思っている。
 
さて、歴史の中の❝からゆきさん❞とは、明治末期から第一次大戦後にかけて活躍した海外の日本人売春婦達のことである。活躍という言葉を用いたのは、海外、たとえば、シンガポール、満州、米国西海岸等で、日本女性売春婦として社会現象として目立つ存在となったということである。
 
上のはいわば「広義のからゆきさん」で、「狭義のからゆきさん」は、山崎朋子や森崎和江のからゆきさんで, 当時南洋と呼ばれた、中国南部の香港、シンガポール、マレー、ボルネオ、インドネシア、で強制売春をしいられた日本人女性達を指している。
 
「からゆきさん」という名はユーフェミズム(過酷な現実を茶化した名)であり、「唐人お吉」と同様に外国男の娼婦となった女を指している。この名はは九州北部のからゆきさん出身地あたりから広まったと書かれている。当時の日本人は彼女達を醜業婦とか女郎と呼んだ。要するに遊郭の売春婦のことである。当時日本人の間できわめてポピュラーなもう一つの呼び名は❝娘子軍❞であった。
娘子軍もユーフェミズムであるが、これなどは史実をある程度反映しているかもしれない。
歴史的には人身売買を基盤とした売春業は鎖国下の農耕国家日本の重要な産業の一つとなっていた。今でいうエンタメ業と風俗・飲食を一緒くたにしたものと考えたらよい。
この売春産業は鎖国化の日本の格差社会、少数の支配者と大多数の農民及び貧民=日雇い労働者層という社会経済的構造下で生まれた。 
明治維新による開国で、多くの日本人が飢餓からの解放と一攫千金の夢を抱いて海外に向かったのだが、絵に描いたような成功者は希だったようだ。その中で明治政府が必要とした外貨獲得に貢献したのがからゆきさんであった。彼女達の相手は当地の外国人であった。彼女達の滞在先でからゆきさんの必要品を供給する日本人達の商売がはじまり、そこに日本人達が集まるようになった、いわば彼女達が日本人進出の足掛かりとなったわけである。日本を遠く離れた辺境で外国人相手に身体を張っての儲けぶりに、一足遅れにやってきた日本の男達は感心せざるを得なかった、というのが娘子軍の由来だそうだ。こういったからゆきさんの存在は日本を離れて情緒不安的になりがちな日本人移住者達の心の支えにもなった、というのだ。娘子軍は後に慰安婦を指すようになる。こちらは身体をはっての愛国サービス、というわけで、この呼び名は明らかに戦時下のナショナリズムに繋がっている。
 
歴史上のからゆきさんについて重要なイシューが存在する。それは彼女達が渡った外地の法律である。からゆきさん達の行く先は二つに分かれる。一つは上海なの中国の日本租界、満州や朝鮮半島のように日本の勢力下にあった地と、もう一つは米国西海岸、ハワイ、英領南洋、オランダ領インドネシアのように、宗主国の売春規則法に従わなくてはならない外地であった。後者は登録売春婦制である。登録売春制は日本の研究者が唱えるような、娼婦の国家管理を目的としたものではない。私は日本の研究者が上のような誤解的見解を持ち出す理由がわからない。
 
ヨーロッパではじまった登録売春制の目的は性病の伝染拡大の阻止であった。性病、とくに梅毒は今日のエイズのようなものと考えてよい。ヨーロッパでは梅毒が15世紀末から住民を恐怖で震撼させ大きな社会問題となった。売春婦は神の教えに背くインモラルな行為に従事し、梅毒の犠牲者となった売春婦は神の罰を受けたと考えられた。聖職者達は売春の悪について熱心に説いたのだが、それでも売春はなくならないし、梅毒患者も多く出た。
しかし特にナポレオンの時代のように大規模な国民軍を必要とするようになると、軍隊内の梅毒感染率の高さは国家の興亡を左右する深刻な問題と見られるようになった。
当時一般兵士は独身であるので軍の駐屯地には売春宿はつきものだった。そこで兵士相手の売春婦を登録制にさせ、二週間に一度軍医による局部検査が義務つけられ、梅毒と認定された売春婦は一か月から一年に及び病院に強制収容された。彼女達はその後元の軍相手の登録売春婦には戻れなかったようだ。
しかし19世紀後半になると登録売春婦制度は英仏本国では女性に罪をなすりつける人権蹂躙だと批判され、すでに廃止されていた。しかしこの法律は植民地では施行されていた。その理由は植民地では自国の女性を売春船や売春宿に監禁しあくどい金儲けに徹する外国人がいたからだ。それは日本人と中国人の遊郭業者であった。犠牲者であるはずの売春婦も客の手をひき熱心に客を勧誘した。