chuka's diary

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再び:小野田寛朗の不都合な真実

拙ブログのツイン版、Hatena Blog、 chuka's diaryに数日前に下のようなコメントが送られてきました。記事は『小野田寛朗の不都合な真実』です。
 
 
 運悪く現地を通った旅行者
現地ではただの連続殺人犯扱い。戦後も敵兵士ばかり殺害していたなら英雄扱いは妥当だが、実際は民間人ばかり殺害していた。
被害者家族には謝罪の言葉もなく、何の保障も無かったそうです。感覚としては伊藤博文を暗殺した犯人が故国では英雄として奉られている事を不快に感じるのと同じで、日本で英雄扱いなのは不快に思うそうです。
当時の日本軍において、敵国の民間人を殺害する事は、日本軍人として当然の事だと言われたのであれば、教育を施した軍が悪いから仕方ないけど。
日本人のイメージが悪くなるから、現地の情報を無視した当時のマスコミの報道の仕方にも問題があった。
コメントありがとう。
 
小野田さんのように三十年あまりを戦争後孤立化、そのままサバイバルして生還した人が三人いたのをご存知でしょうか?
 
1) 横井庄一 1972年帰国、当時57歳 陸軍軍曹 グアム島 終戦後グループで逃亡生活を送っていたが、いさかいが原因で一人で生活を始める。残りのグループは全員死亡
 
2)小野田寛郎 三人グループで逃亡生活。1972年、最後の食料収奪に失敗、小塚軍曹の死、で1974年に投降の儀式を通して帰還。
 
3)中村輝夫 1974年12月、52歳、軍国少年で志願して軍港少年で台湾歩兵第一連隊、太平洋モロタイ島から帰還、日本に帰りたいという希望だったが、ジャカルタ経由で台湾へ帰国させられた。
モロタイ島からの最後の日本人帰還兵は1956年だった。中村さんは原住民のように裸で暮らしていた。島の住民の一人が彼の友人になり、彼から補助を受けていた。
 
3人のうち住民を襲撃、略奪した彼らの食料や生活必需品で生存していたのは小野田さんグループのみです。
 
小野田寛朗著となっている『わが三十年戦争』はたちまちベストセラーとなり、英訳もすぐ出ました。
 
彼の本はアマゾンジャパンでも結構いい値がついて、決して捨て値では売られていません。英訳‟NO SURRENDER My Thirty-Year War ”は名作とされ、今日に至るまで多くの人々に読まれています。
ところが原作については、ゴーストライターの津田信という作家が、1977年に『幻想の英雄』という本を出し、小野田さんのは自分が想像力を駆使して売れるように書いた、と告白したので、かなり話題となったようです。しかし、その時はすでに小野田寛朗はブラジルに去った後。将来帰ってくるのかどうかも分からない、と思われ、彼も日本ではもう過去の人となっていたのです。
だから今日と当時の日本の小野田評価はかなり違っていました。  
 
ところで英訳本を読んでみますと、かなり興味深い事を発見しました。拙ブログでも取り上げましたが、小塚一等兵の死の場面は嘘らしい。
心臓を撃たれた後、本の中に描写されているようにしっかり意識があり判断力もある人間はいません。また死ぬ瞬間に涙を流す、というのも生理学的に疑わしい。しかし事情はどうあれ、小野田寛朗は小塚さんの銃を手に小塚さんとは反対方向に向かって逃亡したのは確かなようです。
 

英訳によると、小野田寛朗の銃は前から問題があったことが述べられています。だから小塚さんが肩を負傷し取り落とした銃を拾って逃げたという事は充分あり得ることです。銃がなければサバイバルは不可能。待っているのは餓死か住民・警察に撃ち殺されるか、のどちらかでしたから。

 
もともとこの襲撃は稲を刈ったあと、田んぼの傍で稲束を干す作業を狙ったものです。棒や竹などで枠組みをこしらえ、その上に水分を含んだずっしりと重い稲束をかけて数日間干すわけですが、日本人の多くはもうこういう稲作の行程は知らないんじゃないでしょうか。
小野田・小塚組はその時を待ち構え、収穫したばかりの稲束に火をつけて住民を恫喝することが目的、と書かれています。
しかし、当時はすでに小野田組に対する警察と住民の間の緊急警戒態勢がほぼできあがっていた、小野田組もそれを承知で放火を実行したのですが、小塚さんが、住民が逃げ、残された昼食の鍋を失敬しようとして思わぬ時間をくい、村人達が警察を連れて戻ってきたことで、小塚さんが撃たれてしまったのです。
私は拙ブログで小野田組はコメを持たない、食べない、と津田さんの本の情報をもとにして書きましたが、昔の日本人でコメなくして生きていけるわけがない。ルバング島の残留日本兵達も取り分のコメをめぐって醜い争いがあったと小野田寛朗も報告しています。おそらく稲の束を焼いたのもコメがたべられない自分達の嫉妬やコメを主食にしている住民に対する憎しみの感情があったのではないか、と推測します。
 
小野田寛朗は終戦時、最下位の見習い将校でした。将校というのは指揮官で兵卒は指揮官の命令に従うのが軍の基本的規律です。これなくしては近代的軍隊は成立しない。しかし日本陸軍内部の精神構造は近代的とは程遠く天皇を神とした古代的神軍組織という異常なものでした。小野田寛朗は一時的にしろただ一人の生き残り将校となり、兵士を指揮する立場になったのです。近代軍隊なら指揮官は負け戦はしないで投降というのが一般的ですが、日本軍は自分を犠牲にして死ぬまで戦い、敵に損害を与える、という言わば地獄の軍隊です。そこで小野田寛朗少尉見習いの選択はどちらでもない、ジャングルで何が何でも生き延びる、ということになったのです。
 
民間人殺害は日本軍でも禁じられていました。しかしそれを守らせるのは指揮官の責任です。戦闘が最悪化すれば占領地で繰り返し起こっています。この現象は今日も同じです。しかし表面は近代的な日本陸軍が大っぴらに中国民間人を殺戮、女性を強姦、さらに占領地の現地女性を軍の慰安婦として性的虐待を行ったのは、世界的にも驚きです。ここでの慰安婦は半島からの慰安婦ではなく、オランダ人や中国・インドネシア島の占領地の女性達のことです。何かが狂ったとしか言いようがない。
 
小野田寛朗の帰国に対する当時の日本社会の反応は政府の音頭取りにも関わらず、決して甘いものではなかったようです。
実は私は一度だけ小野田寛朗を近くで見た事があるのです。場所は皇居二重橋前の広場です。終戦の日に人々が集まり嘆き悲しむ写真が残っていますが、その日はもちろん、ただの砂利を敷き詰めた人影まばらな空間でした。昭和天皇は小野田は全く無視です。皇居前の二重橋の見える地点で黙って頭を下げていた彼の姿が印象的でした。小野田自身もこれ以上問題になるのを恐れて、ブラジルに逃げ去った、というのが当時の見方でした。小野田寛朗が最後の日本兵としてヨイショされるようになったのは、日本の奇妙な右傾化と安倍政権のせいでしょう。
 
『ジャングルでのサバイバル』の為に、多くの住民が小野田組に残虐に殺されました。伊藤博文暗殺犯人は日本の司法制度下で死刑になりましたが、これらの犠牲者の方々に社会的法的正義はいつなされるのでしょうか?