chuka's diary

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逆説の日本教と戦争責任

下は、元ヤフーブロガーのmop**srさんのブログ記事、山本七平氏の日本教について、の拙コメントです。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12503812085.html
 
 
 
 日本では1960年代頃から日本人及び文化の孤立性にネガティブに焦点をあてた‟日本人論”がさかんになっていた。それには高度経済成長、円の自由化(それまでは戦後いらい1ドル=360円に公定だったのが自由化で200円に落ちた)、結果として安い海外旅行の一般化、が背景にある。70年代のヨーロッパには日本からの大量の放浪者が滞在していた。当時アメリカではコーヒーの値段が高くで50セントだがお代わりフリー、ただし水のように薄かった。日本では70-100円どまり、フランスでは一杯約60円で例のクリーム無しの真っ黒けのコーヒーがカフェで飲めた。それに他国の物価は驚くほど安かった。確かにこの時点で戦後はとっくに終わっていたと言えるだろう。
 
山本七平の『日本人とユダヤ人』もその一例だと思っていた。しかし1970年に出たこの本は日本人の正反対像となった和製‟ユダヤ人”ブームまで引き起こしたのだ。山本氏の社会への影響は今日に至るまでユダヤ人陰謀説などのように長く尾を引いているようだ。
 
拙者もこの本を読んだ一人だが、当時の感想としてかなりオーバー過ぎると思った。が結構おもしろく読めたことを記憶している。
 
今では山本七平氏がユダヤ人・イザヤペンダサンとして華々しくデビューした70年の頃を口に出す人はあまりいない。当時、インテリ、学生達の総左傾化が起こったのだがあの時期の流行語は『主体性』であった。それまでは階級闘争から革命への流れは歴史的必然、というのが共産党をはじめ当時の左翼理論家のドグマであったのだが、共産党が学生運動のヘゲモニーを失った60年安保を境に型通りのマルクス史観は通用しなくなった。
‟主体性”を掲げる団塊世代にはマルクス主義も革命も個人的選択の一つになってしまったからだ。だから山本七平も大学闘争時代の日本社会の‟空気”をしっかり吸い込んでいたのだ。彼の内なる‟日本教”は『主体性』に欠けるネガティブな‟日本人像”に他ならない。
 
 『日本人とユダヤ人』では訳者山本七平氏は当時日本では珍しい旧約聖書の研究家として紹介されていた。だが、これもつい最近知ったことだが、どうやらこの本をはじめ彼の一連の日本教及び日本人論は氏の凄絶な‟戦争トラウマ”の‟カタルシス”が根底にあるように思えてならない。
 
山本七平によると‟日本教”にはユダヤ教のような確固とした教義が存在しない。
その場その場の‟空気”を読むことが教義の代替えになり、論理性に欠ける‟空体語”をいとも容易に受け入れてしまう下地となっている。
これには膠着語系に属する日本語の特殊構造が大きく貢献しているとかで、日本教のみならず日本語まで手厳しい批判のターゲットにされている。その反対は英仏独に代表される西洋語=合理語(?)となっている。元来ヨーロッパの2大言語系は、ドイツとラテンである。現代英語は先の二つの言語の混合が英語としてエリザベス一世の頃までに成立した。文化習慣にもラテン系とドイツ系には大きな違いがありこれらの二つの言語のみに合理的発想が内在しているとも言い難い。また、日本語のように極度に地域化した言語系は世界中で今も健在であり、そういった孤立言語系が論理性に欠けるという説はいまだに言語学者側からは出ていない。英語が世界語になってしまったのは論理性ではなく英国植民地の拡大という政治的原因からなのだ。
 
この‟日本教”と正反対なのが、一神教の教義で身を固めたユダヤ教、ついてはユダヤ教を土台としたキリスト教、イスラム教だと山本氏は主張しているのだが本当だろうか?
 
一般的にキリスト教・ユダヤ教・イスラム教は ‟一神教” という共通項にくくられている。しかし信仰としてはそれぞれが全く違うしろものだ。もともとキリスト教は新約に記された主イエスの奇跡の数々が信仰の礎となって伝道によりヨーロッパ全域に広まった。だから西洋合理主義はキリスト教が根底にある、と21世紀になっても信じている人が日本にはいまだに多いが、逆にヨーロッパ近代はキリスト教のくびきを絶つことからはじまったという見方が歴史的には広く受け入れられている。
 
キリスト教の一神教の教義は三位一体である。
神の主体は一つであるが、神格は3つ。ユダヤ教から受け継いだ唯一神、救世主イエス、聖霊という3つの違う神格が一つの神を構成している、という複雑で神秘な唯一神教がキリスト教による教義である。当初から奇跡を信じる信徒達にはこの方がより有難かった。
しかし、この三位一体は新約のイエスの言葉には出てこない。イエスの死後100年以上もたって聖職者会議で決定され、これ以外の説を持つキリスト教会は異端とされ迫害の為に消滅を余儀なくされた。
 
なぜクリスチャンに生まれ育った山本七平氏は三位一体のキリスト教でなくユダヤ教で日本批判をしたのか?
私には最初から非常に不思議に思えた。
 
旧約の有名なモーセの十戒はキリスト教にも共有されている一神教の原則である。
#1はユダヤ人の祖アブラハムと彼の子孫の神のみを崇める。#2はカナン人達のような偶像崇拝の絶対禁止である。
旧約のモーセの出エジプト記は、今日では旧約の中でもっとも古い記述ではないかという説が有力になっている。神の名がYHWHという子音4文字で初めてモーセに神みずから伝えらられた。それまでは神は名もなく姿もない絶対唯一の天の存在だった。羊のバーベキューをして匂いや煙を天に送り神に気に入って貰えることは司祭達の重要な職務だったのだ。
ところがモーセに従って砂漠を彷徨していたユダヤ人達がモーセの留守中に偶像崇拝に傾倒してしまい神の命で違反者は全員殺された。それで旧約の神は怒りの神と性格ずけられている。
 
今日でもユダヤ教を棄教すると殺されなくとも死んだ者として村八分にされる。だから日本だけが村八分の本家ではないのである。むしろ唯一神教の特徴となっている。
 
旧約の一般的な解釈では、ユダヤ人及びユダヤ教の創始者はアブラハムという遊牧民の族長であった。アブラハムの人々はカナン(パレスチナ)人ではなく遠くメソポタミア(イラク)からやってきた異邦人である。彼の崇める神は名もなく形も無い唯一神、今日のイスラム教の神はこれを模している。この神のみを崇め絶対服従することでカナンの地をアブラハム、つまりユダヤ人の子孫で満ち満ちさせる、と神が約束されたというのがユダヤ教の教義の根本なのだ。
 
しかし、カナンの原住民側にとってはトンデモ災難。もともとカナンは地中海の交易ルートとして海岸沿いには城塞都市が並びかなり繁栄していたと見られている。時期はBC1500頃と推定されている。しかし内陸部は水の乏しい荒れ地で遊牧民の場となっていたらしい。21世紀に入り、旧約の神を示す古代ヘブライ語=イスラエルの‟エル”、がカナンの原住民のリーダー神の名であったことが確定され、ユダヤ教はどの時点で他の神々を切り捨て唯一神教に早変わりしてしまったのか?が現在の議論の焦点となっている。いずれにせよ、考古学的な証拠待ちの状態だ。
だから、多神教とされる‟日本教”の方が極めて自然であり、日本では唯一神教に特有な一つの特定宗教による他宗教の物理的排除が起こらなかったと考えた方が理にかなう。
 
しかしこれはキリスト教を除いての話である。
 
日本のクリスチャン達は鎖国と前後して古代ローマ並の大迫害を受け絶滅してしまった。理由はモーセの十戒#1のように他の神の崇拝拒否である。どうやら地の利とキリスト教の大分裂という歴史の流れが日本のクリスチャン信仰を見殺しにしてしまったようだ。
 
現代日本のクリスチャンを日本教キリスト派と山本氏は皮肉っているが、その中の一人が彼自身である事は忘れてしまっている。
戦時下の日本のプロテスタント教会は戦争に協力することになり、キリスト教会の大政翼賛会として日本基督教団を結成した。これは現人神天皇の崇拝であり、クリスチャンとしてはあり得ない事だ。しかし、山本七平氏は迫害を恐れるあまりクリスチャンである事をひた隠しながらも、自分はクリスチャンだという意識から一般の兵士達とは一線を画し、戦争を奇跡的に生き残ったのだそうだ。
 
クリスチャンと自称しながら信仰を守れなかった元日本軍将校の山本氏にとっての戦争責任は‟日本教”にあり‟空気”にあるということになった。
 
聖書は一冊だがキリスト教では新旧二つに分かれている。しかし実体は新約は27冊、旧約は39冊の異なった本の集合である。新約は短編で旧約は長編ものと考えてもよい。旧約の種類も神話・王・預言者・個人、詩など文学・歴史の集大成であり、扱っている時代はBC3000(ノアの箱舟伝説)からBC200にまで及び、人類のエンサイクロペディアとも呼ばれている。
 
今日のユダヤ教はイスラエル建国と関連して極度に政治的である。1970年代はパレスチナ紛争の最盛期でもありイスラエルは世界から非難を浴びた。マルクス主義を掲げるグループにはヨーロッパからの義勇軍兵士も参加していた。日本赤軍として岡本公三はアラブの英雄とさえなった。だから山本七平氏のユダヤ教ヨイショの本はイスラエル側から大歓迎されることになった。
 
当時のイスラエル側のスタンスは、遺跡発掘をすれば旧約の歴史的正当性が実証される、というものだった。あれから50年、残念ながら考古学的検証は逆方向に向かっているらしい。当然ながらイスラエル側はそれに強く反論している。
 
下の動画は旧約の中で最も読まれ人気のある『詩編』の一節をポップミュージックにしたもの。