chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

日本のエンペラーゼネラル、マッカーサー

"The emperor general"はマッカーサーの伝記である。何といってもタイトルに惹かれた。こちらは『天皇ゼネラル』、つまり昭和天皇を差し置いてマッカーサーが敗戦後の事実上の天皇であった、という風刺が効いている。
 
しかし、タイトルの意に反して、この本はおそらく小学生向きのミニ伝記だ。米では普通に読み書き出来ない人がかなりいるので、まあ小学生から大人までとしておきたい。 
 
マッカーサーという歴史上の人物の名は誰もが知っている。しかし、彼の生い立ちやその後の経歴については私は全く何も知らなかった。コーンパイプを加えて厚木基地に降り立った姿、きちんと正装した昭和天皇と並んだカーキ姿の大男の姿、これらは歴史の教科書に記載されているおなじみの写真である。
 
ダグラス・マッカーサーのアメリカ人としてのルーツは、祖父のアーサー・マッカーサーがスコットランドのグラスゴーからマサチューセッツに移民するところから始まった。『マッカーサー』という苗字自体はスコットランドの有名なクラン(部族)からきている。祖父のアーサーは自分達はこのクラン・マッカーサーの族長の直系の子孫で王族とも縁続きだといっていたらしい。クランの族長はスコットランドの貴族であり、英王室とも遠い親戚である。クランの身内も族長と遠い血のつながりがあるから、祖父の言っている事もまんざらホラではなかっただろう。しかし数々の反乱の歴史に彩られたスコットランドのクランはイギリス軍に完敗し、生き残りはアメリカやオーストラリアの英コロニーに囚人として流刑に処せられた。しかしそれでもスコットランド人から昔かたぎの名誉・忠誠を重んじ、質素剛健なライフスタイルを守って生き抜いてきたというプライドを奪う事は出来なかった。こういっては失礼にあたるが、スコットランド人といえば今日ではケチの代名詞となっている。
 
しかしながら幼いアーサーがアメリカに渡った頃には家族は貧乏だった。彼自身も家族の生活を支えるためせっかくの大学を中途で断念せざるを得なかった。
だが運命の女神は彼には親切だった。
大学を中退し法律事務所の事務員をしたおかげで彼自身が弁護士になれたのだ。それに金持ちの娘と結婚できた。あれやこれやで、結局彼はウィスコンシン州の知事までなり、かの北軍最高司令官だったグラント大統領によって首都ワシントンのコロンビア特別区の最高裁判所判事に任命された。
 
彼の息子アーサー・ジュニアはウェストポイントにある陸軍士官学校を卒業した。南北戦争中にはウィスコンシン志願兵団の将校として戦闘に参加し、勇敢な兵士としてメダルを貰った。
彼の妻は南部の資産家出身だった。彼女の父はバージニア州のチェサピーク湾岸のノーフォークにかなりの財産を所有していた。マッカーサー元帥と彼の母とのつながりは標準をはるかに越えていた。その母とのつながりを記念するかのように、マッカーサー記念館はこのノーフォーク市に建てられた。皮肉にもノーフォーク市には東海岸最大の軍港と大西洋艦隊の司令部がある。陸軍とは全く縁がない。
 
マッカーサー元帥の父は根っからの軍人だった。南北戦争後も軍に残った。南北戦争後、軍人達は治安が悪化していた西部に向かった。
そこはジョン・ウェイン主演の西部劇、『黄色いリボン』の世界だ。ダグラスの父も指揮官として西部辺境の砦を転々とした。西部は少年マッカーサーの性にあっていた。読み書きよりも先に乗馬を覚え、銃を撃って遊んだという。
 
西部人は男も女も独立心が強い。広大な未開の地で生き残る為には自分と神を信じてプラグマティックな道をとらざるを得ない。だから自然と態度も大きくなる。そこが自己を過大評価し、礼儀に欠けるイナカモンとして誤解される理由でもある。
型やぶりのユニーク(これは良い意味ではない)な見方、やり方、自分を偉大に見せる演出家、等々のマッカーサーに対する批判は彼自身の生い立ちとも多少は関係があるのではと思ったりする。
 
砦は人里離れた荒野のただ中にある。マッカーサー少年はウェストテキサス・ミリタリーアカデミーという寄宿学校に入れられるまで母親に教えられた。この学校はサンアントニオでテキサス・ミリタリーインスティテュートとして今日でも続いている。
ところでマッカーサー少年は寄宿生ではなかった。驚いた事に、父親を国境のリオグランデ河の砦に残して母親とサンアントニオのホテルに移り住んだ。母と息子の絆は母が彼の赴任先のフィリッピンで亡くなるまで続いた。マッカーサーの最初の妻はこの母が原因で去ってしまった。
 
マッカーサー少年はこの学校を最優等で卒業、祖父ゆかりの地ウィスコンシン州ミルウォーキーのホテルで母子ともども暮らして、知事であった祖父の知人である下院議員からウェストポイントへの推薦を待った。その間、マッカーサー少年は家庭教師についてウェストポイント入試の準備に忙しかった。
努力の甲斐あって、マッカーサー少年はウェストポイントの現地入試試験に一番で合格、めでたく推薦を獲得して母子共にウェストポイントのあるニューヨーク州に出発した。マッカーサーは十七歳。
ウェストポイントは全学寄宿であるから、母は近くのホテルで四年間暮らした。父は少将に昇進し、スペインから譲渡されたばかりのフィリッピンの軍政知事として赴任していた。
 
4年後、マッカーサー仕官候補生は開校以来という優等の成績で卒業した。在学中から優れたリーダーシップの頭角を現していた。彼の将来はバラ色だった。
卒業後マッカーサー少尉はフィリッピンに派遣された。そこでは父のコネで大歓迎を受けた。しかしマラリアが悪化して米国に送り帰された。回復後父の部下として軍務を続けた。
1905年には日露戦争中に日本軍の動向を探る為に来日していた父と合流し、父母と共に長期間の極東視察旅行に出かけた。日露戦争直後の旅だった。
時の大統領はテオドール・ルーズベルト、この人は社会的正義の実現、貧民救済をかかげる社会革新
運動のリーダーだった。彼の名は米国の生み出した偉大な大統領の中に必ず入っている。
 
マッカーサーは平和時の軍務を要領よくこなしていた。だが、第1次大戦では自分が言いだしっぺの『レインボー部隊』を率いてヨーロッパ戦線に出征することになってしまった。
そのいきさつはこうであった。米にはナショナルガードと呼ばれる州兵制度がある。この州兵を第1次大戦に出兵させるかどうか軍部内で議論が起こった。法的には米は合衆国より合州国なのだ。州に属する事には国は介入できない。だから州兵は出兵しないでよいというのが軍部の意見であった。
当時国防長官付きだったマッカーサー中佐はその意見書に勝手に条項を書き加えた。
大統領にだけ必要に応じて訓練済みの州兵を出兵させるオプションがあるということを。
 
当時の大統領は国際連盟の提唱者、ウィルソンだった。これが大統領に気にいられた。
調子に乗ったマッカーサー中佐はさらに、その部隊は出身州にこだわらず米国民として団結した部隊にするべきだと主張したから、実際に州兵を組織するおはちが彼にまわってきてしまった。
 
そこでマッカーサー中佐は、部隊の指揮は大佐が取るもので、自分は中佐にしか過ぎない、とゴネた。 国防長官は、じゃ、君は今から大佐だ、とあっさりしたものだった。
 
ヨーロッパ戦線ではマッカーサー大佐は兵士達から親しみをこめて『ヤサ男』というあだ名で呼ばれた。
彼はいつも上からわざと押しつぶして変形させた仕官帽をかぶって野戦兵士の前に現われた。例の旧制高校のボロボロの学帽を思いおこせばよい。
おまけにWest Point A と ロゴの入ったタートルネックのセーターを着込み母の手編みだという超ロングのマフラーをクビにぐるぐるまきつけて。当時の写真を見ても、かなり異様だ。
実はこの異様ないでたちの為、見方の米軍によって敵のドイツ兵に間違われ捕虜になるという事件まで起こしたのだった。戦争も末期の事だった。
 
ともかくマッカーサーとレインボー部隊は次々と敵を撃退し、国民的英雄にまでなった。
マッカーサーは少将に昇進し、戦後は母校ウェストポイントの総監となった。その後、フーバー大統領によって陸軍の最高司令官に任命された。1930年、わずか50歳だった。
ところがそれから4年後には、2歳年下のルーズベルト大統領と対立し、身をひかなければならないはめに陥った。最高位にのぼりつめると後は引退のみ。そのとき、マッカーサー、ルーズベルト相方にとって救い主が現れた。旧友のマニュエル・ケソン比大統領が軍事アドバイサーとしてマッカーサー将軍をルーズベルト大統領に要請したのだ。
1935年、彼は病身の母と副官アイゼンハワーと共に、豪華客船でマニラに向かった。
到着後、ほどなくして、母は病死。しかしマッカーサー将軍は船上で、新しい妻、ジーン夫人とであった。
 
1937年にはルーズベルト政府によって突然彼のポジションが消滅。本当の引退に追い込まれた。友情厚いケソン大統領は比政府の軍事アドバイザーとしてマッカーサーを高給でそのまま雇い続けた。
 
またまた運命の逆転が起こった。1941年の7月に、マッカーサーは退役から現役に呼び戻された。同じルーズベルト大統領によってだ。任務は極東陸軍総司令官として、日本軍の攻撃に備える事だった。
12月7日、日本は真珠湾攻撃を行い、米に宣戦した。その足で翌8日にはフィリッピンを爆撃、制空権を掌握したのだ。翌年の1月2日には本間司令官が指揮する帝国陸軍がフィリッピンに上陸してしまった。
2月22日には、マッカーサーは妻子と側近数人で秘密裏にオーストラリアに脱出した。
 
これが問題となったマッカーサーのフィリッピン脱出である。その少し前には、亡命を計画していたケソン大統領から50万ドルという当時としては破格の礼金を受け取った。
後に残された米軍の運命は悲惨をきわめた。バターン死の行進に狩り出され、マラリア、疲労、虐待、飢えが原因で多数の犠牲者が出た。終戦後、本間司令官は虐殺の責任を問われてマニラで絞首刑に処せられた。
 
ところでマッカーサー元帥の日本占領が始まったとき、彼は65歳であった。
あの写真をおもいおこして欲しい。どうみても50歳ぐらいにしか見えない。私も学生時代、頭からそう思い込んでいた。頭脳の働きは年齢には関係ないそうだが・・・・
 
日本占領後も、朝鮮戦争の総指揮官として、有名な海兵隊によるインチョン上陸をおこなった。これによってほぼ朝鮮全土を占領するところだった北朝鮮軍を中国国境まで押し返した。しかしやりすぎて共産中国が介入してきた。1950年の事だった。
翌1951年、71歳にして、マッカーサー元帥は4歳年下のトルーマン大統領にクビにされた。
マッカーサー元帥はロシアに原爆を落としたかったらしい。それですでにもう原爆を二個も落とした責任者になっていたトルーマンに嫌がられたのだ。
 
老いてはいるが稀に見る偉大な戦略家、しかもアジア通、米国歴代の大統領と身近に仕事をしてきたという輝かしい経歴の持ち主、そういう人に敗戦国日本の民主化移行という重大任務が与えられた。
 
だがあくまで設計者はワシントンの政府であった事を歴史家は認めている。
 
マッカーサー元帥が日本を去る日、厚木飛行場へ向かう沿道には20万人もの長い見送りの列が続いたという。こうしてもう一人のエンペラーは日本を去った。
 
今日、マッカーサーは全く歴史の人である。
日本では未だにマッカーサーの亡霊が生き続けているようだ。
 
Amazonの読者批評によれば、この本を読むより、グレゴリー・ペック主演の伝記映画を見る方を薦めるそうだ。