chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

コメント:慰安所は入場券を使った!?

前回のブログに下のようなコメントをいだだきました。ありがとうございます。

 

慰安婦の人達が給与明細書を持っていたとは思われません。明細書の発行は、20世紀の最後の四半世紀から始まったことであり、支給される給与の額は、現場の管理者がサービスした人数をノートにつけ、その数によって計算する位だと思います。まともに支払われていたかどうかは、預金通帳を見る位でしか確認できないでしょう。現場では、施設維持者による不正もあり得ますから、弱い立場の人は、相当誤魔化された可能性も高いと思います。

 

慰安所での支払いの仕組みについては"入場券"(切符、チケット)を使ったことが広く認められている。広く、というのは、満州から南アジアまで、広大な占領地に派遣された多くの韓国の元慰安婦達にも入場券を使っていたと回想しているのだが、今日に至るまで実物が現れていないからだ。

 

入場券は千田夏光氏の『従軍慰安婦』1973によると、1938年、南京占領の翌年に創設された最初の陸軍直営慰安所の"陸軍娯楽所規則"に書かれている。入場者は入口で入場券とサック(コンドーム一個)を受け取る、となっているので陸軍が作った規則だと見なされている。

 

この規則書は当時最初の直営慰安所設置に関わった麻生徹男軍医が所蔵されていたものだそうだ。その時は慰安所ではなく、"娯楽所"であった。

 

この入場券は相手の女性に手渡し、これが後で回収され数で女性は給料を受け取った。兵士達が入場券をキャッシュで買ったのかどうか、よくわからない。兵士の給料から料金が天引きされる仕組みの部隊があったとも書かれている。

 

この直営慰安所は兵達には評判が悪くすぐに閑古鳥が鳴いた為、中国の戦場では民間業者に委託することになったと千田さんは推定している。なにしろ直営では女性は指名ではなく指定、時間はかっきり30分だから服も着たまま、サービスが悪いのに料金は高めだった。これでは本当に便所である。

 

しかし、この入場券はそれ以後大体どこの慰安所も使っていたらしく、ほとんどの元慰安婦もこれに言及しているが、2019年に死去した元慰安婦活動家金福童さんはそんなものはなかった、と否定している。これは2014年に吉見義明元中央大教授による通訳を介してのこの方の回想の聞き取りから。

 

故金福童さんは14歳から8年間、中国大陸からビルマ、インドネシアと日本軍の占領地を転々、最後はインドネシアのスマトラから1948年に半島へ帰国したと回想している。この方の名前がスマトラの日本軍による朝鮮人残留名簿に記載されていることから、日本側からはこれは別人、と指摘する者も多いようだ。

 

こういう例外もあるが、入場券の存在は日韓双方が同意している、と見ていいだろう。

 

陸軍は慰安所設置に関して、通常料金の設定、慰安所女性と業者の取り分も決め、食料と営業場所を提供した事などから、所属部隊の経理要員が運営上の金銭のコントロールを握っていたと想定されている。

この事からも、軍は当時これらの女性が人身売買で連れて来られ、業者に女性が容易に騙し取られる可能性を想定し、軍の決定、こういった女性達が受け取るべきものは受け取らせる、を厳しく実施した、というのが私の印象だ。しかし業者は海千山千。ラムザイヤー教授の論文でも数回繰り返されているのに、"契約"はあっても慰安所でそれが守られるという保証はない、というのがある。その点も米の法専門家が書いた論文とは思えない理由だ。こういうのは契約ではなく人身売買特有の口約束に過ぎないからだ。

 

もう一つ、上のコメントで言及されている預金通帳ですが、文玉珠さんの自伝には、彼女自身が思いついて知人の兵隊さんに教えてもらいハンコを作り野戦郵便局で通帳を作った、となっている。それと後に親しい仲間の慰安婦も郵便貯金をもっており、朝鮮に返る途中の日本国内で貯金をおろした、というので半ば驚いた、とも書かれている。

 

しかし南アジアでは多くの従軍慰安婦達が軍票の束をかかえて逃げているのが記述されていることや韓国の元慰安婦の回想にも出てくる事から、文玉珠さんの通帳と彼女の給料を直結させるのはやや即急な結論に思えるのだが、はっきしたことはわからない。

 

しかし彼女は終戦直前の5月に総額5万の貯金額があり、当時半島では5千円で家が一軒買えたそうで、その5千円を郵便局を通して兄に送っただけ。残りは日本占領で凍結。1990年代になってご本人が元本帳が保管されている下関郵便局を訪れ当時五万円の価値しかなくなった通帳から金を引き出したいといっても日韓補償協定にひっかかり阻まれた。

 

戦争を知らない私達にとっても本当に気の毒としかいいようがない。