chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

"朝鮮人強制連行"はなかった!?

これは"在日も日本に強制連行された!?"の続きです。

 

誤解しないで頂きたい事があります。私は、従来の、人権派左翼 対 ネトウヨ のように、朝鮮人労務者の虐待はあった、なかった、を問題にしているのではないのです。

前回でもチラリと触れたように、ある"  在日" ブロガーが、強制連行はあった、と主張する人権派ブロガーと衝突し、在日ブロガーの怒りの爆発(ranting)となったようだが、それを読んでみると、もっともだと思わされる点が多くあった。それで自分なりにリサーチしてみようと思ったわけです。

 

 問題は"強制連行"というレッテルが戦時下の朝鮮人徴用という歴史的出来事にとって適切かどうかという点です。これを"行き過ぎ"と感じている日本人は結構多いのではないかと思っている。

 

"朝鮮人徴用"または"労務動員"が現在歴史用語として使われている。"強制連行"の方は政治バイアスを前提とした60年代のレッテル貼りだ、というのが私のスタンスです。その背景には戦後左翼(新左翼も含めて)の高揚と朝鮮人差別に対する日本人の同情があった。

 

この戦時下の朝鮮人動員に関して、英語圏では、予想を上回る数の研究論文や書籍が出ている。その中で最近のに、"Fighting for the Enemy" があります。

 

 日本側と韓国側の資料を比較検討、戦時下の半島動員を再構築し分析する試みだそうで、Korea  Foundation の支援を受けたと説明されている。

 

それによると、動員に絶対暴力説(=強制連行説)は該当しない、ただし、動員そのものは強制的であった、と書かれている。この結論は、当時の朝鮮総督府の朝鮮政策の狙いと実際の現地支配の評価から得た、となっている。

 

1910年に明治天皇は朝鮮皇帝から朝鮮の統治権を永久に譲渡された。交換条件は、朝鮮皇帝と彼の一族を日本の皇族にする事である。この条約には朝鮮人を日本国民にするとは書かれていない。しかし日本に従う朝鮮人の安全を守り、官吏にとりたて便宜をはかる、と約束している。

 

しかし10年も経たない1919年には3・1事件という国を挙げての反日独立運動が起こった。同時に反日勢力は上海で国民党支部として大韓民国臨時政府を立ち上げ、これが韓国憲法では韓国の前身と位置ずけられている。このショックで総督府は朝鮮に対して厳しい独立派弾圧を行う傍ら、官吏採用や親日団体の育成などの柔和政策を取って親日派の育成を図った。

 

それから20年後も半島情勢は全く向上していない。ソ連(コミンテルン)の指導する金日成のパルチザンが満州及び半島北部でテロ活動を繰り返し、ときには日本軍と衝突していた。日本は米国の支援する中国国民党政府と戦争突入。地下の独立運動に一層警戒を強めた。だから総督府の半島支配は決して平穏ではなかったのだ。しかしこれを公的に認める事はタブーであったようだ。

 

1939年に始まった徴用の対象は、日本人、台湾人、朝鮮人の3者である。しかし、ここでも朝鮮人には特別な配慮がなされている。労務者徴用では、最初は募集、太平洋戦争が始まった1941年以降は官斡旋、1944年になってやっと徴用が始まり、終戦までの7か月、違反者は罰せられることとなった。ここで見えてくるのは、朝鮮人の場合は本人の同意が前提となる、という台湾、内地とは違った動員のやり方である。これは朝鮮人の抵抗を憂慮したのが理由だが、この特別扱いが内地での反感を買う要因の一つになったようだ。

 

私が読んだ、小暮復命書と呼ばれる半島での動員失敗を分析した資料、1944年、によれば、半島動員の失敗は、朝鮮の労務管理側がきわめて自由主義やマルクス主義的で動員政策に理解がないからだ、とこき下ろしている。彼らには死んで天皇に御奉公する精神がない、と小暮氏はマジで批判。

 

労務管理側、とは、現地の日本人及び朝鮮人を指している。半島の警察官は約1/3が朝鮮人であり、彼らが直接朝鮮人に対応していたはずだ。また、半島で募集や官斡旋に携わったのも朝鮮人エージェントのはずだ。だから、日本側からのプレッシャーで朝鮮人の下級官吏が村のおえら方を引き込んでコラボして無理強いしたとしても不思議ではない、というのがこの本の見方である。

しかも日本側はノルマ達成の為にしたのを承知で、募集のはずなのに拉致や誘拐をした、と批判していたのだから、どこかおかしい。

 

それと、日本政府も拉致、誘拐があったと言っている、だから強制連行だ、と結論ずけるのは即急過ぎるのではないだろうか。

 

このように朝鮮人動員は日本対朝鮮=悪対正義、というシンプルな図式ではないようだ。