反天連8・15恒例デモ@靖国
‟愛させて” アモリ・バシリ
巨泉さんはいい死に方をした
これは7月12日に亡くなった大橋巨泉さん(享年82)の妻・寿々子さんが、その心情を綴った文章の一節である。
もしあの時、モルヒネを大量に投与されていなければ、もっと生きられたのではないか―。
冒頭の寿々子さんの言葉からは、そう悔やむ気持ちがひしひしと伝わってくる。
事の経緯を振り返る。巨泉さんが20年にわたり続けてきた、週刊現代コラム『今週の遺言』(6月27日掲載)の最終回にはこう書かれている。
〈3月27日に国立がん研究センター中央病院に緊急入院して検査をしたが、幸いがんは見つからなかった。(中略)CVポート(胸に埋め込む点滴補助器具)をすれば自宅での在宅介護で問題ないと言われ、がんセンターを4月5日に退院したのである。しかしこの在宅介護が大ピンチの始まりになろうとは神のみぞ知るであった。
退院した5日の午後、我が家を訪ねてきた在宅介護の院長は、いきなりボクに「大橋さん。どこで死にたいですか?」と訊いてきた。以前にも書いたようにボクは既に死ぬ覚悟はできていたのだが、「エッ?俺もう死ぬの?」と呆然とした。
次に「痛い所はありますか?」と訊くから「背中が痛い」と答えたら、直ぐにモルヒネ系の鎮痛剤のオプソやMSコンチンが薬局から大量に届いた。院長は毎日来るのだが特に何もしない。この頃からボクの記憶は曖昧になる〉
そして、『とにかく背中の痛みを抑えるために、薬を飲みましょう』とモルヒネ系の薬をどんどん送ってきたのです。その中には貼り薬もありました。
さらにこの医者は、『まあ、もって2~3ヵ月でしょう。私は専門医だから分かるんです』と言う。兄も私たち家族も、相当なショックを受けたのは言うまでもありません」
次の日から、巨泉さんはこの医者に言われた通りに処方されたモルヒネ薬を飲み始めた。するとこんな症状が出始めたという。
「薬を飲むまでは普通に歩いていたし、トイレも自分で行けていたのですが、飲み始めて2日目になると、フラフラして一人で歩けなくなりました。寿々子さんから電話がかかって来て、一人では抱えられないと言うから、飛んで行ったんです。
3日目になると二人がかりじゃないと支えられないほどになり、兄も『なんか変なんだよ。空を飛んでいるみたいだ』と訴えていました」(哲也さん)
終末医療に詳しい、帯津三敬病院の帯津良一名誉院長が解説する。
「医療麻薬として知られるモルヒネ系薬は、痛みをとる代わりに、副作用として意識障害や、呼吸抑制により心臓に負担がかかることがある。特に高齢者で体力が衰えている方は慎重に使う必要があります。服用量を間違えると死期を早めてしまう危険性もある」
寿々子さんと哲也さんは、がんセンターで「今のところがんの転移はない」と言われていたのに、モルヒネを投与されてから、日に日に弱っていく巨泉さんを見て不安を募らせていた。
見かねた寿々子さんと哲也さんはがんセンターの片井均医師と、長年にわたり巨泉さんを診てきた若山芳彦医師に連絡。二人の先生は異口同音に「痛み止め(モルヒネ)の使用法に問題がありそうだ」と、再入院をすすめた。
だがこの在宅医は、「薬を中止しよう」とは言わなかったという。
不信感を募らせた哲也さんが、知人に調べてもらったところ、この医者は元々「皮膚科の専門医」だったことが判明したという。それが現在は緩和ケアの病院で院長を務めていたのである。
この時点で寿々子さんと哲也さんは、「この在宅医に診てもらうのをやめよう ところが薬を服用してから5日目、在宅医から「今日がヤマです」と突然告げられた。
「最初は2~3ヵ月と言っていたのに、急に『今日が危ない』ですからね。翌日、別の病院に入院することを伝えても『そうですか』としか言わない。
もしあのまま薬を使い続けていたら、間違いなく死んでいたと思います。
処方する前から量がおかしいとは思わなかったか?素人では分かりませんよ。自宅には使わなかった30日分以上の薬が残っています」
巨泉さんのコラムの最終回には、こう記されている。
〈翌11日の朝、若山先生が同乗してくれた弟の車で家を出たのだが、突然ボクの意識は飛んだ。そのとき若山先生が的確な指示を出してくれて、途中の病院に緊急入院の形で担ぎ込まれたという。たった5日間で意識も薄れ、歩行もままならぬ体になったのだから恐ろしい事だ。
モルヒネ系の痛み止めの薬は体内に蓄積される事で知られるが、がんセンターではボクの体力に合わせて使っていたようだ。普通の病院なら、がんセンターからの資料を読めば理解できた筈なのだが、何故だか大量に渡されたのである。何しろ九死に一生を得たのだが、82歳の老人には大打撃であった。結局、緊急入院になったために、ノーチョイスで救命処置を受ける事になってしまったのである〉
結局巨泉さんは、集中治療室を出ることなく、息を引き取った。コラムの最終回が掲載された直後、この在宅ケアの医師から寿々子さんと哲也さんに連絡があったという。
「医者からは『申し訳なかった。てっきり(巨泉さんは)緩和ケアをするものだと勘違いしていた』と電話があった。
兄と私たち家族が望んでいたのは、最後に好きなことをして逝くことでした。でも結果として、兄は、最期においしい物を食べることも、ワインを飲むことも、ゴルフをすることも何も叶わなくなってしまった。まさか寝たきりになってしまうとは想像もしていませんでした」(哲也さん)
巨泉さんはかつて最初の胃がんを患った時に「がんを治すのは医者ではなく、自分自身の力です」と語っていた。
その言葉通り、4度のがんを乗り越えてきた。だが、結局最後はベッドに寝たきりのまま、亡くなってしまった。
本来なら「さようなら、逝ってくるよ」と軽口を言って旅立つはずだった。あのモルヒネの誤投与さえなければ……。巨泉さんと残された家族の無念はあまりに大きい。
「週刊現代」2016年8月6日号より
愛するアリゼ and/or ムカつくw
小野田寛郎が終戦を知らない残留日本兵!?
小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者)
- 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。島を防御する予定だった日本軍は崩壊。少数の兵士は山中に逃亡。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と4人グループで山奥に潜伏。
- 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
- 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけ。同年3月下旬まで計41名の日本兵が投降。
- 1949年9月 最後まで残っていた小野田少尉をリーダーとするの4人のうち、赤津一等兵が投降に成功。というのは、小野田組からの脱出を3回繰り返し、捕らえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功したという。フィリピン軍に保護された赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ山中に潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と書いた。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけた。
- 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いた。
- 小野田グループの島民襲撃、殺害、略奪が続く。フィリピン政府は軍の討伐部隊を送ることになった。最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
- 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
- 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
- 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
- 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見された。
- 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
- この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
- 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
- 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
- 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国