chuka's diary

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小野田寛郎が終戦を知らない残留日本兵!?

小野田寛郎は終戦をフィリピンのジャングルで知っていた。皇太子のご成婚も知っていた。
以下の記事を書いたNHKは国民から受信料を受け取る資格なし。
 
 
太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日本陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日本に帰国したときは、日本中が沸き立ちました。
小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者)    
 
この3億円は、事実上のHush Money= 賄賂。もちろん受け取り人は当時のフィリッピン独裁者、マルコス大統領 。 この金は、ルパング島はおろか、犠牲者の家族になど、一銭も渡っていない。 
 
以下はウィキから
 
 小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
 
太平洋戦争の終結をしらないまま、とウソを平気で報道するNHKに対して、日本の歴史学者からは一言も抗議が出てこない、とは何と悲しいことだろう。
 
以下は小野田寛郎の終戦からルパング島脱出までの30年だ。
 
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。島を防御する予定だった日本軍は崩壊。少数の兵士は山中に逃亡。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と4人グループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
     1945年12月 二度目の勧告ビラを見る。山下奉文将軍名による降伏命令である。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけ。同年3月下旬まで計41名の日本兵が投降。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田少尉をリーダーとするの4人のうち、赤津一等兵が投降に成功。というのは、小野田組からの脱出を3回繰り返し、捕らえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功したという。フィリピン軍に保護された赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ山中に潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と書いた。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いた。
  • 小野田グループの島民襲撃、殺害、略奪が続く。フィリピン政府は軍の討伐部隊を送ることになった。最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見された。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国
小野田寛郎は、上記中の日本政府の捜索を隠れてじっと見ていた。後で家族が残していった手紙や雑誌を読み、住民から奪ったラジオの日本語放送で、競馬放送を聞いたそうだ。
 
1975年に小野田寛郎グループの迷惑料に3億円、2016年には、韓国人慰安婦に対する迷惑料にわずか10億円。
日本政府は寛大なのか、ケチなのか?理解に苦しむ。
 
 
 
小野田さんの来ている軍服もどきのシャツですが、明らかに島民から奪ったものですね。ひょっとして被害者は彼が殺した人かも?