chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

中井養三郎と一攫千金の夢

 

 
イメージ 45
 
 
Web 竹島問題研究所サイトで面白い記事を読んだ。
『竹島経営者中井養三郎立志伝』明治39年(1909)奥原碧雲筆
である。奥原氏は島根県の尋常高等小学校の校長さんだった。
この奥原さんは、明治39年(1906)に島根県が派遣した竹島実地調査に参加している。実はこの調査団は、まず鬱陵島で朝鮮側の役人にこの度竹島を日本国の編入した、と挨拶し、朝鮮側ははじめて日本による竹島領有を知ったことになっている。この原稿は当時の『成功、立志独立進歩之友』という月刊誌に投稿された。この雑誌は毎号、海外雄飛の成功談を載せていたのだが、これが実際に掲載されたかどうかは確かでないそうだ。明治の海外渡航フィーバーがどれくらい凄いものであったかが偲ばれる。
 
私が最初竹島問題に興味を抱いたのは、このWeb竹島サイトで、鬼頭氏が『竹島と国際判例の動向』という記事で反論を展開している“ダイク論文”であり、それを大雑把に読んだ感想を『竹島は韓国領!?』というタイトルで拙ブログ記事にした。
この“ダイク論文”は拙ブログでも紹介したように、英語サイトで一般公開されている。大体のリサーチは主題をググればネットで出てくるから非常に容易だ。かって私達が大学時代一つの論文を書くために十冊以上の本から引用したり、果てはマイクロフィルムを使わなければならなかった経験からすれば天と地の差がある。ソースは?引用は?というのが日本人ブロガー達の特徴のようだが、ぜひ、これくらいは自分でリサーチして欲しい。私の経験からしてリサーチしているうちに、もっと有益なソースが現れてきたりすることも多い。
 
さて、この立志伝の著者奥原碧雲は中井養三郎氏を山陰の快男児と呼んでいる。
理由は、当時の日本の漁民は鎖国の後遺症のせいで沿岸にへばりついて昔ながらの神頼みのやり方に頼っているが、この人は海外はもとより、深海にも出かけ、外人が手にしている巨利を自分もいただく、という勇敢進取の大意を抱いた人物だったからだ。
 
私は、中井養三郎は、近代資本主義が生んだ一攫千金を夢見る起業家の典型だと思っている。
中井は明治元年に今日の鳥取県倉吉市に生まれた、家業は醸造業であったというからかなり裕福だったはずである。そこの次男のボンボンであった。
 
松江の漢学塾で学び明治18年に山陰の片田舎から上京したのはいいのだが、カルチュアショックか何かの理由で挫折してしまったようだ。本人は、今は漢学より英語の時代だと悟ったが自分の年で英語を始めるのはすでに遅すぎる、学問のせいで一攫千金の夢を逃してしまうは愚かだ、とすこぶる自信と強気を見せていた。
 
それで明治19年、23歳の時、に突如学問を捨て、人間どこへいっても山に至る、骨を埋める地は故郷とは限らないなどと放言し、一攫千金の夢を追うことになった。
小笠原島に渡ったり、渡米を企てたりしたのだが、ついに、明治20年に南洋探検で有名となった地理学者志賀重昴の豪州沿岸調査に随行する話を決め、家から数千円という資金まで貰い長崎で準備中に笠千里なる人物に金を巻き上げられたというからおだやかでない。仕方なく視察は頓挫、長崎に身を潜めていたら、今度はロシアのウラジオストックで海鼠が多量に棲息していることを聞きつけた。
 
酢ナマコは私のもっとも嫌いな食べ物で今でも二度と見たくないが、ウィキによればナマコの干物は中国で結構高い値段で売られているそうだ。
 
潜水器を使用してナマコを大量採取することを計画し、弟の多額の遺産金を基手に調査や運動をおこない現地で操業を開始した。
しかし、金儲けの匂いをかぎつけた長崎の他の潜水器業者との競争にまきこまれ、現地のウラジオストックでは日本人居留民と結束した日本政府の貿易事務官と対立、妨害を受けて結局事業は破産し、弟の遺産を一切失った。
しかし、ロシアの地方政府が海鼠に目をつけ、日本人による海鼠漁を禁止し、海鼠が絶滅するのを恐れて潜水器使用を厳禁してしまったので、ウラジオストックでの日本人による海鼠漁は壊滅してしまった。
 
それでもへこたれず、明治25年に今度は朝鮮全羅忠清地方の沿岸で潜水器を使った事業を探したがめぼしいものは見つからなかった。
明治26年、30歳にして尾羽を打ち枯らし故郷に帰った。しかし帰郷後もナマコで一攫千金の夢をあきらめることなく、鳥取、隠岐の沿岸調査をし、必ずナマコがいる筈だ、と知人親戚の反対を押し切って九州から潜水夫を雇い、ナマコ採取をしたのがかなりの成功となった。しかし明治31年に巾着網試験事業という新たな事業を始め、それが失敗し、また挫折だ。
今度は故郷まで追われたような格好で隠岐の島に移り、潜水器を使ったナマコ漁をはじめとする様々な企てをするのだがうまくいかなかった、その内、リャンコ島と当時呼ばれていた現在の松島でのアシカ漁がいい金になることを聞きつけ、今度はそれに的を絞った。
リャンコ島というのは、フランスの捕鯨船が発見、命名したLiancourt Rocks
に由来するらしく、仏語では語尾を発音しないので、リャンコと聞こえたせいだろうと私は思う。
元は松島として知られていた岩礁群だが、鬱陵島が明治政府によって松島とされていまったので、当時はリァンコ島と日本人から呼ばれていた。しかし島ではなく岩礁であり人間は住めなかった、それでアシカの繁殖場となっていたのだった。5月のシーズンには、数千匹、または数万匹?のアシカが島に集まったというから、さぞかし壮大な光景だったことだろう。しかし、現在アシカは絶滅している。この紛争の最大の犠牲者は他ならぬアシカではないだろうか。
 
皆が止めるのも聞かず、明治36年に信頼する小原・島谷両氏と他の屈強の水夫8人をリァンコ島に送って様子を探らせた。そこで生殖にやってきたアシカの大群を見これは有望だと判断し、来年こそぜひ十分な銃と弾薬を携えて漁をする計画を立てていたところ、はたまた話しを聞きつけた競争者が数人現れた。
 
しかしこれまでの失敗の教訓は無駄ではなかったようだ。
このまま規制なしで漁をすれば、第一に乱獲でアシカ自体が数年のうちに絶滅、第二に外国での漁であるから、外国政府のつるの一言でウラジオストックのように漁は終わりとなる、と考えた。
そこから生まれたのがアシカ漁独占計画であるからちゃっかりしたものだ。
 
この立志伝では、地図で竹島が朝鮮領であることを確認して、上京して日本政府を通して朝鮮王国から無人岩礁の貸与を求めることにしたとなっているので、Web竹島問題研究所の専門家は、おそらく間違った地図を見た、とそこらへんの理由を述べているが、そうだろうか?
 
まず隠岐出身の農商務省官僚から水産局長に面会、局長の賛意を得て、海軍水路部に廻された。
海軍水路部で面会した肝付中将は、竹島は日本本土からの方が朝鮮本土よりも10マイルも近い、竹島はこれまで朝鮮に統治された形跡なく、すでに日本人が同島を経営してしまっているのなら、日本領に編入されるのがふさわしい、と言った。
そこで勇気ずけられ、意を決してリャンコ島日本国編入並びに貸下願を内務・外務・農商務の三大臣に提出したのだった。
しかし、内務省では日本は目下日露両国開戦中であり、領土編入は外交上その時期ではない、と断られた。水産局長からも、外交がからんでいれば仕方がない、と言われ、失望落胆してしまった。しかし、そこでも挫けず、再度地元の貴族院議員をたよりに、外務省の山座政務局長に面会すると、外交のことは他省がとやかくいうべきでない、小さな岩礁にしか過ぎないが、地勢上、歴史上、時局上、領土編入は国益につながる、とのお墨付きをもらった。
ぞこで、先の地元出身の貴族院議員に付き添われて内務省に行き、井上書記官と面会し、話をつけた。
 
明治37年(19051月閣議決定によりリャンコ島改め竹島として日本国に編入、2月には島根県告示第40号で島根県に編入となった。
中井氏は隠岐に戻ったのだが、リャンコ島が竹島として日本領になったとたん、アシカ漁を申し立てる業者が多数現れたそうだから彼一人の独占とはならなかった。その中の数人と組んで竹島漁猟合資会社を設立した。
 
筆者は明治39年の竹島視察に加わった際、直接中井氏から氏の苦心惨憺たる経歴を聞いていたく感動し、これを書いたそうである。
 
この立志伝を読むと中井養三郎さんの心意気が伝わってくるようです。
何しろ文体が古くやたらと難しい漢語が多いので、誤読もあるのではないかと思っています。