少女は再び一人旅を続ける。しかし、そこにはもう最初の頃の一人旅の喜びはなかった。旅の重みだけがのしかかってくるのだ。そうなのだ、このあたりで旅を終えるべきなのだが少女はそれを頑なに拒否する。
このまま帰ったりしたら旅の失敗と絶望がいつまでも私を苦しめることになるわ。
こうして旅の無理押しをしているうちに、少女は本当に病気になってしまった。
問題解決を避ける人たちは自己破壊行為に解決を見出すことになる。
高熱のせいで意識不明となり行き倒れとなっているところを助けてくれたのが、自転車で魚行商をしている中年男だ。
気がついたら少女は男の貧乏長屋のせんべい布団に寝かせられていた。
ここが第二のターニングポイントである。
一体運が良いのか悪いのか。助けてくれたこの男はかなりの変人である。
こんな海辺の田舎町でも一応救急体制ぐらいはあったはずだ。身元不明の病人の行き倒れは警察に連絡して適切な医療施設に連れていくのがフツーなのだろうが、どっこいこの男にはフツーは通用しそうもない。
こんなところにひっそりと貧乏に音もたてずに暮らしているなんて。
おじさんはどうしてそんな神様、仏様みたいな事をいうんですか?
これが少女のこの偏屈叔父さんに対する印象である。一旦はこの叔父さんの家を出てまた旅を続けようとしたのだがまた倒れそうになってしまった。そこを運よく(運悪く?)叔父さんに見つけられ、半ば強制的に連れ戻されてしまうのだ。
そこでこの少女は夜、
『そっちへ行っていい?私ね、パパを知らないんです。』
といって隣のおじさんのせんべい布団にはいりこもうとするのである。
『話さんでもええな、そんな事は。』
とそっけない返事、おまけにこのおじさんは少女が叔父さんの布団に移ると同時に眠りこんで(?)しまったのだった。
この目の前で眠っている男はずっと前から私の好きだったおじさんだという気がしてきたの。
そんな風に考えると、私は旅にでてはじめて気が休まる思いがしたんです。
見ている方はなんだか笑ってしまうのだが、問題は深刻だ。どうやらこの少女には、境界性人格障害(Borderline Personality Disorder=BPD)の気があるようだ。人格障害というより日本語では性格異常と言った方がぴったりくる。BPDには、境界性という名が示す通り、人間関係の距離の置き方に問題がある。他人に受け入れられたいという度を越した強い願望、見捨てられるのが極度に怖い、というがBPDの特徴であるが、座長さんや変人叔父さんに無理押しをし、その手段としてセックスもいとわないというこの少女の強硬な態度はその典型のようである。しかし拒否されるとたちまち絶望のどん底に落ち込んで自殺するなどという情緒不安定ぶりを披露することになる。
ところで、この清貧の神様のような木村のおじさんには少女の性的攻撃は全く通じないのだ。
そこで少女は絶望のあまり泣き叫びながらこのおじさんの貧乏長屋を出て行くのである。
ママ、なぜ私は人と心から打ち解けることができないの?
いいえ、私だけじゃないわ、ママと私はいつでもこの調子なのね。
誰からも理解されない、誰からも両手をひろげて迎えられない。こちらがどんなに努力しても、努力すればするほど、人は遠のいていくじゃないの。
しかし、タイミングよく、あの秋吉久美子が演じる近所の小説好きの少女が死体となって海から上がったことから、
私にしたってこの旅に出なければ彼女のようになってしまってしたかも知れない。
と逆に自分の家出を正当化し、叔父さんのところにUターン。そして今度は叔父さんを見事に泣き落としてしまうのである。
ママ、何の仕事をしてると思う?行商よ。
私と男の奇妙な夫婦生活はいつまで続くか分かりません。
私は男を夫婦になろうといったわけではありません。
仲良くしていこうといったわけでもありません。
それなのにいつのまにか仲のいい夫婦になってしまったんです。
私はこれまでママのわがままをよく辛抱してきたわ。
今度はママが少し辛抱する番なのよ。
少しの辛抱よ、ママ
そしたらやがておあいこになるじゃないの。
母親が少女の最後の手紙を破ってしまうところで、The End.
この母にしてこの娘あり
ネット上のコンセンサスはこの映画は16歳の少女が旅に出て大人として成長していく姿を描いたものということであった。
作者の素九鬼子さんは高校中退だが、夫は行商ではなく大学教授だそうだ。
この小説が作者の実体験をもとにしたものかどうかぜひ知りたいものだ。