chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

ミートキーナの慰安婦

 

Won-loy  Chan による “BURMA : Untold Story” 『 ビルマ:語られざるストーリー』には約五ページに渡りミチナ(=ミートキーナ)陥落直後に捕虜となった慰安婦達との遭遇が記されている。

 

かの慰安婦達の有名な写真も本の中に収められている。左側最前列のアジア系米兵が彼である。

当時、ウォンロイ・チャン大尉はビルマで中国国民党軍を主要力として北ビルマ奪回作戦の指揮を取っていたスティルウェル米将軍の配下、ミチナ飛行場に設置されたミチナ攻略作戦本部で軍事情報収集分析の重要任務についていた。とはいっても人手不足で彼一人のワンマン・オペレーションみたいなものなのに責任は重く、眠るのも惜しんで仕事に没頭したそうだ。

 

1944年8月3日、ミチナ陥落直前に捕虜となった一人のうら若い朝鮮人女性がミチナの作戦本部に連れてこられた。この女性はキムと名乗った。この女性は一人の日本兵と一緒に壕に隠れているところを、ミチナ陥落作戦に参加していた英・ビルマ部族ゲリラ部隊によって捕獲されたのだった。

その頃、チャン大尉は続々と投降が続く日本兵達やミチナ避難民の波からの情報収集及び対処に追われ、彼女への対応にとてもすぐには手がまわらなかったそうだ。

しかし兵士の間ではすぐに大ニュースとなった。

そこで日系二世のカール・ヨネダ通訳軍曹が少しばかり尋問させてくれ、と自ら買ってでた。チャン大尉は承知した。だがチャン大尉はヨネダ軍曹からの報告を見たことはない、と述べている。

  

カール・ヨネダ軍曹は、カールという名をマルクスから頂戴したという筋金入りの米共産党員だった。組合オルグ、党日本語機関紙の編集長として当局にはよく名の知れた日系人の一人であった。

彼の方も1983年に、“  Ganbatte”日本語訳『 がんばって、ある日系米人革命家60年の軌跡』という自伝を出版しているのだが、不思議な事にはその中でキム嬢については一切触れていない。だが、20人の慰安婦達については、あたかも彼がミチナで関係したかのように述べている。

 

結局その後チャン大尉はキム嬢に型どおりの尋問をしたわけだが、彼女は軍事情報に関しては全く無価値と判断、翌日にはインドのレド収容所行きの飛行機に乗せてしまった。

いくらMPの護衛つきでも、陥落寸前のミチナは若い女一人のいるような場所ではないのだ。ましてこの女性が日本軍慰安婦であればなおさらだ。

 

著者ウォンロイ・チャン大尉によれば、その時、このキム嬢は60年代のミニスカートに似た膝上までのワンピースらしきものを着ていた。残されている写真によるとその下からは素肌の膝小僧が剥き出しである。そして両足は包帯で巻かれていた。

一緒に写っているのはカール・ヨネダ軍曹だ。後ろ向きの彼とキム嬢が何やら話しこんでいる。

写真の彼女は、椅子らしきものに腰掛け、何だか非常に楽しそうだ。その横に座っている日本兵の緊張した暗い表情とは全く対象的である。

膝から露出している両脚だが、膝下あたりからむくみ気味、足の包帯の下から突き出ている足指の部分などにはかなりの腫れと皮膚の変色がみられるようだ。もちろん包帯の下の皮膚疾患がどのようなものであるかは全く知るよしもない。

 

前回のブログ、BURMA : Untold Story で紹介したように、ミチナ陥落直後の8月8日午前9時半頃、ヒラバヤシ軍曹がチャン大尉のところに報告に現れた。

著者は即刻ヒラバヤシ軍曹と他の二人の日系通訳を連れて捕虜となった慰安婦達に会いに行った。著者は彼女達から日本軍部隊の最新の動きに関する情報が得られのではないかと期待をよせていた。

 

有名な20人の慰安婦達の写真に納まっているアジア系兵士はこの四人であった。

 

捕虜になった時の彼女達の格好は、かなり人目をはばかるようなものだったらしい、MPが急いで見つけてきた服はサイズの会わないブラウスとだぶだぶのズボン、その上衣類には汚れが目立っていた、というのが著者の観察だった。

 

慰安婦達には年増の“日本人のママさん”が着物姿で付き添っていた。

 

このようにちぐはぐな服装で髪も身なりも全く手入れしていない状態にもかかわらず彼女達はまわりの兵達の目を惹きつけていた。

 

しかし軍隊を追うプロの女達特有の男に媚びる様子は微塵もなかった。

 

日本軍は慰安婦部隊を連れているというウワサは早くから耳にしていたが、これまで半分しか本当にしていなかった、と著者。

しかし、実際にその彼女達を目前にして信じざるを得なくなったとのこと。

 

著者は、日本軍の将校達と親密な関係にあった者の中に軍事情報を持っている者がいるのではないかと必死になって尋問を続けたのだが、まったく効果が上がらなかった。

 

朝鮮人慰安婦達はよくて片言の日本語しか話せなかった。

通訳の中で一番日本語がうまかったヒラバヤシ軍曹に、ミチナ守備の日本軍将官のフォトを見せて貰い、誰なのか一人ひとりに聞いて貰ったがさっぱり返答がない。その中でやっと、第114隊司令官の丸山大佐を言い当てた慰安婦が出た。

著者はこの慰安婦は丸山大佐と非常に親しい関係にあったのではないか、と直感したそうだ。

 

こういった有様だから尋問事態は次第に尻すぼりとなり、どちらかというと、相方とも黙りこみがちとになってしまったのだが、突然一人の慰安婦がママさんに話しかけたことから、堰を切ったように皆が大声で一斉に朝鮮語で叫び始めたそうだ。

 

年上のママさんは朝鮮語で慰安婦達に静かにするように命じ、将校であった著者に視線をまっすぐ向け通訳のヒラバヤシ軍曹に問いかけた。

この先どうなるのか教えてくれ、と。

ここからインドに送られ戦争が終わり次第そこから朝鮮に送り返されることになる、とチャン大尉の返答。

おそらくインドがどこにあるのか見当もつかないのではないか、とチャン大尉は心の中で思ったそうだ。

しかしそれを聞いた慰安婦達は少し緊張が緩んだようだった。またママさんにしきりに話しかけている。ママさんは、「私はこの子達に責任があるので」と言って、著者にくるりと背を向けた

その時、著者ととヒラバヤシ軍曹はこのママさんの着物の帯の下が異常に膨らんでいるのに気付いたのだ。まさか、この年で妊娠でもあるまい。

著者はヒラバヤシ軍曹に、おかしいぞ、何だろう、と囁いた。

ヒラバヤシ軍曹は、出来る限りていねいな口調で尋ねたそうだ。

ママさんはヒラバヤシ軍曹の明らかに居心地の悪そうな表情を反対におかしがっていた。

ママさんはゆっくりと帯を解いていった。

 

この子達に責任があるということは、この子達の稼ぎにも責任があるということなわけ、といっていくつかのきちんと包装された分厚いお札の束を帯びの下から取り出してチャン大尉の前に並べた。

この札束は、すべて日本軍の10ルピーの軍票だった。軍票というのは将来いつか日本政府が10ビルマ・ルピーを払うという約束手形であり本当の紙幣ではない。これが本物の日本紙幣であれば、軍事下の日本経済は統制不可能な超インフレに襲われ崩壊してしまったことは確実であった。

日本軍占領下のビルマで、この軍票に実際がどれだけ価値があったのか明確ではないが、日本軍のビルマ敗北で今は全くの無価値となった。

ヒラバヤシ軍曹がその事をママさんに説明したら、ママさんはとても信じられないという様子。

 

この無価値な軍票の山を稼ぐ為に、慰安婦達がどんなにつらいことを耐えて来なければならなかったかを考えると、胸が締め付けられる思いがする、と著者は 述べている。

 

ヒラバヤシ軍曹も同じ思いだったらしく、ママさんに、どうせ紙屑同然だから、札束の一つか二つを米兵や中国人達の記念品マニアに話をつけてチョコレートや食べ物、タバコと交換してあげるがどうか、と持ちかけると、ママさんはちょっとの間を置いた後、包み二個を差し出した。

そして残りの札束をまた帯の下にしっかりとしまい込んだ。その時慰安婦達の口からほっとした安堵のため息が漏れたという。

著者はこれについて、彼女達がこれをアジア的慣習の“上納金”と見なし、これで残りは安全だと信じたからだ、という観察を述べている。

 

チャン大尉は、とにかく一刻も早くこの慰安婦達一行をインドのレド英軍基地に移動させる事に決めた。チャン大尉によると、そこでミチナの慰安婦達を同盟国側の新聞が大ニュースにしたという。

 

彼女等がミチナを去る前夜、チャン大尉、ヒラバヤシ軍曹と日系通訳二人の四人組は最後に彼女等を訪問、その夜ささやかなお別れパーティーを開いた。

ギター片手のアジア系兵士達と彼女等はそれぞれの歌を交換、米兵士達はアメリカの歌、日本の歌を披露し、慰安婦達は、『アリラン』を皆で大合唱したそうだ。

 

チャン大尉は米国に帰国しスティルウェル将軍の口ぞえで情報局に復職、その後、太平洋戦線の情報管理を担当している。著者の慰安婦についての見解は以下である。

 

公式(=政府関係)の朝鮮人慰安婦記録は存在していないので、こうした憐れな朝鮮人女性が日本帝国軍によって強制売春をさせられた正確な人数は判っていない。推定では最高20万人にのぼるということだ。

彼女らのほとんどは貧しい農家の出身であり、1935年から1945年にかけて、憲兵隊を通して集められ、日本軍部隊が進軍したところには必ず彼女等が配属されていた。

数千人が戦闘に巻き込まれて死亡したが、日本の降伏後、連合軍によって朝鮮半島に帰ることが出来た。日本は彼女等に関する全記録を破壊して慰安婦を大日本帝国軍の歴史から取り除いたのだ。今や数枚の写真が残されるのみである。

 

慰安婦達は、『女子挺身隊』という見かけは立派な名目で組織された。彼女等は50人ぐらいで小隊を組み、その中で将官、下士官、下等兵士用に分けられていた。

これら慰安婦隊は朝鮮語を話す年増の日本人女性により率いられていた。慰安婦の内で病気、その他により本来の商売が出来ない者は、洗濯や兵舎の掃除などの雑用に使われた。

 

戦争を生き残った慰安婦達については何も追跡調査はなされていない。1950年から1953年の間にかっての日本軍慰安婦達が連合国軍相手に商売を続けていることが、連合国軍のリポートに記されている。沖縄でもかっての慰安婦達の存在が確認されている。

大多数の慰安婦達は恥ずべき過去を社会から隠す必要があった。その為に元慰安婦の追跡調査は困難であり、彼女等の戦後の運命については全くの推測に任せるより他はない。

 

 

追記:拙者のブック・リビューが 

“Untold story of forgotten battle WWII”というタイトルで

Amazon.Com に載っています。興味のある方はどうぞ。   

 

上のは有名な写真ですが、左端の米兵がチャン大尉、右端がヒラバヤシ通訳担当だとおもいます。このヒラバヤシ氏は2000年頃に二人の著者からインタビューに答えています。