上のミュージックビデオは、美輪明宏の隠れたる名作と言われている"祖国と女達”のカバーです。この曲は、美輪明宏が若い頃遭遇した日本人慰安婦の体験談からインスピーレーションを受けて作った、とTVで語っていた。YouTubeには美輪自身が歌っている動画も掲載されている。
アジア女性基金サイトに日、韓・台湾の出身国別慰安婦数が参考の為に掲載されている。それによるとS13年(1938)つまり南京陥落翌年から一年の間
日本人938人(49.8%)
朝鮮人561人(40.19%)
台湾人384人(20.4%)
が台湾から中国戦地に慰安婦として送られたことを意味している。数字の正確さについては疑問があるが、大体の推察として参考になる。
千田夏光の"従軍慰安婦"(1974)には、同年1938年の早春、上海に軍の兵站船で輸送されてきた女性達一団の身体検査を命じられた麻生徹夫軍医の話が載っている。
召集されたばかりの麻生軍医の本職は産婦人科医で奥様は助産婦。実家は福岡で産婦人科病院を営んでいた。しかも客には地元福岡の廓の女達がいた。だからその道にかけてはプロである。この軍医は当時上海の兵站病院で手足の切断手術をしていたというから怖い話だ。
麻生軍医は、グループの内、約80人が朝鮮人で約20人が日本人だったと述べている。日本人は皆玄人らしい。中には当時三大性病の一つとして恐れられていた軟性下疳で生じた瘤切除の傷跡を持っている者が混じっていて、麻生軍医もこの道のツワモノと感心している。しかし、麻生軍医の印象では朝鮮人は年齢が若く健康体であり、中には処女が混じっていたので彼女らこそ聖戦に従事する皇軍にふさわしいと書かれたことで、発売後に麻生軍医に対する非難が集中した。この100人余りの女性達は上海に初めて設置された陸軍直営慰安所の慰安婦達であった。
Yuki Tanakaのペンネームを使った田中俊幸の" The Comfort Women" は国際的リサーチャーに頻繁に引用されているが、この中でも、1938年当時戦地となった上海ー南京一帯の都市部の慰安所では日本人慰安婦が朝鮮人より多かったという資料を紹介している。
しかし日本人慰安婦の総数について明確な数はわからない。
多めに見る人は朝鮮人より多かった、とまで主張している。保守的スタンスからしても慰安婦総数のうち、相当な数をしめていたのではないか、と推察される。
しかし、1991年、金学順さんのカミングアウト以降も日本人慰安婦として名乗り出た女性も日本政府に対して損害賠償を要求する慰安婦経験者も一人もいなかったこともあり、河野談話(1993)でも、アジア女性基金でも日本人慰安婦達は被害者グループからは全く外されていた。
2001年に東京で開催された女性国際戦犯法廷の資料として裁判憲章、起訴状、判決文がアーカイブズでそれぞれ公開されている。この起訴状によれば、太平洋戦争前及び戦争 中の日本軍慰安婦制度の被害者全体を対象として検察側が起訴をしているような印象を与えているが、日本人慰安婦は除外されている。しかも判決文では、朝鮮人慰安婦は戦争犯罪の被害者ではなく、性奴隷制度という人道に反する罪の被害者として認識されているのだから、慰安婦数でも朝鮮人と共に多数を占めた日本人慰安婦も同等の取り扱いを受けるべきである。
下は”Fight for Justice” web サイトからの慰安婦の国別構成についてです。このサイトの代表者の一人は吉見義明教授です。日本人慰安婦の存在を認めつつ、彼女らはほんの少数だから問題にならない、さらには無視してもいい、というスタンスには疑問を感じざるを得ない。
>日本軍「慰安婦」にされた人は、日本人・朝鮮人・台湾人・中国人・フィリピン人・インドネシア人・ベトナム人・マレー人・タイ人・ビルマ人・インド人・ティモール人・チャモロ人・オランダ人・ユーラシアン(白人とアジア人の混血)などの若い女性たちです。そのうち、朝鮮人・中国人・フィリピン人・インドネシア人など日本人以外の女性の比率が圧倒的に多かったのです。
しかし性奴隷は性奴隷です。
ところで日本人慰安婦が慰安婦問題の被害者から除外された事実を問題として取り上げた論文がネットに掲載されている。
木下直子の”慰安婦言説再考:日本人慰安婦の被害者性をめぐって”(2014)である。これは彼女の博士論文でこれで彼女は九州大学で博士号を所得。
しかし、題名からしてもはっきりしないという印象が強い。
筆者によれば日本人慰安婦を慰安婦問題に取り込もうとした日本側の意図が加害国、被害国というレトリックで主として韓国側から挑戦され、日本側はやむなく取り下げざるを得なかった、という事らしい。
この筆者のスタンスに韓国側に対する必要以上の忖度を感じるのは果たして私だけなのだろうか?