chuka's diary

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Burma : Untold Story ビルマの慰安婦

 

Burma: The Untold Story

Burma: The Untold Story

 

 

 米軍情報局による『捕虜尋問リポートNo. 49』というのがある。

 

これはビルマのミチナ市陥落直後に連合国側の捕虜となった20名の韓国人慰安婦に対して行われた尋問報告である。

彼女らは comfort girls と呼ばれていた。

 

なを、日本語ではミートキーナ=Myitkyinaと表記されているが、ミチナ又はミチーナという発音が近いそうだ。GI達はミッチと呼んでいた。

 

原文は非常に平易簡明な英文で書かれている。このリポートの筆者がニセイ(=二世)通訳軍曹(T/3 )のアレックス・ヨリチ氏であったことから、これは故意 に米人向けにていねいに分かり易くしたものだろうか、と拙者などはつい邪推してしまうのだ。

 

しかし日本ではこのリポート解釈に問題があるようだ。

 

よく知られているようにこのリポートは

“ Japanese comfort women deniers”(=慰安婦否定者) の聖典となっているのだ。

 

もっとも有名な一例をあげれば、

A comfort girl is nothing more than a prostitute or “professional camp follower” 

attached to the Japanese Army

というくだりだろう。

 

はじめの部分は、「comfort  girl (=慰安婦)とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかない」、となってしまうで、これは慰安婦がただの売春婦である証拠と、秦氏をはじめとする慰安婦の存在否定派が言い張っていたのはよく知られている。しかし全文訳は、

「慰安婦とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかないが日本陸軍に付属している」となる。

要は、日本陸軍は売春婦を連れた軍隊である!、ということを言いたかったのだ

誤解してはならないのは、これはヨリチ氏の個人的見解というよりも、単に当時の米軍側の一般的見解を反映したものに過ぎないということだ。

 

Won-Loy  Chan による“Burma ,Untold Story”にもこの見解はきわめて明らである。ミチナ包囲戦での情報担当将校だった著者は、うわさでは日本軍の慰安婦のことを知っていたのだが、実際にミチナで彼女らに遭遇した時にはとても信じられなかったそうだ。

報告にやって来た通訳の二世兵士グラント・ヒラバヤシも

“Captain! you aren’t gonna believe this, but I’ve got twenty female , I think Korean”

『大尉!こりゃ、とても信じられんだろうが20人の女性が捕虜となって来ています、どうやら朝鮮人らしい』

と、著者と同様にまったくのオドロキモモノキだったという。

 

ところでこのリポートの対象となった20人の韓国人慰安婦達の写真は今日世界的に有名となっている。吉見義明氏の『従軍慰安婦』の英語版の表紙にも使われている。これはビルマのミチナで捕獲直後に撮影されたものである。

 

この写真で慰安婦達と一緒に写っているのが東洋系の米軍兵士達である。

その最前列の兵士がミチナ攻略の情報将校であったウォンロイ・チャン大尉、それから3人のニセイ(日系)軍曹達である。その中には前述のグラント・ヒラバヤシ軍曹も入っている。

 

この中国系のWon-Loy  Chan (=ウォンロイ・チャン大尉)は戦後も陸軍に残り1968年に陸軍大佐として退役している。1986年にはミチナ攻略の回想録を

“Burma ,Untold Story”『ビルマ、語られざるストーリー』というタイトルで出版した。

 

この本の中にミチナの韓国人慰安婦との邂逅の部分が含まれているということがネットで紹介されていた。それで拙者はこの本全体を読ませていただくことにあいなった。

 

著者 Won-Loy  Chan は米国に移民した中国系二世である。

彼は1914年オレゴン州に生まれた。その当時両親は北欧系移民地域で雑貨商を営んでいた。非常に勉強熱心で、父に従って広東語の読み書きをマスターし、名門スタンフォード大を卒業、法科大学院に進学したのだが、長兄の死により一時的にオレゴンに帰り、両親の店を手伝うことになった。

 

彼は大学時代にROTC(予備役将校訓練)に入隊、卒業と同時に陸軍砲兵将校予備役に編入されていたのだが、太平洋戦争開始で現役として召集された。当時著者は27歳、独身であった。

しかし最終的に著者が送られた先が MISLS(=米軍情報局言語学校)。そこで約10か月間日本語をみっちり習わされた。

 

どういうわけか卒業を待たずに海外派遣の命令が出て12月14日には サンフランシスコを米軍に接収されていた元フランス豪華客船『イル・ド・フランス』号で出航。しかし船上第一日目に突然全員に北京官話を習得するようにと軍の命令が下された。

彼らもはっきりとした行く先を知らされていなかったらしく、著者は両親の祖国である中国かと胸ワクワク。

さっそく一行の中から中国語のエール大学博士号を所持する米軍人が出てきて毎日3時間の講義をしたので彼は必死になって北京語習得に努めた。

翌年の1月14日、船は南インドのボンベイに到着、そこで初めて行く先が明らかにされた。インド北部のラムガルー。何と、今や伝説上の人物となったスティルウェル将軍の指揮下へ。

 

このスティルウェル将軍(=General Joseph W. Stillwell)は米側の

CBI(=China- Burma- India Theatre of Operations)=ビルマ戦線、の総指揮官であった。

実は第二次世界大戦は3つの Theatre=戦線、で展開されている。ヨーロッパ、太平洋、そしてこのCBIであった。

恥ずかしながら、拙者はこれを知らなかった。

著者も指摘しているように、CBIは今日では忘れられた戦線となってしまっているそうだ。

本来ならば、このスティルウェル将軍は歴史上アイゼンハワー、マッカーサーと肩を並べる存在であるはずだったという。

 

スティルウェル将軍は“ビネガージョー”と呼ばれるくらい辛辣なものの言い方をする人として知られていた。その為敵も多く退役するしか道がないというところま追い詰められていたのだが、この人も大戦の勃発によって運命が変わった一人だった。彼の戦場指揮官としての才能を高く買っていた上官によってビルマに進軍した蒋介石の国民党軍の指揮官に抜擢されたのだった。

このスティルウェル将軍は中国語が達者の上、日本通でもあった。

 

ところが1942年、彼がビルマに到着するやいなや、日本軍のビルマ侵攻に遭遇。中国軍と共に険しい山岳地帯を徒歩で越え命からがらインドに逃げ込んだのだ。

1943年の初めにウォンロイ・チャン大尉が到着した頃にはインド北部でビルマ奪回の計画を練っている最中だった。

元々日本軍のビルマ侵攻は蒋介石への援助ルート切断が目的であったが、英軍がインドに敗退した後は、ヒマラヤ山越えの空輸というい手段が残されるのみであった。著者によれば、輸送機が墜落することも稀ではなく、乗務員はパラシュートでジャングルに落下という事も度々起こったそうだ。

 

スティルウェル将軍は日本軍を駆逐しインド・ビルマ・中国の援蒋ルートを再開する計画を立てていた。そのルート上に位置するミチナは日本軍の要所であり、ミチナを奪回すればルート再開は容易だと見ていた。

 

しかしミチナの日本軍は中国で転戦をかさねた精悦部隊(菊部隊)として米軍にさえもよく知られた勇猛果敢を売り物とする博多出身の部隊だった。

それに対する中国部隊は、ウォンロイ・チャン大尉によれば、ほぼ全員が北京語を話すが、読み書きは全くだめ。だから命令伝達は北京語のみ。情報を集める為には敵の文書がいるのだが彼らにとっては便所紙。

捕虜と文書を中国軍から得ることはまず無理な相談で、それよりも歯を抜くことの方がよほど易しい、というのが著者の率直な評価であった。

やたらめったらに発砲し、一旦塹壕に逃げ込むと出てこさせることは至難の業だとかで、とにかく悪評ぷんぷんの軍隊だった。

 

しかし中国通のスティルウェル将軍は、食料を十分与え医療体制を整え給料をきちんと払うなどして中国軍を人間的に扱うなら、武器と訓練で彼らは日本軍を打ち負かす強い軍隊に成る、という堅固な信条を持っていた。

これに関しては、後になって将軍の主張の正しさが証明された、と著者は書いている。

 

実際、NHKで放映されたビルマ北部に配属された菊部隊についての特集によると、彼らは自分達を攻撃しているのが中国で散々にやっつけたはずの国民党軍である事を知って大ショックを受けたそうだ。しかも、敵兵はあの同じ国民党軍とは全く思えないほど強かった、とある元兵士は述懐していた。

 

 

ウォンロイ・チャン大尉のスティルウェル将軍についての印象は、典型的なアメリカの好好爺だそうだ。いつもよれよれの野戦服姿でいっさいの飾りリボンや位階を表す記章をつけず、アタマには中国国民党軍の野戦帽をかぶっていた。いつもこの格好で一般兵士と共に列に並んでおせじにもおいしいとは言えない戦闘食を受け取り皆と一緒に食べていた。

 

ある時、たまたま話し相手になった軍曹に、ところで何であんたみたいな年寄りがこんな最前線の部隊にいるんだ、と尋ねれられたという笑えない冗談まで残っている