chuka's diary

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米軍調査報告書120号 : 日本人慰安婦はいた

消えた"日本人慰安婦"をリサーチしています。

 

加害国の慰安婦だからという理由で日本人慰安婦は無視されてきた。これは女性国際戦犯法廷の起訴状でも明らかだ。ここで"でも"と書いたのは、事実は慰安婦騒動の初期から日本人慰安婦は法的な分野で存在しないもののように扱われてきたからだった。

1996年のクマラスワミ報告も例外ではない。

 

しかし"性奴隷"としては、日本人、朝鮮人、台湾人慰安婦は皆同等なはず。

 

"性奴隷"の法的定義はセックス目的で一方が身体の拘束を受けることである。

法的拘束の範囲は、口頭による脅しから、暴力的監禁まで幅が広い。だから外出許可制や契約期間制も身体拘束と見なされる。この法的解釈はセックスは二人の自由意思によるという前提に立っているからだ。

 

日本人慰安婦の料金が一番高かったとか、将校用として特別扱いされた、とかいった理屈をつけて彼女達の法的性奴隷という性格を否定することは全く不適切と言わざるを得ない。

 

ところで日本の公娼法では従業女性は貸座敷のみ、つまり借金先の女郎屋に住み込みで商売することを余儀なくさせられている。だから、前借り金の名目で身体が束縛されてしまっているということになる。これは事実上の監禁で犯罪だが、本人の意思と自由廃業という2本立てがあるからこそ合法となっていた。

植民地朝鮮半島と台湾でも公娼法が実施されていた。だから元来慰安所の女性達は軍に登録された公娼のはずだった。

 

米軍調査報告書120号、"Amenities in the Japanese Armed Forces"(=日本軍における各種アメニティ)1946、は慰安所と従業女性 についての米軍側から見たかなり詳細なレポートである。

 

アメニティ(=amenity)とは一般的には附属の娯楽用施設を指す。ホテルのアメニティはプール、テニスコートなどだが、日本軍では最も有名なのが酒保である。

名前の通り酒の売店で酒("大関"、アサヒビール)をはじめ、タバコ(チェリー、ゴールデンバット)甘いもの(羊羹、キャラメル、飴玉)などが売られていた。酒・たばこは兵士にはなくてはならぬもので、前線の酒保では切れることはまずなかった。大きな軍駐留地の酒保には鮭缶や褌をはじめ様々な生活必需品が売られていたが、値段は外よりかなり安かった。

 

慰安所は陸・海軍がそれぞれ軍のアメニティとして運営していた。

軍の慰安所は委託経営といっていいだろう。この調査書では、軍自体は慰安所の運営から何も利益を得ていなかった、と述べられている。

特にマニラ市の慰安所の管理運営は陸軍様式のモデルと見ていいだろう。

 

まず慰安所を開く為には、業者は慰安所申請書3部を提出、許可が出ると、慰安所従業員全員の履歴書一覧を3部、従業員個人による芸妓・娼妓申請書を3部(これが公娼登録となる)、芸妓・娼妓各人の履歴書を一部、の提出を義務付けられた。

 

だからかなりのお役所の書類地獄だ。

上の必要書類の英訳!がアペンディックスとして添えられているのも凄い。

 

軍による建物の検査に合格し、従業女性の身体検査がパスすれば慰安所開業となった。身体検査は、性病検査だけではなく、志願者の身体が職に耐えられるかどうか判断された。当時は結核が蔓延しており、慢性栄養不足と重なり健康状態に問題がある人が多かったからだ。開業後は従業女性は週一回の梅毒検査を受けるのだが、これは視検でありかなりミスも出たはずだ。慰安所の方は定期的な内部の衛生検査を受けた。これらの結果が英訳されている。業者は商売の収支を記入した毎日の営業報告を軍に出していた。毎月の各従業女性による収入は本人と業者で5/5に分けられ、女性はその中から業者に借金を返した。契約は2年で一旦終了。もう一年だけ軍により延長を許可されることができた。軍の配慮でこの一年は借金無しで従業女性に料金収入の半分が払われた。

この軍慰安所システムは、これまでになく従業女性に対して公平であったという点では画期的だったようだ。

 

当時似たような公娼制が存在した国はフランス。1804年にナポレオン一世により法化され、廃止されたのは1946年。フランスの女郎屋で悪名高く人気があったのに、"屠殺楼"(=la maison de l'abatage)があった。娼婦達が出来るだけ短い時間で可能な限り客を取ったので客の男達が次々と屠殺されたと皮肉った呼び名だが、料金が安かったので大繁盛した。日本軍のはこれのパクリであった可能性が高い。取り分50%という稼ぎの分け方も同じなら女性は取り分から借金を払っていくというのも全く同じであった。

 

調査報告では、慰安婦の大部分は、日本、朝鮮、台湾出身女性となっている。少数派として中国本土、インドネシア、現地女性がいたからだ。

従業女性達は引率者により現地の業者に引き渡された。特にビルマへは1942年に703人の女性達が軍の兵站船で運ばれ上陸した。そのうちの90人は日本女性となっている。

この出来事は朝鮮人業者日誌にも記されていて有名だ。またこれらの女性の一人は元慰安婦の玉文珠さんだった。朝鮮・中国女性達は10人から20人ぐらいのグループになり業者に引率されビルマ前線に送られたが、主要占領都市メイミョー(Maymyo)には10軒の慰安所があり、2軒は日本女性達で占められていた。