英米を中心とする連合国側は日本軍占領下のビルマを戦略上南北に分割し、南部をイギリス・インド連合軍が、北部を米・中国連合軍が奪回する計画を立てていた。
冗談だろうが、ビルマはルビーの産地として有名であるがルビーを産出する場所は全部イギリス側にあった、というのが著者。
このビルマ戦線の連合国側の総司令官は英王室の親戚にあたる若きマウントバッテン提督であった。もちろん大貴族のボンボンであるから、チャーチル英首相は守役の将軍をしっかり付けていた。
百戦錬磨のスティルウェル老将軍は公式にはこの大貴族のボンボンの下に立つ副総司令官というわけだからおもしろくないのも当然だ。何かにつけて文句が絶えなかったとか。
なさねばならぬならぬ何ごとも、であるから、不協和音を乗り越えて翌43年には、英軍指揮下のインド連合軍が国境を越えてビルマ内部に侵攻、ジャングルに潜んで長期ゲリラ戦を展開し日本占領軍を脅かす心理作戦に出た。その年の秋にはスティルウェル将軍の方も国民党軍のおケツをひっぱたくような格好でいよいよビルマ内部に進攻開始。一歩も引かずという心構えでUターンの出来ない亀さんのごとくのろのろとしかし着実に敵を破りつつ前進を続けた。
これらの効果はてきめんだった。44年になると堪忍の緒が切れてしまった日本軍は一点突破全面展開をめざしての大攻勢に出てきた。かの近代戦史上最も無謀な作戦と評されているインパール作戦である。
日本側は八万の大軍をかき集め、インド内部の英軍の拠点インパールに向かい決死の大進撃。そこの英軍を壊滅させ自由インド州を打ち立てるために、インド国民軍7000をひきつれて。
しかしわずか4か月という短い期間に大部分の兵は戦闘でよりも病弊死してしまうという全く悲惨な結果に終わってしまった。おかげで頼みのインド国民軍も壊滅だ。
その間手薄になったビルマ北部の日本軍の守りをついて、スティルウェル将軍の率いる国民党正規軍と米軍・ビルマ部族合同ゲリラ隊はミチナを目指して大掛かりな攻勢に出た。
5月17日にはミチナ飛行場を占拠、5月18日にはミチナ市を包囲した。ところが、米中英インド混成部隊である連合側には恐れていた通りの少なからぬ混乱が生じた。おかげで中国軍が同士討ちをするという最悪のシナリオが発生。そうこうしているうち日本側に援軍が入ってしまうという事態をむかえて早期攻略はやむなく延期となってしまったそうだ。かくしてミチナ包囲は8月3日の陥落まで続くことになった。
ウォンロイ・チャン大尉は44年の一月早々から情報将校として再前線に配置されていた。
1943年の10月にビルマ侵攻が始まって以来、日本兵捕虜からの軍事情報は喉から手が出るほど欲しかった。
中国軍から捕虜が出たという知らせが届く度に、それっとばかり、非常な危険を冒して現場に急ぐのだが常に空ぶり。というのは、中国軍の言い訳はいつも同じ。逃げようとしたからやむなく撃ち殺さざるを得なかったというわけだ。日本兵は捕虜になるくらいなら敵兵に撃たれて死を選ぶのだという。
この説明の中にどれほどの真実が含まれているのか著者は疑問に思っていた。
というのは怪しいものは先ず撃ってそれから尋問というのが中国兵のやりかただったからだ。
捕虜から得られる情報で味方の命が救われると説得してもまったく埒があかない。ついには、蒋介石総統に訴え、捕虜を絶対に生きておかすように、という御通達を出して貰ってやっと日本兵捕虜を得ることが出来るようになったそうだ。
その効果があって、12月24日に最初の日本兵捕虜を尋問することができたのだが、期待に反して、「あたまが鈍すぎて」ぜんぜん使い物にならない、とか。それでも明らかに重症な傷病兵であったので米軍の捕虜取り扱い規則に従い何よりも最初に病院に送って手当てをさせたと述べている。
著書にとっては、情報収集の為に最前線の中国軍部隊を訪れることは命がけであった。小柄な著者のグリーンの制服姿は少し遠くから見ると日本軍と見分けがつかない。案の定中国軍の要所に近ずくと、すぐどこからか弾が飛んでくる。慌てて地に頭を伏して、出来る限りのうまい発音の北京語で、「米軍だ、撃たないでくれ!」と怒鳴るのだそうだ。するとかなり間をおいて、北京語で、「止まれ、動くな!」という声が返ってくる。著者としては、もう地に伏したまま動けるような状態ではないので冷や汗を出しながらひたすら相手の出方を待つよりしか方法はない。かなりの間を置いてやっと「来い!」という命令が出されるのだ。それでゆっくりと立ち上がり、銃を頭上高く両手でかかげてゆっくりと前進していくのだそうだ。その間恐怖で生きた心地もしなかったという。
中国兵からは日本兵に間違えられるわ、日本兵からは間違いなく米兵だと撃たれるのわ、本当に割があわない。危険な場所に向かう都度必ず“リパブリック賛歌”を口ずさむことが習慣となっていた。
『おたまじゃくしはカエルのこ、なまずのマゴではありません』
とか、『権兵衛さんの赤ちゃんが風ひいた』
と幼稚園でうたった童謡を覚えているだろうか?あの歌こそ実は“リパブリック賛歌”のメロディーの見事なパクリなのだ。
もとはと言えば、この唄は南北戦争中の北軍兵士の愛唱歌であった。
ハレルヤ!神に栄光あれ
神に命じられた正しいことをしているのだ、と自分にひたすら言い聞かせて恐怖心に打ち勝つことが出来たというから、著者の苦労も並大抵のものではなかったはずだ。
また著者は最前線の情報将校であったので、日系通訳兵士と一緒になることが多かった。当然本の中には日系兵士の名もたくさん出てくるのだ。前述のヒラバヤシ軍曹や、日本できわめて著名なカール・ヨネダ氏の名も出てくる。この人は戦前は米共産党員として米西海岸で労働組合を組織していたという特異な経歴の持ち主であった。自著の中で、慰安婦リポートの作者ヨリチ軍曹とは陸軍通訳学校のルームメートであり、ビルマでも極めて親しかったということを書いている。
著者ウォンロイ・チャン大尉によるヨリチ軍曹についての言及は一切無い。
しかし、著者は米国内の敵国民収容所から自ら志願しビルマに送られてきた日系兵士達について賞賛の声を惜しまない。特に、ビルマ戦線で有名を馳せたメリル大佐が率いるメイル遊撃隊というジャングルでのゲリラ戦や先行攻撃専門の部隊に配置された日系兵士達は単なる通訳であるにもかかわらず、敵味方から狙い撃ちにされるという危険に会いながらも実際に戦闘に参加し多くの素晴らしい功績を挙げたと述べていた。
著者の任務には毎日朝と夕方に偵察機に乗り込んでミチナ上空を徘徊して敵の情勢を探ることも含まれていた。ミチナ飛行場を爆撃中のゼロ戦飛行隊に遭遇することも珍しくなかった。そういう時は上空高くに舞い上がって高みの見物をしながら空中爆撃が終わるまで待つのだそうだ。
ウォンロイ・チャン大尉は大ボスであるスティルウェル将軍から気に入られていた。彼の情報将校としての仕事ぶりに将軍は非常に満足していたからだ。だから、赴任期間が終わる頃、将軍からビルマに残らないかと勧誘された。ミチナは陥落したけれどもビルマ戦線はまだ終局を迎えてはいなかった。将軍の配下に残れば少佐に昇進という約束までしてくれた。
しかし、著者をそれをあっさり断った。
ビルマに到着してから丸二年、戦闘中でもあり約束された休暇も返上して頑張ってきた。ジャングルの熱気と湿気に多数の兵士達は病に倒れた。雨期のジャングルは泥の海と化しマラリア蚊が猛威を振るう。著者自身も高熱と寒気におそわれ寝込んでしまったこともあった。
もうこれで一市民としての戦闘義務を果たした、彼の任務は他によって引き継がれるべきだ、ともかくアメリカ内地に帰りたい、というのが著者のいつわらざる本音だった。実は婚約者が彼の帰りを待っていたのだ。
だが運命とは皮肉なものだ。彼の転任を待たずに当のスティルウェル将軍がルーズベルト大統領によって左遷されてしまったのだ。理由は蒋介石との不仲であった。
もし、スティルウェル将軍がビルマに残っていたら、中国の歴史は変わっていた、国民党軍が共産党軍に勝利し、従って朝鮮戦争も起こらなかった、という説を唱える人もいるのだが、この偉大な将軍は戦後すぐに胃癌で亡くなっている。
著者のビルマ後の新しい赴任先は、オクラホマ州の陸軍砲兵学校であった。
確かに予備役としては砲兵隊将校であったが実際は情報将校であるからいまさら砲兵隊にといわれて著者もかなり困惑したらしい。しかしとにかく与えられた任務を一生懸命にやるつもりでいたところ、あのスティルウェル将軍が砲兵学校をカルホルニアからはるばる訪問することになった。
罷免されてもなお、彼はビルマ戦線の英雄であることに変わりは無い。地元ではものすごい歓迎振りだった。さて、著者のウォンロイ・チャン大尉もかって将軍の側近として共に戦った兵士である。だから将軍と再開の握手をしている著書の写真が陸軍関係の新聞にでかでかと載せられたのも当然といえば当然。
見出しは
「おう、チャン、元気でやっておるか?再開できて何よりだ」というスティルウェル将軍の開口一番、となっている。
しかし事実は新聞記事とは大違い。実はその時スティルウェル将軍は開口一番、
「チャン、こんなところで一体何しとる?ここはお前のような者のいるところじゃないぞ。」と言ったそうだ。それから一週間後に著者は首都ワシントンDCに転任命令を貰った。そこで再び情報将校に返り咲き大佐として退職するまで勤め挙げた。
この本は今や絶版となっている。しかし、本の内容はビルマ戦線に関連する英文記事に数多く引用されている。
この本の日本語訳はない。
米には戦史ファンが多い。ビルマ戦線に関してもかなり多数の本が出版されている。
ある研究家の中にはミチナ速攻の失敗?をスティルウェル将軍の情報が不正確で敵の人数を少なめに見積もったことに原因があったということを言い出した人も現れている。この本の目的はどうやらそういった批判に反論し自らの汚名をそそぐ為であるようである。
しかしこの本は決して読み易いとは言いがたい。拙者の最初の印象は本の半分は著者の関連した人物の名で埋め尽くされている、というものだった。それほど人の名が多いのだ。それにビルマ戦線の知識が全く無い拙者には戦闘の部分はちんぷんかんぷん。しかし、その後のリサーチで、著者の残した人名リストはミチナ攻防戦を多少なりとも理解する上での手がかりとして非常に役立ったということを述べておこう。
本全体を通して感じられるのは著者の誠実さと成熟した人柄である。
一言でいえば、細かいところにとらわれることなく大きな見取り図を描くことのできる人だという印象を受けた。こういうタイプの人はなぜか中国人に多いように感じられる。
グーグルで検索すると、著者は1999年に84歳を持ってすでに鬼籍に入っておられた。