chuka's diary

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日本のエンペラーゼネラル、マッカーサー(2)

 

The Emperor's General: A Novel (English Edition)

The Emperor's General: A Novel (English Edition)

 

 

“The Emperor's General” は1999年に米で出版され、たちまちベストセラーとなったそうだ。 『天皇の将軍』という日本語訳が2002年に出ている。アマゾンには日本語の読者評が二つ載っていた。
 
著者James Webb ジェームズ・ウェッブ氏はかなり名の知れた作家であるが、2006年以来バージニア州民主党上院議員を努め外交委に属している。10月15日付けの朝日新聞によると、訪米した安部元総理と会い、例の尖閣列島の中国人船長の釈放は日本政府の間違い、とコメントしたそうだ。 
 
アナポリス海軍士官学校を卒業後、海兵隊士官としてベトナムの戦闘に参加、勇敢な兵士に贈られる海軍十字章というメダルを授与された。私の記憶が正しければ、負傷後除隊、法学校に在学中に小説を書き始め、後に数冊のベストセラーを生んだ。弁護士となり、共和党のレーガン大統領に海軍長官に抜擢されたが、大幅な軍縮予算に抗議して短期間で辞職。当時のレーガン大統領を密かに安堵させた。
というのは以前からいろいろと物議をかもし出す人だった。
海軍長官時代には母校のアナポリスまで出かけてそこの女性士官候補生達を“thunder thighs” つまり “太もも” と呼んで訓練の目障りだと言い切った。この彼の無責任な発言がアナポリスでの女性士官候補生に対するいびりのエスカレートに貢献したと、当時在学中であった海軍女性士官達の非難の声がTVで大きく報道された。
 
また同世代のブッシュ前大統領との確執は有名。徴兵逃れの金持ちのぼんぼんとブッシュ二世を鼻の下であざ笑っていた。だが、こともあろうにそのぼんぼんが大統領として軍にイラク攻略を命令したのでキレた。おかげで海兵隊員の彼の息子はイラクに出征した。上院議員当選直後のホワイトハウスのレセプションで、息子は元気でやっとるかね、と社交儀礼で言葉をかけたブッシュ大統領に本気になって怒った。その場は一瞬険悪な雰囲気となったそうだ。ウェッブ氏自身によれば、その時大統領を殴り倒したいと思ったそうだ。どうもアンガー・マネジメントが必要な人のようだ。
 
この本は歴史小説として非常に良い読者評を得ている。ある日本人読者はどこまでが事実でどこまでがフィクションが区別がつかない、とかきこんでいたが、英語人読者も全く同感のようだ。
 
歴史上、マッカーサー将軍ほど生前から評価が二つに分かれている人物はいないだろう。理由としては、彼がフォーク・ヒーローとして伝説化されてしまったからだという人も多い。
実際彼ほど通りや公園、学校などにその名が付けられた人はいない。
 
ところがである、1979年に、マッカーサーがケソン・フィリッピン大統領から秘密裏に50万ドルという大ボーナスを受け取った事実が歴史家によって明らかにされた。現在の価値に換算すると約7億4千万ドル。受け取ったのはマッカーサーだけでなく、当時側近だった3人の米将軍達も含まれていた。
時は1942年、場所はフィリッピンのコレギドールの坑道内。マッカーサー将軍と妻子、彼の側近達に、ケソン大統領一行はフィリッピンに侵攻した日本軍に追い詰められ、そこに籠城していた。
 
金はマッカーサーのニューヨークの銀行口座にまとめて振り込まれた。3人の将軍達は親分が受け取った金額に比べるとまるでピーナッツにあたる分け前をそれぞれ受け取った。しかし給料の低い軍人にはちょっとしたボーナスだったであろう。
しかもケーブルでの入金が確認されるまで、マッカーサーはケソン大統領の亡命を故意に遅らせていたふしがあった。入金が確認されるやいなや、病身のケソン大統領はオーストラリアに米軍飛行機で亡命、マッカーサー一行もその後を追ったというタイミングのよさ。フィリッピンに残したバターンの米軍守備部隊には、最期まで戦え、という命令を残して。
 
ルーズベルト大統領は身の危険を顧みず敵前逃亡?したマッカーサーに即刻“メダル・オブ・オーナー”という米国の最高勲章を授けた。
“バターンの死の行進”として有名な米軍捕虜の悲劇を、マッカーサーは後を託した副官ウェインライト将軍の降伏のせいにしようとしたのはよく知られている事実であった。
 
マッカーサー自身をはじめ、この事を知っている内輪の関係者達は公衆には貝のごとく口を閉ざしたまま40年の歳月が流れた。
証拠として残されたのはたった一枚の領収書であった。かってマッカーサー将軍の片腕とも言われ、あのミズーリ号上の日本降伏の署名にも立ち会ったサザーランド将軍の死後に残された書類の中から出てきた。サザーランド将軍自身は日本占領後にマッカーサーによって退役させられた将軍であった。英国名家出身の人妻との不倫をすぐに辞めなかったのがマッカーサーの不興をかった。彼女の夫は英国士官だったがシンガポール陥落で日本軍の捕虜となっていた。
 
同じケソン大統領は亡命直後、ワシントンを訪れた。その際、1935年から2年間、マッカーサーの副官としてフィリッピンに赴任し、マッカーサーを嫌っていたアイゼンハワー将軍にも例のピーナッツを申し出た。後のアイゼンハワー大統領は、歴史に残る自分の名を汚したくないので断わった、と日記に書き残した。そこに大統領になった人となれなかった人の差を見る人も多い。
 
このボーナス?が歴史家によって公表されるやいなや、マッカーサー元帥に対する評価は一挙に急降下。もちろんマッカーサー信奉者は様々な理由を捜して彼の弁護に当たった。大統領通達もその一つだ。話は以前にさかのぼるが、1935年にルーズベルト大統領がフィリッピン政府の軍事顧問をいう名目でマッカーサーをお払い箱にした際、フィリッピン政府からの報奨金を受け取る事からの罪の免除という通達を出した。この通達自体の合法性が現在なら問題となるところだろうが、ともかくもう遅すぎる。しかし事実を尊重する歴史家達の評価は厳しい。この作品もこうした歴史の流れの影響下にあるように思われる。
 
英語人の読者の中でただ一人だけこの作品に2つ星という辛い点をつけた人がいた。国民の英雄マッカーサーをこけにするのは許せない、とかきこんでいた。
 
たしかにタイトル、『天皇の将軍』にはシニカルな意味がある。
 
占領軍最高司令官としてのマッカーサーの任務は日本占領を遂行、維持し、1945年7月26日のポツダム宣言に従って戦犯の訴追と日本の民主化を監督することであった。ポツダム宣言で連合国側は米ですでに完成していた原子爆弾投下の予告をした。だが、天皇側はこれをすぐには受けいれなかった。天皇制維持に向け、もっと有利に戦争終結交渉を続けたかったからだ。もしポツダム宣言を即刻受け入れていたなら、広島、長崎の原爆投下は起こらなかった。
 
太平洋戦争に従軍した米兵にとっては“エンペラー・ヒロヒト”はヒットラー以上の悪役であった。それゆえ、ヒロヒトを打倒する事は日本人を圧制のくびきから解放し、日本に自由と正義をもたらすことだ、と信じた。米政府も他の連合国側も基本的には皆同じ考えであった。
ところがこれにたった一人頑強に反対したのが、マッカーサーである。なぜか?それはおそらく親米的支配階級と結びついたフィリッピンでの経験であろう。結果的には占領政策は問題解決よりも新たな危機を作り出す可能性が大きい。終戦時の日本の被支配者側のゴスペルは何といってもロシアからの共産主義であった。
 
米軍の軍事力と天皇の力で日本を完全に支配化におき、共産主義の嵐が吹き始める前にいちはやく民主化改革を実行し、新生日本をフィリッピンのように親米の傘下にとどめる、というのがマッカーサーのビジョンであったであろう。
 
だからマッカーサーは、誰からも“戦犯”と見なされていた天皇に身分を保証し、帝国的侵略戦争を可能にした天皇制を英国式立憲君主制にリメイクまでしようとした。その試みが成功したかいなか、答えは日本国憲法にある。
 
1932年、大恐慌の最中、救済を求めてワシントンに集まった第一次世界大戦の元兵士達を、共産主義者だと言って大統領命令を無視して情け容赦なく軍事力で押しつぶした過去がマッカーサーにはあった。その彼にとっては太平洋戦争で命を捧げた米軍兵士達を裏切る事は屁のカッパかも知れないが、日本国憲法作成に携わった米軍人達の良心にとっては耐え難いものがあったはずだ。
 
この小説の主人公はマッカーサー付きの日本語通訳官であった25歳のジェイ・マーシュ大尉。主人公はアーカンソー州の片田舎の貧しい農家に生まれた。父の不慮の死によって一家は食べていけなくなった。それで故郷のアーカンソーを捨て、家族でカリホルニアに移住した。
ふとしたことから八百屋の店番をしていた日本人娘と知り合い、日本語を習った。主人公がフットボール奨学生として南カリホルニア大学で苦学生をしていた時代だった。やがて“パール・ハーバー”が起こり、日本人娘は家族ともども内陸の不毛な砂漠地帯に設置された収容所へ。主人公は徴兵されて軍の日本語学校に送られた。
そこから日本語通訳としてオーストラリアに避難していたマッカーサーの部隊へ。それ以来日本語通訳兼アシスタントとしてマッカーサーと共に移動を続けた。
 
マッカーサーは念願だったフィリッピンに再上陸。主人公は日本軍敗退の大混乱の最中に、フィリッピンの名家の娘と恋に落ちた。それも束の間、恋人を残してマッカーサーと共に厚木に上陸したのだった。
 
さて、厚木でマッカーサーを待っていたのは、内大臣木戸幸一の率いる天皇側の要人達だった。
マッカーサーとその一行は、厚木から天皇側の用意した時代遅れのポンコツ木炭車に乗り込み、横浜のホテルを目指した。沿道の両側には3万人の憲兵達が起立し長い列をなした。天皇側のキャンペーンの開始であった。
 
主人公マーシュ大尉はこの時以来内大臣木戸とマッカーサーとの間に非公式のチャンネルとなった。
 
1945年9月27日の昭和天皇によるマッカーサー訪問では主人公がマッカーサー付き通訳として35分足らずの短い会見に立ち会った。
この訪問は天皇側からの申し入れによるものであった。主人公が内大臣木戸と根回しをしたように小説ではなっていた。
 
天皇側の意図は明らかだった。連合国側からの天皇制廃止の声が日ましに高まってきていた。だから危機感にかられてマッカーサー本人から天皇制安泰の口質を得たかったのだ。いわば、内輪の手打ち式といったことろだった。
 
すべてが前もってリハーサルされていた。だから天皇がマッカーサー最高司令官に直接談判しにやって来たというのではない。 
会談直後に撮影されたのが、あの有名なカーキ姿のマッカーサーとモーニングコートの天皇であった。
 
よれよれの洋装でマッカーサーの前に姿を現した天皇はマッカーサー側に命乞いにでも訪れたかのような印象を与えたそうだ。だが、マッカーサーと通訳だけの会談では天皇の言動は見かけとは全く違っていた。
 
自分も好戦派のやりかたは嫌だったが、天皇としての立場があった。すべての責任は私にある。だから私の忠臣が戦犯とみなされる事は心外だ。京都に帰って出家し、そこで余生を静かに送ることも考えている、と。
 
マッカーサーの負けだった。天皇無しではマッカーサーの日本占領計画は崩壊する。天皇に弱所をつかれたマッカーサーは大きく引き下がった。
 
その日、いつものようにワシントンにケーブルを送った。天皇との会見の報告が主だった。彼一流の長々しい自賛の後、最期に、天皇が責任を取るというのだから、戦犯裁判は必要ない、と彼の意見を添えた。
ワシントンからの返事はたった一行、ただちに戦犯訴追を行え、であった。
 
実はこの小説にはもう一人の『天皇の将軍』、山下奉文が登場する。山下はマッカーサーの命令によって、マニラのカンガルー法廷で死刑判決を受け、絞首刑に処せられた。著者はこの山下将軍をもっとも軍人らしい、と非常に好意的に描写している。
 
というように、この小説には、数々の歴史的論点がうまくとりこまれている。歴史小説のファンにとってはエンターテイメントな本だ。