カイロ・ポツダム・SCAPIN・SF条約
鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ホトトギス、というわけだ。
ところで、SF条約では明記されていない領土問題は竹島だけではない。北方領土、及び尖閣諸島についても全く同等の処置がなされている。要するに、SF条約では日本の領土は100%完全には確定されなかった、もしくはできなかった、と見るのが適切だと考えられる。
だから日本の領土に関してこれではポツダム宣言の完結とは言えないのではないか、という疑問が残るのも当然だ。
前回でも述べたようにSF条約はカイロ・ポツダムと続いた日本占領下における法的体制の終焉なのである。だから、SF条約で竹島が日本領と明記され、韓国もこの条約に加わっていれば、法的には全く問題はなく、日本側にとっては万々歳であるのだが、上の二件は全く実現しなかったのだ。
1943年末のカイロ宣言は、米英中の三国が、中国領は中国へ、日本が過去の領土拡張政策の過程(by violence and greed)で獲得したすべての領地から引き挙げること(=expelled)、ということに合意したものである。
この宣言の第8条によって降伏後の日本の領土は以下のごとく規制された。
カイロ宣言で設定された事項は実行に移される、日本の主権は本州、北海道、九州、四国と我々(=連合国側)が決定する小島に限定される。
1945年8月15日の敗戦によるポツダム宣言受諾により、日本は連合国による占領体制に入った。
占領下の日本では、SCAPIN(= Supreme Commanderfor the Allied Power Instruction, 連合国最高司令官による司令)によって行政が行われた。
その中で竹島に関するものは、
#677、1946年1月29日、日本の領土から竹島は除外
#1033、1946年6月46日、マッカーサーラインの設定、竹島近界への日本船に よる接近禁止
#1778 1947年7月16日、米軍は竹島を爆撃演習区域に指定、
の3点となっている。
最後の爆撃演習区域設定であるが、米軍が1948年6月30日の演習で、韓国人漁師達10人以上死亡したという報道があるそうだが、ソースについては私は調べていない、ということを断っておきたい。日本人は連合軍占領司令によって竹島及びその近海から排除されていたが、韓国側には規制はなかったということにもなる、この点は法的に重要だと思われる。
1945年8月15日の日本の敗戦時から朝鮮半島は38度線で二分された。38度線以南は連合軍の管轄下に置かれた。朝鮮半島はカイロ宣言の該当領地であるから、日本人は全員引き揚げとなってしまった。
1948年8月15日、韓国は独立し李承晩が大統領に就任。米国は韓国政府を承認した。
ところでSF条約の草案と関連する政治的事件は以下の通りである。
草案#2 1947年8月5日 竹島は韓国領
草案#3 1848年1月8日 竹島は韓国領
草案#4 1949年 10月13日 竹島は韓国領
草案#5、1949年11月2日までは、やはり竹島は韓国領と明記されていた。
***この時期において冷戦対峙を目的とした米側の戦略変化があったという説が出ている
草案#6、12月8日、竹島は日本領だと明記される。
草案#7 11日後の12月19日には、竹島は再び韓国領に逆戻りである。
草案#8 1949年12月29日、竹島は日本領にまた逆戻り
草案#9 1950年1月3日、同じく竹島は日本領
***ダラス氏が米代表となる。
***1950年6月25日、北軍、38度線を越えて韓国に侵略を開始
草案#10 1950年8月7日、竹島の明記なし。
草案#11 1950年9月11日 竹島の明記なし。
***9月15日、マッカーサーに率いられた米国海兵隊部隊はソウル近郊の仁川に上陸、後を追った国連軍と共に大攻勢に出て釜山を包囲していた北朝鮮軍を38度線まで追い返す。
***10月1日、調子ずいた韓国軍が李大統領の命令で38度線を突破して北朝鮮に侵入、中国人民解放軍の参戦を招く。
草案#13 1951年3月17日 竹島は日本領
草案#14 1951年4月7日 竹島は日本領
***4月11日、戦争拡大阻止の為にトルーマン大統領は暴走を続けるマッカーサー最高司令官を罷免
草案#15 1951年5月3日 竹島の明記なし
草案#16 1951年6月14日 竹島の明記なし
草案#17 1951年7月3日 竹島の明記なし
草案#18 1951年7月20日 竹島の明記なし
日本が頼みの綱としているラスク機密書簡は1951年8月10日付けである。それは最終草案の#18の後にあたり、SF条約に関しては竹島を明記しないことはすでに決定していたと考えられる。要するにこの書簡は韓国の李大統領を黙らせる為のラスク氏の脅かしだとも考えられる。