chuka's diary

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真珠湾攻撃を知らなかったルーズベルト!?

拙ブログで真珠湾奇襲攻撃に至った日米対決には、日本は総力戦で負けるという共通の前提があった、とする本、"Japan's decision for war in 1941: some enduring lessons” 2009, について前々回で書きました。

 

事実は、米は当時中立国だったが、英・ソ連・中国に物資の支援をしていた。これは米議会で合法化されていた。しかし相手国への戦争布告は憲法で下院の評決にかかっていてそれまで米市民の大多数は参戦に強く反対していたので、戦争はまず無理と見られていた。原因は大恐慌だが、第一次大戦後の厭戦気分も大きく貢献していた。

 

真珠湾攻撃の翌日、米時間の12月8日、議会を訪れたFDR(フランクリン・ルーズベルト)は自ら書いた有名な "  infamy"(=恥辱の日)演説の冒頭で、米側が何もしてないのに日本に騙し討ちされた、と訴え、日本に対する宣戦布告はその場で可決された。続いて12月10日には、ドイツが三国同盟を理由に米に宣戦し、これで米は一挙に第二次大戦に突入したのだ。

 

しかし、これでは話がうまく行き過ぎているというので、FDR陰謀説を唱える人達が当時少なからず出てきた。フーバー元大統領もその一人だ。ルーズベルトに、無策大統領(=Do-Nothing-President)とレッテルを貼られ、再選で惨敗したという恨で固まった男がフーバーだった。この恨は彼の一生を貫き通し、"フーバー回顧録"で2011年に亡霊となって再び世に現れた。恨に国境はない。

 

一体どうして、あの強固な太平洋艦隊が一時的に壊滅状態(戦艦3隻が沈没遺棄、残り十数艦が沈没損傷、戦闘機350機破壊、死者3500人)という惨い結果となったのか?

これを防ぐ道があったのではないか?という疑問が事件直後から湧きおこったのも当然。

太平洋戦争終結直後の1945年8月、米上院で民主・共和両党による真珠湾攻撃調査会が発足した。この調査会には同年1945年の4月に亡くなったルーズベルト大統領を除き、関係者ほとんどが証言台に立った。翌年の1946年に報告書が提出された。この報告書は約650頁もある圧巻である。

 

ところでこの報告書は米公文書館のサイトでは最初の16頁しか公開されていないが、ハーバード法科大学院サイトを始め他のサイトで全文が公開されている。"Perle Habor  Investigation" と入れるとPDFサイトが出てくる。

この報告書は日本が満州侵略に着手した1930年代の日米対立関係から始まり、貴重な歴史書に価する。米国では真珠湾関係の本、論文にはことかかないが、それらの資料の土台になっているのがこの報告書、という印象を受けた。

 

日本でも、真珠湾攻撃の最後通牒が攻撃開始から7時間後になって野村大使からハル国務長官へ届けられた話は非常に有名だ。これで日本側の奇襲となってしまった、という説だが、それはウソだった。

この最後の覚書は、あのハル・ノートの交渉打ち切りを通告するもので、宣戦布告はもとより、真珠湾攻撃も一切触れられていなかった。

 

しかもこの長文の覚書は最初から英語で書かれ、攻撃前日の12月6日(米時間)に米側スパイ網"マジック"作戦(operation " Magic")で電信がキャッチされ、暗号解読されて同日の夜9時半に最後の14部を残してFDRに直接海軍から手渡された。

最後の部分は攻撃の日12月7日の10時にやはりFDRに手渡されている。

この時ハワイとの時間差で攻撃まで約2時間あった。FDRをはじめ誰も真珠湾攻撃に関しては全く知らなかったのだが、この2時間の時間差が調査で責任問題に発展した。

 

英側からの情報で帝国陸軍の大部隊がマレー半島に向かっているのをその時点でルーズベルトはすでに知っていた。それどころか英側は上陸地点まで正確に予測していた。

 

これで日本は戦争を選んだが、英領に侵入して、米議会が日本に宣戦布告をするだろうか?いや、するはず、と側近に漏らした、というのが調査書にある。この事からも、FDRは日本側が米領ハワイを攻撃するとは予想してもいなかった事がわかる。

 

攻撃に先立って、11月26日に米国務長官が野村大使に送ったハルノートであるが、何も知らないでただ原文だけを読むと、最後通牒ではない。これはむしろ、日米平和条約の新な申し出である。これから一緒に時間をかけて交渉しよう、という意が明確に示されている。

 

だからハルノートは米側からの最後通牒というのは東条英機のハッタリだ。

この男は国民を騙すことなど屁とも思わない典型的帝国軍人で、これも天皇陛下のお為、と頭から信じ込んでいる"カルト人間"のなせるわざである。しかも、このハルノートの条件を少しでも受け入れたら、彼は切腹ものだ。天皇をだまし、国際連盟の崇高な理念に反して侵略に走ったことを認め、さらに多くの日本兵を中国で無駄殺しにした上、1937年の盧溝橋事件前に戻る事はできない相談というものだ。 

 

ハルノートに対する日本側の公式返答が日本側の主張する真珠湾奇襲の日に送られた最後通告である。野村大使の手渡した公式書簡にも、開戦や真珠湾は一切なかった。

 

その内容だが、大東亜共栄圏で国際平和を築こうとする日本の意図を妨害しているのがアンタ達米国で、だから米国こそ国際平和を妨害している、という憎々しい英語の逆非難であった。東条英機はハルノートでよほどアタマにきたようだ。それで真珠湾奇襲で倍々返し、というわけだ。