ところが、この病院列車はソウルを目前にして爆撃を受け機関車が燃えてしまい走行不可能になった。ヨーコ達母娘はここからは自分たちだけで歩いて行くことに決めた。
飢えと疲れに苦しみながら夜歩き続けたのだが、再び共産ゲリラに見つかってしまう。しかし、ラッキーにも、空襲爆撃でゲリラ兵士は吹っ飛ばされたが、咄嗟に地面に腹ばいになった彼女らは生き残ることが出来た。ヨーコはその爆撃で、胸部に裂傷を負い聴力を失った。胸部を姉のシュミーズで固く縛り上げ、死んだ兵士の制服を着込んだ断髪姿の3人は今度は日中を堂々と歩き続けた。姉は貧しい朝鮮人のふりをして達者な朝鮮語で地元人を騙して同情を買って食糧を恵んで貰った。
彼女らは避難民となった日本の女達が朝鮮人達に連れ去られ陵辱されるのを度々目撃し、明日はわが身と生きた心地もなかった。
こういった加害者としての朝鮮人描写が米国の韓国系父系達を怒らせた。
確かに作品は植民地下の朝鮮人の苦難について一切言及していない。従って、慰安婦の『い』の字も出てこない。
それでもって、朝鮮人をまるでレイピストのように描写している、と韓国系米国人からの非難の声が高まった。
韓国系住民と韓国領事館が各学校区に対してこの本を教材からはずすように要求した。ある学校区は要求に応じた。
韓国側が指摘しているもう一つの問題点にこの本についての史的事実性がある。
作品中には繰り返し米軍による北朝鮮爆撃が描写されているが、これは史実ではない。米軍爆撃はなかった。
朝鮮共産ゲリラ軍はまだ存在していない。だから、日本人皆殺しを実行しているゲリラ軍は著者の想像の産物にしか過ぎないという。
ヨーコの兄は動員先の軍需工場で共産軍に攻撃を受け、仲間3人だけ運よく皆殺しから免れたわけだが、逃亡中に、共産ゲリラが避難民化した日本人を容赦なく皆殺しにするのを目撃している。
題名にまでなっている竹はナナムのような北部では寒すぎて育たない。
以上のようなことから反発が嵩じて、ついには著者の父はあの生体実験で悪名高い石井部隊のメンバーだと主張する韓国人が現れた。証拠として、著者の父親の名の発音が部隊の高官の名と同じであること、作品に登場する数名の人物の苗字が、石井部隊のメンバーリストに載っているということ、著者の父が6年間シベリアに戦犯として勾留されていたということを挙げている。が、これらは根拠に乏しい。
ついに2007年4月16日、ボストンにて著者はマスコミを前に公開質問に応じた。その日韓国のマスコミが勢揃いしたことはいうまでもない。が、日本側からはゼロ。
異色なのは、“A Plague upon Humanity”という例の生体実験の石井部隊を題材にした本の著者が出席したことだ。彼は、韓国人の熱心な説得に心打たれたそうで、韓国新聞には、この本は最初から最後まで出鱈目、という有名人である彼のコメントが載った。しかし、彼は後でコメント自体を否定している。
この公開質問の場で、著者は、まず、この本が韓国系米国人に不都合な感情をいだかせたことを謝罪している。それと同時に、彼等の理解が得られることを信じていると述べている。
本の内容に関しては、3つのマイナーな事柄を除いては、本の内容はすべて真実であると主張している。ただ作品は当時11歳の日本側からの著者の目を通して描かれており、歴史全体という観点からは不十分であることを認めていた。
“So Far from Bamboo Grove”は母娘達がめでたく日本にたどり着くことで終わらない。後半のテーマは日本での悲惨な体験である。
当てにしていた父の実家は空襲で一家全滅、母は浮浪者生活をしていた京都駅で力尽きて死んでしまった。
残された二人は浮浪児となった。しかし母が死ぬ前に学校だけは始めさせていたので、寝泊りしていた京都駅のベンチから所持品を全部詰め込んだリュックをしょって通学していた。つぎはぎだらけの服から二人とも引き揚げ者の浮浪児ということはミエミエ。ふろにも入っていないだろうから匂いもしたはずだ。そういったわけでひどいいじめにあっていた。
だが、中にはそういった二人に同情し助けてくれる人も出てきた。著者はその時の感謝の気持ちを決して忘れない。
一方、朝鮮半島に残された兄は凍死寸前で行き倒れになったところを、朝鮮人の農民一家に助けられた。
11歳の少女の目を通しては歴史は把握できないが、良心を持った人間と悪意にかられた人間の見分けは大人よりもはっきりしている。
1986年以来、膨大な数の米国人生徒がこの本を読んだわけだが、多くが主人公ヨーコのファンだと言っていることを伝えておこう。絶対多数の米国人父兄はこの作品を支持している。
なお韓国では、“ヨーコ物語”として韓国語訳が出版されたのだが現在は発売禁止になってしまった。
日本と中国では翻訳はなされていない。
私がこの本の存在を知ったのは、ネット上でのある嫌韓ネトウヨ氏のコメントからであった。その人はこの本を読んだことはないというのに、ただただ賞賛あるのみ。実は他人のコピペから内容を知ったつもりになっていたのだろう。