chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

巨泉さんはいい死に方をした

 
 
最初に大橋巨泉氏が亡くなった、というニュースを知った時、私の正直な感想は、「え?この人まだ生きてたの!」。
実は巨泉さんのことは、『11PM』で司会してた、恰幅がよくてえらく調子のいいおじさんとしか覚えていない。あの時の彼の新妻が元祖アイドルの浅野順子ちゃん。当時も二人はラブラブで、いったい順子ちゃん(現寿々子夫人)はこの年上おジンのどこにひかれて?というのがやっかみ混じりの『11PM』のファンからの声でした。
ところで上のフォトを見て、二人(永六輔さんと)の変貌には驚いた。(自分のことは棚にあげて、の話)。
 
巨泉さんの最後は、愛する家族にみとられながら、眠るように亡くなったそうだ。彼は大変いい死に方をした。誤解しないで欲しいのは、いい死に方というのは、家族に囲まれて死ぬことができたから、ということではないのです。ホスピスケアでは、死にゆく人を一人にしない、というのが原則ですが、世の中には、一人で死にたい、と望む人も結構多い。その理由の一つに、家族に悲しい思いをさせたくない、というのがある。今回の、「あの医者、あの薬に殺された」という巨泉さん御家族の怒りの告発を読めば、後者の方々の、一人で死にたい、という気持ちも一理あるように思えるのだが。
 
 〈先生からは「死因は〝急性呼吸不全〟ですが、その原因には、中咽頭がん以来の手術や放射線などの影響も含まれますが、最後に受けたモルヒネ系の鎮痛剤の過剰投与による影響も大きい」と伺いました。もし、一つ愚痴をお許し頂ければ、最後の在宅介護の痛み止めの誤投与が無ければと許せない気持ちです〉

 これは7月12日に亡くなった大橋巨泉さん(享年82)の妻・寿々子さんが、その心情を綴った文章の一節である。
 
巨泉さんの最初の胃がん摘出は11年前。その時彼はすでに70才だから手術からの回復はかなりきついはず。だが、彼はそういった困難を見事に克服。しかしつい数年前になって怖れていた癌が再発、放射線、および抗がん剤の治療を受けたのだが、体内でがん細胞は転移・再発を繰り返したようだ。再発以来彼の壮絶なる死闘が始まった。その時彼は75才を過ぎていたのだ、まず巨泉さんの並外れた闘魂に心からの畏敬の意を表したい。
 おそらく3度にわたるがん切除手術と4回の放射線治療に加え、昨年の11月に発症した腸閉塞の手術は身体に大きなダメージを与えただろう。上の痩せて弱々しい彼の姿が何よりもバトルの凄絶さを物語っている。

 もしあの時、モルヒネを大量に投与されていなければ、もっと生きられたのではないか―。
 冒頭の寿々子さんの言葉からは、そう悔やむ気持ちがひしひしと伝わってくる。

 事の経緯を振り返る。巨泉さんが20年にわたり続けてきた、週刊現代コラム『今週の遺言』(6月27日掲載)の最終回にはこう書かれている。

 〈3月27日に国立がん研究センター中央病院に緊急入院して検査をしたが、幸いがんは見つからなかった。(中略)CVポート(胸に埋め込む点滴補助器具)をすれば自宅での在宅介護で問題ないと言われ、がんセンターを4月5日に退院したのである。しかしこの在宅介護が大ピンチの始まりになろうとは神のみぞ知るであった。

 退院した5日の午後、我が家を訪ねてきた在宅介護の院長は、いきなりボクに「大橋さん。どこで死にたいですか?」と訊いてきた。以前にも書いたようにボクは既に死ぬ覚悟はできていたのだが、「エッ?俺もう死ぬの?」と呆然とした。

 次に「痛い所はありますか?」と訊くから「背中が痛い」と答えたら、直ぐにモルヒネ系の鎮痛剤のオプソやMSコンチンが薬局から大量に届いた。院長は毎日来るのだが特に何もしない。この頃からボクの記憶は曖昧になる〉
がんセンターの先生からは『今のところがんはないので、まずは体力を回復させましょう』と言われていたのですが、この在宅介護の医者は『どこで死にたいですか?どうやって死にたいですか?』とばかり聞いてきました。がんセンターから兄のカルテが届いているはずなのに、読んでなかったのでしょうか……。

 そして、『とにかく背中の痛みを抑えるために、薬を飲みましょう』とモルヒネ系の薬をどんどん送ってきたのです。その中には貼り薬もありました。
 
この箇所を読むと、ご一家の前に何だかとんでもない医者が現れたようである。
その前に、まず癌センターでは癌が見つからなかったということについて。ここで読者は、なんだ、巨泉さん、癌でなくなったんじゃないんじゃない、と思うかも知れない。しかし、彼のように悪性癌がリンパに転移した人は、検査で癌が見つからなかったというだけで、もう癌じゃない、と思い込むのはちと早すぎる。癌が今回の検査で見つからなかった可能性、を考慮する必要があるからだ。だから、癌センターから緩和ケアの専門医が紹介されたようだ。問題は、この緩和ケアの医者は、巨泉さんをホスピス患者と勘違いしたことにあるようだ。
当人の巨泉さんは非常にポジティブで楽天的、その後の行動が示すようにホスピスケアにはむしろ反対にもかかわらず。
 
ホスピスケアに適用される患者は、医者により、6か月以内に自然死すると医師に判断された人である。自然死というのは、癌患者の場合は、病気完治の為に必要な手術とか抗がん剤投薬を行わない、栄養補給の為のPEGチューブを胃または小腸に挿入しない、等々のアグレッシブな治療を行なわないということが前提となっている。理由は前述した治療を施しても、回復の見込みはなく、患者は肉体的及び精神的苦痛にさいなまれながら治療途上で亡くなってしまうケースが多いからだ。当然死直前の最後のレスキューである、心肺蘇生という救命措置についても、これは「コードブルー」として日本でもおなじみだが、ホスピス患者にはこれを行わない。以上のような患者サイドと医師サイドの法的合意がホスピスケアの前提となっている。
ホスピス患者の望みは痛みのない死であるから、効果的な鎮痛剤の処方が重視される。モルヒネ系の鎮痛剤は、癌による痛みに効き目があるとされ、ホスピスケアの癌患者のトップチョイスとなっている。
 
そんなによくきくなら、どんどん使えばいいじゃないか、ということになるが、モルヒネ系の鎮痛剤には痛み止めの他に深刻は逆効果がある。巨泉さんのご家族が怒っている通りなのである、それは呼吸機能を弱めるということだ。
普段、私達の一分間の呼吸回数は16から20回なのであるが、それが15回以下になると、アタマの酸素不足で、あらこの人、ちょっとボケてるんじゃない、というような症状が現れるのだ。10回近くでは、ひどい眠気におそわれ、眼を明けていることが難しい、10回以下だと、外から見ると意識不明、といったぐあいだ。
あのプリンスの死因は、このモルヒネ系鎮痛剤の過剰摂取によるもの、と死後解剖で判断されたが、彼は生前に機内で意識不明となり、ナルカンというモルヒネ系鎮痛剤の効果を消す薬の静脈注射で意識回復、という事件を起こしている。
というように、苦痛を感じないで死ぬということには、モルヒネ系及び多の精神安定剤(=催眠剤)などの併用の影響で痛みを感じる意識そのものが薄れてくるということも含まれているのが現実だろう。
話がそれてしまったが、つまり、ここの緩和ケアのお医者さんは、苦しんでいる巨泉さんを早く楽にしてあげたい、と思ったようだ。
在宅ホスピスを選ぶ理由は、日常生活の延長として静かに死んでいきたい、ということだそうだから、どこで死にたい、と尋ねたこのお医者さんはかなり勉強不足に見える。
大病でベッドで長い間寝転がっていると、背中ぐらいは痛くなるのは当たり前。体を回転させたり、ベッドの中で運動したりする方法もあるし、なぜ、こんなに強力な痛み止めがいるのだろうか、と思ってしまう。

 さらにこの医者は、『まあ、もって2~3ヵ月でしょう。私は専門医だから分かるんです』と言う。兄も私たち家族も、相当なショックを受けたのは言うまでもありません」

 次の日から、巨泉さんはこの医者に言われた通りに処方されたモルヒネ薬を飲み始めた。するとこんな症状が出始めたという。

 「薬を飲むまでは普通に歩いていたし、トイレも自分で行けていたのですが、飲み始めて2日目になると、フラフラして一人で歩けなくなりました。寿々子さんから電話がかかって来て、一人では抱えられないと言うから、飛んで行ったんです。

 3日目になると二人がかりじゃないと支えられないほどになり、兄も『なんか変なんだよ。空を飛んでいるみたいだ』と訴えていました」(哲也さん)

 終末医療に詳しい、帯津三敬病院の帯津良一名誉院長が解説する。

 「医療麻薬として知られるモルヒネ系薬は、痛みをとる代わりに、副作用として意識障害や、呼吸抑制により心臓に負担がかかることがある。特に高齢者で体力が衰えている方は慎重に使う必要があります。服用量を間違えると死期を早めてしまう危険性もある」

 寿々子さんと哲也さんは、がんセンターで「今のところがんの転移はない」と言われていたのに、モルヒネを投与されてから、日に日に弱っていく巨泉さんを見て不安を募らせていた。

 見かねた寿々子さんと哲也さんはがんセンターの片井均医師と、長年にわたり巨泉さんを診てきた若山芳彦医師に連絡。二人の先生は異口同音に「痛み止め(モルヒネ)の使用法に問題がありそうだ」と、再入院をすすめた。

 だがこの在宅医は、「薬を中止しよう」とは言わなかったという。
 
鎮痛剤は、原則として必要に応じて、ということなのであるが、モルヒネ系鎮痛剤ではそれが非常に難しくなるケースが多い。特に依存性は無視できない。
その上、去年、重症の腸閉塞で手術、という病歴を考慮するなら、モルヒネ系の鎮痛剤の量は、巨泉さんがホスピス患者でなければ、慎重にするべきに思えます。モルヒネ系鎮痛剤は、腸の蠕動運動をブロックすることでもよく知られているからだ。私が感じたのは、問題はこのお医者さんと癌センターとのコミュニケーションにあるようだということです。そこは、寿々子未亡人の指摘通りです。
 
 「毎日自宅には来るのですが何もしない。こんなにフラフラになって意識が混濁しているので、普通の医者なら『おかしい』と思うはずなのですが……。付き添いの看護師が脈を測ったりはしていましたが、この医師が問診することは、ほとんどありませんでした。それでいて『早いなあ、(寿命が)1~2週間になっちゃったかなあ』と言うのです」(哲也さん)

 不信感を募らせた哲也さんが、知人に調べてもらったところ、この医者は元々「皮膚科の専門医」だったことが判明したという。それが現在は緩和ケアの病院で院長を務めていたのである。

 この時点で寿々子さんと哲也さんは、「この在宅医に診てもらうのをやめよう ところが薬を服用してから5日目、在宅医から「今日がヤマです」と突然告げられた。

 「最初は2~3ヵ月と言っていたのに、急に『今日が危ない』ですからね。翌日、別の病院に入院することを伝えても『そうですか』としか言わない。

 もしあのまま薬を使い続けていたら、間違いなく死んでいたと思います。

 処方する前から量がおかしいとは思わなかったか?素人では分かりませんよ。自宅には使わなかった30日分以上の薬が残っています」


 巨泉さんのコラムの最終回には、こう記されている。

 〈翌11日の朝、若山先生が同乗してくれた弟の車で家を出たのだが、突然ボクの意識は飛んだ。そのとき若山先生が的確な指示を出してくれて、途中の病院に緊急入院の形で担ぎ込まれたという。たった5日間で意識も薄れ、歩行もままならぬ体になったのだから恐ろしい事だ。

 モルヒネ系の痛み止めの薬は体内に蓄積される事で知られるが、がんセンターではボクの体力に合わせて使っていたようだ。普通の病院なら、がんセンターからの資料を読めば理解できた筈なのだが、何故だか大量に渡されたのである。何しろ九死に一生を得たのだが、82歳の老人には大打撃であった。結局、緊急入院になったために、ノーチョイスで救命処置を受ける事になってしまったのである〉

 結局巨泉さんは、集中治療室を出ることなく、息を引き取った。コラムの最終回が掲載された直後、この在宅ケアの医師から寿々子さんと哲也さんに連絡があったという。

 「医者からは『申し訳なかった。てっきり(巨泉さんは)緩和ケアをするものだと勘違いしていた』と電話があった。

 兄と私たち家族が望んでいたのは、最後に好きなことをして逝くことでした。でも結果として、兄は、最期においしい物を食べることも、ワインを飲むことも、ゴルフをすることも何も叶わなくなってしまった。まさか寝たきりになってしまうとは想像もしていませんでした」(哲也さん)

 巨泉さんはかつて最初の胃がんを患った時に「がんを治すのは医者ではなく、自分自身の力です」と語っていた。

 その言葉通り、4度のがんを乗り越えてきた。だが、結局最後はベッドに寝たきりのまま、亡くなってしまった。

 本来なら「さようなら、逝ってくるよ」と軽口を言って旅立つはずだった。あのモルヒネの誤投与さえなければ……。巨泉さんと残された家族の無念はあまりに大きい。

 「週刊現代」2016年8月6日号より

 
私が巨泉さんは、いいい死に方をした、と書いた理由は、自分が望んだように、ポジティブな生き方を最後まで貫けた、ということである。病気治療のプロセスでは予想外の問題がおこることもある。このモルヒネ系鎮痛剤の過剰投与もその一つだろうが、普通なら、モルヒネ系鎮痛剤の効果は、大体4時間から6時間だから、おかしいと思ったら飲むのを止め、貼り薬ははがしてしまえばいいのだが、巨泉さんのように高齢で、体力の弱っている方には、呼吸困難の他に予想外の逆効果が出てきたのかも知れない。また彼が運ばれたICUの感染率の高さはよく知られてことでもあり、ICUでの感染が原因の肺炎で亡くなる人も多い。数々の障壁と困難に最後まで闘った人、というのが巨泉さんついての私の印象である
ところで、巨泉さんのような癌の再発と死というような場合に直面したら、私達のチョイスは?という問題をこのご家族の怒りの告発記事は私達に考えさせませんか?うがった見方をさせてもらえば、医者として、最後まで手術や抗ガン剤の投薬をおこなってみたい、というスタンスの方も多いのです。
 
私の友人は、巨泉さんとは正反対に、ホスピスケアを選んで亡くなりました。彼もいい死に方をしています。
 

愛するアリゼ and/or ムカつくw

 
 
 
 
Alizee, アリゼちゃんは、日本では、「恋するアリゼ」と銘打ったブルボン・クッキーのCMですっかりおなじみに。
ナポレオンと同じコルシカ島出身、最初で最大のヒットソング、『私はロリータ 』 ‟Moi, Lolita” で一躍ヨーロッパのロリコンおじさん達のアイドルに。
彼女のパーフォーマンスを見れば理由は一目瞭然、説明の必要なし。
しかし、ロリコンおじさん達を「ヘンターイ」と呼んで一方的に断罪してしまうのは極端に一方的で、フェアじゃないような。
 
拙ブログで記事にした『旅の重さ』という映画、これは主人公の思春期をテーマ
にしている。思春期には、性ホルモンの分泌がはじまり、いよいよ生殖モードに突入。つまり、女(の子)の方もパートナー探しに忙しくなるというわけ。性ホルモンはムードに影響するから、反抗期の幕開けである。
 
『アイドルを探せ』、1963年、のシルヴィ・バルタンは今日でも日本のシャンソン界の永遠のアイドルだが、歌詞は、「今夜のダンパー(これ、今の日本では死語ですね)で女王様になって、今日こそは好みの男を捕まえてやる」というもの。しかし、これでは日本語の題が与えるイメージと歌詞との間にちょっと差があり過ぎないか? こんなことを書くと、ムードを壊すなと逆切れされそうだ。何しろ、おフランスは愛のメッカ。
 
誰だ、彼女に捕まりたい、と思っているのは。
 
能書きが長くなって申し訳ないが、日本では、『恋するアリゼ』、原題は ‟J'en ai marre”, 気分悪い、つまり、「ムカつくw」 (これ、拙訳)。だから、恋とは関係ない。
 
ところでアリゼちゃん、何にムカつくって? 
 
これ、私の問題じゃない(つまりあなたに問題が=フランス人の決まり文句)
これが私の癪に触るもののリストよ
 
不平不満ばかりで
どこへも行きようがない
固定観念から
私への批判を止めない人には
本当にムカつくw
でもその人がホンモノのテロリストなら話は別。
 
社会は暗黒、私を偽善者とレッテル貼って
大物ぶってる人(お局様)
すべてが気に入らないと、いつも
泣きっつらの人。
ムカつくw
 リストは延々と続くのだが、最後は
ワタシね、ムカつくことにムカつくw
これ一体どーゆーこと
 
ところで、彼女のMVを見た人は、アリゼのセクシーなダンスはナンだ
と思うはずだ。実は、歌詞によれば、彼女はバブルバスの真っ最中
金魚さんと一緒に、というわけで、歌う彼女のバックには赤い金魚。
 
見て、私のすべすべしたお肌
バブルバスの中
全く平穏
身体も心も
すっかりリラックス。
 
ところが、出ました、日本のアリゼちゃんこと、鏡子ちゃん、ノーパン、割れ目チラリだそうですが、アリゼちゃんの見事なコピーキャット
 
おーい、金魚がないぞ!は英語コメントからでした。
 

 

小野田寛郎が終戦を知らない残留日本兵!?

小野田寛郎は終戦をフィリピンのジャングルで知っていた。皇太子のご成婚も知っていた。
以下の記事を書いたNHKは国民から受信料を受け取る資格なし。
 
 
太平洋戦争の終結を知らないまま、30年近くフィリピンのジャングルに潜伏を続けた旧日本陸軍の元少尉、小野田寛郎さん。1974年、小野田さんが日本に帰国したときは、日本中が沸き立ちました。
小野田さんの帰国を巡って、日本とフィリピン政府との間で極秘の交渉が行われていたことが、外交文書から新たに分かりました。さらに、この交渉を経てフィリピン側に支払われた3億円の資金を巡って知られざる事実が浮かび上がってきました。(国際放送局 照井隆文記者、広島放送局 関根尚哉記者)    
 
この3億円は、事実上のHush Money= 賄賂。もちろん受け取り人は当時のフィリッピン独裁者、マルコス大統領 。 この金は、ルパング島はおろか、犠牲者の家族になど、一銭も渡っていない。 
 
以下はウィキから
 
 小野田のマラカニアン宮殿で行われた投降式には、マルコス大統領も出席し、武装解除された。その際、マルコス大統領は小野田を「立派な軍人」と評している。小野田は終戦後に住民の物資を奪い、殺傷して生活していたとすれば、フィリピン刑法処罰対象になる。小野田は、終戦を信じられずに戦闘行為を継続していたと主張し、日本の外務省の力添えもあって、フィリピン政府は刑罰対象者の小野田を恩赦した。
 
太平洋戦争の終結をしらないまま、とウソを平気で報道するNHKに対して、日本の歴史学者からは一言も抗議が出てこない、とは何と悲しいことだろう。
 
以下は小野田寛郎の終戦からルパング島脱出までの30年だ。
 
  • 1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。島を防御する予定だった日本軍は崩壊。少数の兵士は山中に逃亡。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と4人グループで山奥に潜伏。
  • 1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
     1945年12月 二度目の勧告ビラを見る。山下奉文将軍名による降伏命令である。
  • 1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけ。同年3月下旬まで計41名の日本兵が投降。
  • 1949年9月 最後まで残っていた小野田少尉をリーダーとするの4人のうち、赤津一等兵が投降に成功。というのは、小野田組からの脱出を3回繰り返し、捕らえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功したという。フィリピン軍に保護された赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ山中に潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と書いた。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけた。
  • 1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いた。
  • 小野田グループの島民襲撃、殺害、略奪が続く。フィリピン政府は軍の討伐部隊を送ることになった。最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
  • 1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人は逃亡。
  • 島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
  • 1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
  • 1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見された。
  • 1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
  • この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
  • 1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
  • 1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
  • 1974年3月12日 日本航空特別機で帰国
小野田寛郎は、上記中の日本政府の捜索を隠れてじっと見ていた。後で家族が残していった手紙や雑誌を読み、住民から奪ったラジオの日本語放送で、競馬放送を聞いたそうだ。
 
1975年に小野田寛郎グループの迷惑料に3億円、2016年には、韓国人慰安婦に対する迷惑料にわずか10億円。
日本政府は寛大なのか、ケチなのか?理解に苦しむ。
 
 
 
小野田さんの来ている軍服もどきのシャツですが、明らかに島民から奪ったものですね。ひょっとして被害者は彼が殺した人かも?

小野田寛郎の死と不都合な真実

 
    弔辞
 
 
当時、小野田少尉と小塚1等兵は「狼煙(のろし)作戦」と称して、銃撃や収穫した米に火を放ち、住民に対する威嚇と自分たちの存在を誇示する行動をとっていました。

1972年10月19日
この日が小塚1等兵にとって運命の日となります。

夜明けとともにテリックの町を見下ろせる丘に出て威嚇射撃をし、作業中の住民が逃げ出すと稲むらに火をつけました。
あちこちから火煙が上がり2人は引き揚げようとしますが、大きなドハの木の脇に積んである米俵を見つけた小塚1等兵は、火をつけるために近くへワラを取りに行きました。

しかし、この行動が小塚1等兵最後の行動となってしまいます。


以下、小野田寛郎著「たった一人の30年戦争」より

その時、私は、耳たぶが引き裂かれるような空気圧の衝撃を受けた。
しまった!至近距離だ。
私はドハの大樹わきのブッシュに頭から飛び込んだ。小塚も転がり込んできて、自分の銃をつかんだ。
敵は激しく撃ってきた。
応戦しながら、背後の谷へ一気に走れば離脱できる。
いままで何度もあったことだ。
だが、どうしたわけか、小塚は一度つかんだ銃を取り落とした。
「肩だ!」
小塚が叫んだ。
振り向くと右肩から血が流れていた。
「銃はオレが持って行く。先に走れ!」
「胸だ!ダメだ」
私は小塚の銃で五発、自分の銃で四発撃った。
小塚が逃げる時間を稼ぎたかった。
敵の銃声が途絶えた。
いまだ!私は二丁の銃を持って後ずさった。
退いたものと思っていた小塚がいた。
「小塚! 小塚!」
私は片手を伸ばして彼の足首を握り、激しく揺すった。
反応がない。顔をみた。見る間に両眼にスーッと白い膜がかぶり、口から血が流れ出た。
私は両手に二丁の銃を持って、一気に灌木の斜面を駆け下りた。
激しい銃声が後を追った。
私は最後の戦友を失った。
小塚、51歳であった。


小野田氏の手記では、銃撃された小塚1等兵がその場で死亡したように書かれていますが........
 
検視解剖の結果、遺体の胃には100cc近い量の血が飲み込まれていて、銃撃を受けた小塚1等兵はその場で即死したのではなく、数分間は生きていたようです。
さらには、刃物で切り付けられた無数の傷が体中にありました。

丘の上で銃撃され、ドハの木から急な斜面を谷に降りた小さな水の流れの手前で血みどろになって倒れていた小塚1等兵。
警察軍に対し最後の力を振り絞りナイフを振り上げようとしますが、数発の銃弾を撃ち込まれ「オーイ」と誰かを呼び息を引取りました。
そして、遺体が麓の町まで運ばれると、日本兵に恨みを持つ住民達が蛮刀で切り付けたようです。


人生の半分以上を小野田少尉とジャングルで過ごし、家族を残し51年の生涯を閉じた小塚金七1等兵。

最後の力を振り絞りナイフを振り上げた瞬間何を思い、誰を呼んだのか。
小塚1等兵の無念さが伝わってきます。
 
ー以上、勝手にコピペいたしましたー  アカベコさん堪忍してや
 
 
 
生きている人の眼と死後直後の人の眼には見た目はあまり差がないように思えますが..............
 
 
  
 

日本の皆様さん、コメントありがとう。

上記の記事からのみ推測すると、小野田少尉は、負傷しショック症状に陥った小塚一等兵を残して、彼の銃を手に急いで撤退してしまったようです。

小野田氏の名がでる度に拙者はなぜか小塚一等兵のことを思い出してしまうのです。棺におさまったよれよれの軍服姿(?)の写真が印象的だったせいでしょう。小野田氏の帰国後は彼の名は全く忘れさられてしまったようです。 削除

反安倍バッシング

私は東京都知事候補の鳥越氏の名さえ知らなかったのだが、あるブログで、この候補がもう十年以上も前にした発言、拉致被害者を北朝鮮に返せ、は絶対に許せない、都知事にしてはならない人だ、というのを読んだ。
 
それで、以下のようなコメントをカキコ。
 
これ、15年も前のかなり過去の話ではないですか。今、彼がどう考えているか、話を聞いてみたいというのが、私のようなフツー人のスタンスではないですか?
 
このブログ記事のソースは明らかにyoutubeのネトウヨサイトのプロパガンダ動画なのだが、ブログ主は、確固たるソースだと思ったと返答してきたところから、何も知らないらしい。また、この人はネトウヨではない。
この怪情報のソースの一つは、作家百田尚樹氏のツイッターにあるらしい、が真相は今だに不明。
 
ところが、偶然見つけたのは以下の記事、拉致被害者を北朝鮮に返せ、といったのは、実は安倍総理だった。
 
 
 

Rest in Peace ダッカの犠牲者達

7月2日の夜、パキスタンの首都ダッカの富裕層向けのカフェがISISテロリストグループに襲撃され、外国人客が惨殺された。日本人7人がその中にいた。同様に3人の米大学の学生も惨殺された。
彼ら3人は、米国有名大学、バークレー校、エモリー大学に在籍し、優秀な学生であり、将来が嘱望されていた。
Abinta Kabir, Faraaz Hossein and Tarishi Jain
 
真ん中の Hossein君は、バングラデシュ出身であるので、釈放の許可がテロリストから出た。しかし、彼の連れの女子学生は、一人はバングラデシュ国籍、二人ともダッカ育ちであったにも関わらず、ヒジャブ、黒いベールを被っていない、西洋のドレスを着ている、とケチをつけられ、釈放を拒否された。
このHossein君は、それで友人の女子学生とそこに残ることにした、とニュースで伝えられている。
 
彼の勇気に拍手を!
 
この事件の現場となったこの、Holey Artisan Bakery というカフェは2年前に開店した。焼きたてのベーグルやクロワッサン、ピザなどを提供していて、値段は地元庶民にはちと高すぎるが、金持ちや外国人にはまだ安い、といった具合だったそうだ。オーナーはこれで閉店だと言っていた。そもそもテロリストが、アッラーアクバル、という決まり文句を叫んでこのカフェに突如侵入した時、従業員にはもうこれは予想していたことらしく、すぐにかねてからの逃げ口を使って脱出だ。その時オーナーは都合よく不在だったとか。
その後、テロリストはISIS系のサイトで、恐ろしい惨殺現場を流した。このテロリスト達が ISISとは無関係だと報道してる日本のマスゴミの裏に隠された意図は何だろう?どうせバングラデシュに恩を売り、その返し手で、自分達にかかる火の粉を払おうということだろう。
現地の国民的宗教慣習はレスペクトされるべきだ、そういった指導はなされていなかったのだろうか。国民大多数が無宗教の日本人には理解しがたいことだが、宗教は神社の柏手や寺参りでは済まない、それは生活なのである。
 
下のは、NYの不動産王、いや最近では、脱税王、NYのオレオレ詐欺王、となったトランプ候補に対抗する野球帽。$20です。しかし、なぜ、これが拙者のブログに?自分でもわかってません。
 

 

 

 

 

 

日韓ヒップホップ It G Ma 

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韓国で大人気のラッパー達、Keath Ape、JayALLDay, Okasian、日本のLoota,Kohhが一緒になった結果が、この‟It G MA”。  テーマは、韓国語を英語発音で表したものだそうだ。
意味は『絶対忘れない』。
 
しかし、曲の50%が韓国語、40%が日本語、10%が英語 だというわけで、一体全体100%意味の分かった人がいるのかという疑問がでてくるのも当然。
それでも、この曲、ネットでViral大拡散、海外で多くのファンを獲得。
 
もちろん、この曲のスターラッパーは韓国系 Keith Ape。韓国の高級ブランド製品の、カモ(迷彩服)を着こんでいる。何といってもアジア系バッドボーイのオーラが凄い。
 
しかし彼を完全に喰ってしまったのが、日本人ラッパーのLoota と Kohh。
Why? Loota の武士道をおもわせる歌詞と、Kohh の 『ありがとう』というセリフが大受けしたからだ。
下にコピペしたフォトがそれ。 
 
それから、この‟It G Ma” は 実は パクリ。 米の黒人ラッパー、OG Mako が、ドロボー韓国人、とツウィッターして一時は大騒ぎに。 しかし、金で見事解決。これで心おきなくこのソングがエンジョイできるということにあいなった。本家よりグー。
 
ではここでテーマについて。何を絶対忘れない? 
KeithとJayALLDAYが連発している文句は何と
 
 잊지 마, 잊지 마, 우리가 이찌방(一番)
It G Ma, It G Ma, Uri ga Ichiban.
Don't forget, don't forget that we are Ichiban.
 
一番 Ichibanはもちろん日本語!私には、オレが一番、と聞こえたが?
 
‟You are you,I am me, accept that shit”
オレはオレ、オマエはオマエ、このクソ事実を認めろ
 
というように、過激な歌詞。つまり、格差社会からのおしつけはまっぴらごめん、というわけだ。
 
実はこの曲は、2番目のラッパー、JayALLDAYが中心となって作られた。彼は韓国で生まれ、米国で育ち、また韓国に、そして日本でも暮らした経験がある。彼は今の日韓関係の悪化についてこう言っている。
 
We have a history behind us I don’d give a fuck about it I think it better for our generation to do positive things together. It is not about a country,it is all about a person。
私達の背景には歴史がある、しかしそんなものは全く気にするべきじゃない。ポジティブな事を共にやることが我々の世代のためになる。国としてというよりも、一人の人間としての方が大切だ。
 
 
過去の話すんのださいから
昔のこと忘れちゃったらいい。