chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

慰安婦=公娼=性奴隷:娼妓取締規則による売春の合法化

❝当時は公娼法があり売春は合法ビジネスだった。現在の価値判断で当時を裁くべきではない❞
 
上の主張は秦郁彦を先頭とする日本のネトウヨ学者達の、慰安所の一体どこが悪い!という反論の根幹をなしているものです。確かに明治33年(1900)の公娼法は日本国内での売春の合法化に間違いありません。しかし今日の私達はその条文を読めば読むほどずいぶんおかしな点に気付くはずです。イシューはこの法の目的です。この法は売春を合法化しながら一方では人身売買を一切サポートしないという明治政府からの性奴隷産業界に対する縁切り状になっているという事にあります。
 
前回は明治5年10月(1972)の‟牛馬解き放ち令”について触れましたが、実際にトリガーとなったのは、同年7月にペルー国籍のマリアルス号が中国本土からクーリー達を奴隷船のように船底に押し込めて輸送していたのを日本政府が横浜港で待ったをかけたという事件です。明治政府高官は同じ東洋人である中国人がまるで奴隷船の黒人奴隷のように扱われているのはけしからんと主張、日本中が人権蹂躙だとホットになった事件です。ところがお雇いイギリス人弁護士が、何をいうか、日本にも前借金に縛られた性奴隷がいるではないか、と反論逆襲したのがこの芸娼妓解放令の理由です。
しかし、その根底には、身売りは人倫に反する、という日本人の信念があったという事実は疑いようがありません。
 
注:このマリアルス号事件はたくさんのネトウヨがブログ記事で、誇るべき日本、というテーマで拡散させていますから、ネトウヨならこの事件に詳しい筈。しかし、どうしたわけか、例のイギリス人弁護士の反論については記事では一言も触れていないのが特徴です。
 
明治政府は芸娼妓解放令を出した後は、この事項については、府県に任せるということで手を引いてしまうのです。明治5年ですから、欧米式の法が何であるか知る人もいない時代と言ってもよいでしょう。
 
明治政府は明治22年(1889)に帝国憲法を発布しました。
政権交代からわずか20年で欧米の法を修得適応、法的には天皇を頂点とする欧米もどきの近代的立憲君主制を見事に作り上げたわけでこれも私が明治時代を高く評価する理由の一つです。
 
欧米化をさらに促進するため、華やかな鹿鳴館時代の到来となりました。ここでの欧米スタイルの夜会では政府高官達が全く不慣れなレディファーストもどきでなれない舞踏服の妻たちをエスコートし、ぎこちなくダンスまでしてみせ、欧米の外交官達の失笑をかっていたのですが、これほどまでに明治政府の高官達は必死だったのです。
 
憲法発布よりおよそ10年遅く、明治31年(1998)には待望の民法が施行されました。これにより帝国は欧米並みの法治国家の仲間入りを果たしたのです。
 
その中の民法90条では
公的秩序または善良な風俗に反する事項 を目的とする法律は無効とする❞
 
となっています。売春は法的には醜業、すなわち善良な風俗に反する稼業です。だから民法では売春を肯定することを前提とする判決は無効と言っているわけです。この条文が後の前借金の返済義務についての違法判決の決め手となるわけです。
 
さて能書きが長くてすみません、本題の公娼法と呼ばれれている明治33年(1900)の娼妓取締規則に入ります。この法のテーマは何といっても法的醜業としての娼妓稼業は本人の厳密な自由意思にのみもとずくという事です。
 
娼妓は18才以上、志願者は所定の書類をすべてそろえ、指定の場所で健康診断を受けた上で所轄警察署に出頭し、娼妓稼業を自由意思で行うことを明らかにし、娼妓として登録されてあらかじめ特定された貸座敷=遊郭でのみ売春ができることになったのです。娼妓自らが警察署に出頭というのは、志願者の意思を本人に直接確認することが目的でした。
また廃業の際には、娼妓が警察署にてその意思を筆頭か口頭で伝えるだけで即娼妓登録から削除される規則になっていました。
これは当時に遊郭の女郎となるような女性は教育程度が低く字が読めない書けないことが普通であったのを政府側はちゃんと知っていたからです。
この娼妓取締規則では、本人の廃業意思に対する妨害行為については罰金や懲罰が課せられることとされています。
公娼法で明確なのは、人身売買=前借金及び消費債務を理由に身柄拘束し売春をさせるという遊郭の商売のやり方にはっきりと法的歯止めがかけられた、ということです。
これでは秦郁彦の主張するような❝売春の合法化❞とは意味がずれているとしか思えません。
 
実はこの法の出た明治33年(1900)頃には、国内での遊郭は人気をなくして凋落時代を迎えていました。人倫に反する上に、時代遅れ、暗すぎる、と見なされていたのです。代わりに出てきたのが、今日の水商売の元祖ともいえる、料亭兼連れ込み宿に当たる待合、今日のホステス・バーの先祖、カフェです。これらは公娼法を全く無視したもので違法売春です。しかし政府側は全く取り締まる気もなかったようです。
だから、今日の水商売の感覚で慰安所を考えるのは歴史の誤解だと私は思います。ひょっとして、現在の価値判断で当時を裁くべきではない、というネトウヨの主張はマジで当たっているかも知れません。
 
それでは一体どうしてこの斜陽産業化した公娼制がおよそ30年後に慰安所として戦地にぞくぞくと現れたのか、凄い疑問だと思いませんか?
しかも娼妓取締規則のコアである自由意思による売春の部分は慰安所制度では全くカットされているのです。
 
下は台湾の台北市に残る遊郭跡です。日本占領下に開店しました。
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私の孤独 Ma Solitude : ジョルジュ・ムスタキ 

Non, je ne suis jamais seul, avec ma solitude
いや、私は一人ぼっちじゃないよ、いつも私の孤独と一緒だから。
 
本当に申し訳ないのですが、これも今は昔、ジョルジュ・ムスタキが歌い、日本でも大ヒットしました。日本のヒットドラマのテーマソングとしても使われました。日本語字幕は下のMVについておりますから、意味もよく分かることと思います。
このMVを作った人をはじめ、日本でもムスタキの熱心なファンの方、まだまだ多いのですね、安心しました。
この歌、今、深い孤独感に浸っておられる方々へお届けしたいと思います
 
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ムスタキさんの曲は本当にいいですね。懐かしいの一言につきます。
私もムスタキさんが大好きで、昔彼のアルバムしっかり持っていました。日本を離れる際に泣き泣き神田の古レコード屋さんに置いていきました。
彼の最初のヒット曲、『外人』でもおわかりのように、ムスタキさんはフランス人ではなく、さまよえるギリシア人です。
だから、彼のフランス語、一語一語がわかりやすくて、私のような外国人には耳にやさしいフランス語でした。
 
ただ、また例によって、日本人の理解は少し違うのです。日本の人は村八分を恐れ、従って孤独を必要以上に深く考え過ぎているように見えます。
 
ある日本女性がフランス男と知り合いになり、すっかり彼に夢中になりました。彼女によれば、‟je suis seul” (=私は独りぼっち)という彼の最初の言葉に同情し、孤独な彼の姿にすっかり惹かれたんだそうです。
ああ、またかいな、というのが私の率直な感想。これぞまぎれもなく‟おフランス病”の初期症状。
このフランス男の言わんとしたことは、俺はもっか恋人がいないから、どうだいっちょ試してみないか、という意味なのですがね。
 
この歌は振られた時の、アンタなんかいらねーよ、どうせオイラは一人モン、という口惜しい気持ちにピッタリではありませんか?

慰安婦=公娼=性奴隷 : 牛馬解き放ち令

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以前は、政府の関与はなかった、というのが慰安婦否定派の大きな理由だったのですが、あの安倍内閣の日韓慰安婦合意(2015)で安倍政権があっさり日本政府の関与を認めてしまい、安倍に裏切られたネトウヨは一時沈黙を余儀なくされたのです。
 
最近、その代わりとして、慰安婦は性奴隷ではない、というのが出てきました。根拠は売春婦として金を貰って商売していたから、というもの。安倍政権もちゃっかり鞍を乗り換えて、韓国政府代表が、慰安婦は性奴隷、と口に出す度に、抗議をくりしているわけです。しかし、慰安婦=性奴隷、は歴史的事実であり、日本人に対する悪口ではないのだが、なぜそれか理解できないのでしょうか?
 
この、慰安婦は性奴隷、の言い出しっぺは、実は、国連人権調査員だったクマラスワミ弁護士でもマクデューガル弁護士でもない、実は日本人なのです、しかも明治政府の初代司法卿であった江藤新平です。
 
幕末の志士から身を起こし最後は梟首刑に処せられた江藤新平の悲劇的生涯については是非ご自分でお調べ下さい。
 
明治政府というのは必要なものは何もかも欧米列強がらコピーし、彼らに追いついて彼らの様に植民地を領有し国を豊にすることにゴール・セットした政権でした。だから無数の外国人教師を破格の給料で招聘、日本から留学生を続々欧米に送ったのですが、その費用も開国したばかりの貧乏国としては非常に高くついたのです。しかし、それは見事に成功しました。
戦後に雨後の竹の子のごとく現れたのアジア・アフリカ新興国が米ソの経済援助競争に関わらず見事に失敗したのを覚えていますか?そう考えると、明治の日本人の優秀さにはただただアタマを下げるのみです。
 
慰安婦は公娼あるいは占領地での公娼もどきです。もどきというのは、軍隊付属の売春婦を正当化する目的で内地の公娼制度を適当に当てはめた苦肉の策ということです。
公娼とは明治33年(1900年)の娼妓取締規則で明治5年(1972)の江藤新平の芸妓娼妓解放令以来、国法によって合法化された売春婦をさします。
 
ネトウヨは慰安婦は公娼で合法、だから性奴隷ではない、と奇妙な主張をしているが、日本の公娼制度は単なる売春ではなく人身売買の性奴隷制度でした。
 
人身売買とはあらかじめ業者がブローカーを通して前借金を渡し、その前借金を遊郭に住み込んで年季奉公や自分の取り分から返すという契約を結んだため、当事者の売春婦は年季明けか借金が払えないうちは遊郭に監禁され、客とのセックスを強要されたわけです。 強要セックスの中には、生理日、感染症、感染症の客、一時間割り当てのミュルティプル・セックス、等も含まれています。
 
もちろん明治政府がモデルとして仰ぎ見る欧米列強国は、日本のこの人身売買(=human trafficking)を土台とする売春制度を事実上の奴隷制度とみなしていました。
明治5年(1972)に起きたマリアルス号事件で、欧米から日本の性奴隷制を名指しで嘲笑された時の明治政府は、江藤新平の陣頭指揮下、即、芸娼妓解放令を出し、人身売買は人倫に叛く道、とし、それまでの前借金契約を無効にしてしまったのです。
 
その直後に出された司法省通達22号では、
 
娼妓芸妓は人身の権利を失ったもので牛馬と異ならず
人より牛馬に物の返済を求める道理なし
 
と書かれていましたから、日本人も人身売買は奴隷制と見なしていた事がわかります。
それ以後も日本政府のこの見解は決して変わっていないのです。
明治33年の公娼法とは、人身売買に歯止めをかけるのが目的の一つだったのですが、ネトウヨの歪曲された理解力でも明らかなように、なぜか全く逆の解釈がまかり通っているのです。
なぜでしょうか?
 
 
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トランプ VS ストーミー・ダニエルズ : Make America Horny Again

初老のA氏(60才)は米国で超有名なセレブ、B嬢(27)はデカパイで有名なポルノスター。この二人はセレブ・ゴルフトーナメントで出会い、A氏はB嬢を自分のホテルルームに招き、そこで二人は合意のセックス。B嬢の動機はA氏がプロデュースしていた悪名高いTVショーに出演できそうだと思った、or  思わされたからだそうです。ところが、一年後にTVショーの出演がダメになり、二人は疎遠に。しかし10年後にはこのA氏は大統領に立候補。最初から負け犬候補と予想されていました。ところが、投票日の数週間前に、A氏の弁護士からB嬢に、10年前のあのホテルでの出来事を口外しなければ、$130,000(=1360万)出すとの申し出が。B嬢は何も考えずにさっさと署名し、投票日の2週間前に、その金を受け取ったのです。しかしその契約には、もしB嬢が一回口外すれば、1億ドルの罰金を払うこと、という損害賠償条項がついていました。
現在のところ、B嬢は2回口外したとして2億ドルの損害賠償で告訴されています。ところが、B嬢は、契約書にはA氏の署名がない、だからこの契約は最初から成立していないと反論、この契約の無効解消を主張してA氏を逆告訴。
こうなると一体何がどうなっているのか、こちらの方が混乱してしまいます。
 
昨日3月25日にCBSでのストーミー・ダニエルズの初のTVインタビューを200万人が見たそうですが、実は私もその一人です。上の初老のA氏とは、もちろん我らの恥ずべき大統領トランプ、B嬢とは只今 ‟ Make America Horny Again”(=再びアメリカを発情させよう)という極めていかがわしいタイトルをひっさげ全米各地のナイトクラブで興行中のストーミー・ダニエルズ嬢。
 
実はこのストーリーには裏があるのです。今年の2月に、大統領選挙のウォッチグループが米司法省と連邦選挙委員会にトランプ氏の選挙資金隠しについて公式に調査を要請しました。
これに関して、トランプの弁護士は、この契約は自分とストーミー嬢との契約であって、トランプには関係ない、出したカネは自分のもの、と全く高飛車な態度に出ているわけです。道理でトランプの署名がない筈です。トランプが署名していれば、彼は公職選挙法違反で逮捕です。これに対してカンカンなのはストーミー嬢。実際$130,000より高額な申し出があったのに、この契約をばか正直に守ってきたせいでそれを逃したわけですから。
しかし注目の的となったトランプ氏は、これはフェイクニュース、と早朝のtweet.。
ところで、たった一回のハンキーパンキーが$130,000というは、ギネスブックにのるべきではありませんか。下はストーミー嬢ですが、トランプ氏の二番目の奥さんのジョージア・ピーチことメープルさんに驚くほど似てませんか?メープルさんはボディーガードと浮気するなど好き勝手をして、トランプ氏から大金をせしめ、その後は固く口を閉じてます。

 

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皇軍将兵への贈り物:A Gift of the Emperor by麻生軍医

 

 

 

A Gift of the Emperor

A Gift of the Emperor

 

 

 
さて前回と前々回で麻生徹男軍医が軍上層部に充てた『花柳病ノ積極的予防法』の一部について私の感想を書きました。時は1939年、あの南京事件から一年後にあたります。当時の北シナ方面軍司令官は、岡村寧次大将、実際この人が日本軍慰安所制度の生みの親として認められています。この意見書、どのように慰安所強化に貢献したのか、知りたいところです。
『従軍慰安婦』1973年発行、では、著者の千田夏光が、麻生軍医がこの意見書で半島出身のほぼ未経験の慰安婦を強く推薦した事が朝鮮女性慰安婦の悲劇に導いたと述べています。もちろんこれに反して、麻生医師及びそのご一家は大反撃、今日に至っているわけです。
 
麻生軍医の医者として全く不適切な表現は文中でさらに続き、今日に至っても彼の言葉が日本バッシングに貢献しているのです。これはジョークではないのです。
 
❝某地ニテ検黴中ヨク見シ如キ猟鼠径部ニ横根手術ノ瘢痕ヲ有シ明ラカニ既往花柳ノ烙印ヲ押サレシ、アバズレ女ノ類ハ敢エテ一考ヲ与エタシ❞
性病検査で頻繁にみられるのは足の付け根のやや上部にリンパ種切開の傷跡である。疑いもなく過去に花柳病を患った証拠で、このようなあばずれ女の類は選出時に考え直すべきだ。
Chancoroid = 軟性下疳、に感染すると、悪寒、熱、尿痛がし、足の付け根のリンパ節が大きく腫れ、やがて破裂すると濃が出てくる。抗生物質のない当時はこれを早めに切開し、膿をだし、傷を洗浄したので傷跡が残る。娼婦の不妊はこのような下半身の感染症が原因であった。前にも指摘したように、性病は不特定多数の相手と予防手段無くインターコースを続けると、必ずかかる職業病であって、被害者がアバズレだから感染した、というものではない。軍慰安所では、コンドーム装着、性器洗浄をすることが規則だっので、この女性から感染する可能性は低く、他の慰安婦と同じであるはず。しかも、共同便所なら、どうして年が問題なのか?
 
❝此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ実ニ如何ワシキ物ナレバナレバナリ。如何ニ検黴ヲ行ウトハ言エ❞
このような女は皇軍将兵への贈り物として実にふさわしくない、たとえ性病検査をパスしてもだ。
 
❝応戦地へ送リ込ム娼婦ハ内地最後ノ港湾ニ於テ十分ナル淘汰ヲ必要トス。マシテ内地ヲ喰イ詰メタガ如キ女ヲ戦地ヘ鞍換へサス如キハ、言語道断ノ沙汰ト言ウ可シ❞
日本を出る船に乗せる前に、事前にこういう食い詰め女を乗せるないようにする必要あり。内地で食い詰めた女を戦地へ鞍替えさせるのは言語同断の沙汰である。
 
上記の性病の被害者となった慰安婦を卑しめる侮蔑的表現に関しては、千田夏光は、これは麻生軍医が皇軍兵士として洗脳されていたからだ、とむしろ同情的に取っていました。医者か皇軍兵がどちらかは知りませんが、彼の皇軍将兵の贈り物、という言葉は、英語で、‟The Gift of Emperor” として慰安婦を指すユーフェミズムとなり、世界に拡散です。
 
‟A Gift of the Emperor”  1997 by Theresa Park はアマゾンでは読者に評判いいようです。
 
もっと深刻なのは、2015年、米国の高校の歴史教科書に、あの慰安婦は天皇からの贈り物、という言葉が使われたことです。最初は日本の外務省が発行元の教科書会社相手にネトウヨ慰安婦史に都合の悪い部分を改変するように要求したのですが、全く相手にされなかった。そこで、秦邦彦氏をはじめネトウヨ翼賛学者が19名、国家元首である天皇の名を冒涜するのは教科書にふさわしくない、と雁首そろえて教科書会社に抗議すると、米国の学者達が、慰安婦は被害者、自国の言い訳を目的とする歴史修正はやめるべきだと日本のネトウヨ学者を批判しかえすということになった。
天皇が国家元首だなどとは。一体いつ憲法は改正されたのだろう!?
 
なお、この教科書の慰安婦の記述には、ネトウヨ学者が見逃したもっと恐ろしいことが記載されていたのにもかかわらず。
それは従軍慰安婦制度の史的理由です。南京レイプで世界中に露見した日本軍の規律の乱れを何とかして抑える為と、非常に明確に述べられていました。このパートについては、強制連行はなかった、20万人は有り得ない、で必死の秦邦彦さんも全くスルーです。
 

Burma : Untold Story ビルマの慰安婦 その2

英米を中心とする連合国側は日本軍占領下のビルマを戦略上南北に分割し、南部をイギリス・インド連合軍が、北部を米・中国連合軍が奪回する計画を立てていた。

冗談だろうが、ビルマはルビーの産地として有名であるがルビーを産出する場所は全部イギリス側にあった、というのが著者。

このビルマ戦線の連合国側の総司令官は英王室の親戚にあたる若きマウントバッテン提督であった。もちろん大貴族のボンボンであるから、チャーチル英首相は守役の将軍をしっかり付けていた。

 

百戦錬磨のスティルウェル老将軍は公式にはこの大貴族のボンボンの下に立つ副総司令官というわけだからおもしろくないのも当然だ。何かにつけて文句が絶えなかったとか。

なさねばならぬならぬ何ごとも、であるから、不協和音を乗り越えて翌43年には、英軍指揮下のインド連合軍が国境を越えてビルマ内部に侵攻、ジャングルに潜んで長期ゲリラ戦を展開し日本占領軍を脅かす心理作戦に出た。その年の秋にはスティルウェル将軍の方も国民党軍のおケツをひっぱたくような格好でいよいよビルマ内部に進攻開始。一歩も引かずという心構えでUターンの出来ない亀さんのごとくのろのろとしかし着実に敵を破りつつ前進を続けた。

 

これらの効果はてきめんだった。44年になると堪忍の緒が切れてしまった日本軍は一点突破全面展開をめざしての大攻勢に出てきた。かの近代戦史上最も無謀な作戦と評されているインパール作戦である。

 

日本側は八万の大軍をかき集め、インド内部の英軍の拠点インパールに向かい決死の大進撃。そこの英軍を壊滅させ自由インド州を打ち立てるために、インド国民軍7000をひきつれて。

 

しかしわずか4か月という短い期間に大部分の兵は戦闘でよりも病弊死してしまうという全く悲惨な結果に終わってしまった。おかげで頼みのインド国民軍も壊滅だ。

 

その間手薄になったビルマ北部の日本軍の守りをついて、スティルウェル将軍の率いる国民党正規軍と米軍・ビルマ部族合同ゲリラ隊はミチナを目指して大掛かりな攻勢に出た。

 

5月17日にはミチナ飛行場を占拠、5月18日にはミチナ市を包囲した。ところが、米中英インド混成部隊である連合側には恐れていた通りの少なからぬ混乱が生じた。おかげで中国軍が同士討ちをするという最悪のシナリオが発生。そうこうしているうち日本側に援軍が入ってしまうという事態をむかえて早期攻略はやむなく延期となってしまったそうだ。かくしてミチナ包囲は8月3日の陥落まで続くことになった。

 

ウォンロイ・チャン大尉は44年の一月早々から情報将校として再前線に配置されていた。

1943年の10月にビルマ侵攻が始まって以来、日本兵捕虜からの軍事情報は喉から手が出るほど欲しかった。

中国軍から捕虜が出たという知らせが届く度に、それっとばかり、非常な危険を冒して現場に急ぐのだが常に空ぶり。というのは、中国軍の言い訳はいつも同じ。逃げようとしたからやむなく撃ち殺さざるを得なかったというわけだ。日本兵は捕虜になるくらいなら敵兵に撃たれて死を選ぶのだという。

この説明の中にどれほどの真実が含まれているのか著者は疑問に思っていた。

というのは怪しいものは先ず撃ってそれから尋問というのが中国兵のやりかただったからだ。

捕虜から得られる情報で味方の命が救われると説得してもまったく埒があかない。ついには、蒋介石総統に訴え、捕虜を絶対に生きておかすように、という御通達を出して貰ってやっと日本兵捕虜を得ることが出来るようになったそうだ。

 

その効果があって、12月24日に最初の日本兵捕虜を尋問することができたのだが、期待に反して、「あたまが鈍すぎて」ぜんぜん使い物にならない、とか。それでも明らかに重症な傷病兵であったので米軍の捕虜取り扱い規則に従い何よりも最初に病院に送って手当てをさせたと述べている。

 

著書にとっては、情報収集の為に最前線の中国軍部隊を訪れることは命がけであった。小柄な著者のグリーンの制服姿は少し遠くから見ると日本軍と見分けがつかない。案の定中国軍の要所に近ずくと、すぐどこからか弾が飛んでくる。慌てて地に頭を伏して、出来る限りのうまい発音の北京語で、「米軍だ、撃たないでくれ!」と怒鳴るのだそうだ。するとかなり間をおいて、北京語で、「止まれ、動くな!」という声が返ってくる。著者としては、もう地に伏したまま動けるような状態ではないので冷や汗を出しながらひたすら相手の出方を待つよりしか方法はない。かなりの間を置いてやっと「来い!」という命令が出されるのだ。それでゆっくりと立ち上がり、銃を頭上高く両手でかかげてゆっくりと前進していくのだそうだ。その間恐怖で生きた心地もしなかったという。 

 

中国兵からは日本兵に間違えられるわ、日本兵からは間違いなく米兵だと撃たれるのわ、本当に割があわない。危険な場所に向かう都度必ず“リパブリック賛歌”を口ずさむことが習慣となっていた。

 

『おたまじゃくしはカエルのこ、なまずのマゴではありません』

とか、『権兵衛さんの赤ちゃんが風ひいた』

と幼稚園でうたった童謡を覚えているだろうか?あの歌こそ実は“リパブリック賛歌”のメロディーの見事なパクリなのだ。

もとはと言えば、この唄は南北戦争中の北軍兵士の愛唱歌であった。

 

ハレルヤ!神に栄光あれ

神に命じられた正しいことをしているのだ、と自分にひたすら言い聞かせて恐怖心に打ち勝つことが出来たというから、著者の苦労も並大抵のものではなかったはずだ。

 

また著者は最前線の情報将校であったので、日系通訳兵士と一緒になることが多かった。当然本の中には日系兵士の名もたくさん出てくるのだ。前述のヒラバヤシ軍曹や、日本できわめて著名なカール・ヨネダ氏の名も出てくる。この人は戦前は米共産党員として米西海岸で労働組合を組織していたという特異な経歴の持ち主であった。自著の中で、慰安婦リポートの作者ヨリチ軍曹とは陸軍通訳学校のルームメートであり、ビルマでも極めて親しかったということを書いている。

 

著者ウォンロイ・チャン大尉によるヨリチ軍曹についての言及は一切無い。

 

しかし、著者は米国内の敵国民収容所から自ら志願しビルマに送られてきた日系兵士達について賞賛の声を惜しまない。特に、ビルマ戦線で有名を馳せたメリル大佐が率いるメイル遊撃隊というジャングルでのゲリラ戦や先行攻撃専門の部隊に配置された日系兵士達は単なる通訳であるにもかかわらず、敵味方から狙い撃ちにされるという危険に会いながらも実際に戦闘に参加し多くの素晴らしい功績を挙げたと述べていた。

 

著者の任務には毎日朝と夕方に偵察機に乗り込んでミチナ上空を徘徊して敵の情勢を探ることも含まれていた。ミチナ飛行場を爆撃中のゼロ戦飛行隊に遭遇することも珍しくなかった。そういう時は上空高くに舞い上がって高みの見物をしながら空中爆撃が終わるまで待つのだそうだ。

 

ウォンロイ・チャン大尉は大ボスであるスティルウェル将軍から気に入られていた。彼の情報将校としての仕事ぶりに将軍は非常に満足していたからだ。だから、赴任期間が終わる頃、将軍からビルマに残らないかと勧誘された。ミチナは陥落したけれどもビルマ戦線はまだ終局を迎えてはいなかった。将軍の配下に残れば少佐に昇進という約束までしてくれた。

しかし、著者をそれをあっさり断った。

ビルマに到着してから丸二年、戦闘中でもあり約束された休暇も返上して頑張ってきた。ジャングルの熱気と湿気に多数の兵士達は病に倒れた。雨期のジャングルは泥の海と化しマラリア蚊が猛威を振るう。著者自身も高熱と寒気におそわれ寝込んでしまったこともあった。

 

もうこれで一市民としての戦闘義務を果たした、彼の任務は他によって引き継がれるべきだ、ともかくアメリカ内地に帰りたい、というのが著者のいつわらざる本音だった。実は婚約者が彼の帰りを待っていたのだ。

 

だが運命とは皮肉なものだ。彼の転任を待たずに当のスティルウェル将軍がルーズベルト大統領によって左遷されてしまったのだ。理由は蒋介石との不仲であった。

 

もし、スティルウェル将軍がビルマに残っていたら、中国の歴史は変わっていた、国民党軍が共産党軍に勝利し、従って朝鮮戦争も起こらなかった、という説を唱える人もいるのだが、この偉大な将軍は戦後すぐに胃癌で亡くなっている。

 

著者のビルマ後の新しい赴任先は、オクラホマ州の陸軍砲兵学校であった。

確かに予備役としては砲兵隊将校であったが実際は情報将校であるからいまさら砲兵隊にといわれて著者もかなり困惑したらしい。しかしとにかく与えられた任務を一生懸命にやるつもりでいたところ、あのスティルウェル将軍が砲兵学校をカルホルニアからはるばる訪問することになった。

罷免されてもなお、彼はビルマ戦線の英雄であることに変わりは無い。地元ではものすごい歓迎振りだった。さて、著者のウォンロイ・チャン大尉もかって将軍の側近として共に戦った兵士である。だから将軍と再開の握手をしている著書の写真が陸軍関係の新聞にでかでかと載せられたのも当然といえば当然。

 

見出しは

「おう、チャン、元気でやっておるか?再開できて何よりだ」というスティルウェル将軍の開口一番、となっている。

 

しかし事実は新聞記事とは大違い。実はその時スティルウェル将軍は開口一番、

「チャン、こんなところで一体何しとる?ここはお前のような者のいるところじゃないぞ。」と言ったそうだ。それから一週間後に著者は首都ワシントンDCに転任命令を貰った。そこで再び情報将校に返り咲き大佐として退職するまで勤め挙げた。

 

この本は今や絶版となっている。しかし、本の内容はビルマ戦線に関連する英文記事に数多く引用されている。

この本の日本語訳はない。

米には戦史ファンが多い。ビルマ戦線に関してもかなり多数の本が出版されている。

ある研究家の中にはミチナ速攻の失敗?をスティルウェル将軍の情報が不正確で敵の人数を少なめに見積もったことに原因があったということを言い出した人も現れている。この本の目的はどうやらそういった批判に反論し自らの汚名をそそぐ為であるようである。

 

しかしこの本は決して読み易いとは言いがたい。拙者の最初の印象は本の半分は著者の関連した人物の名で埋め尽くされている、というものだった。それほど人の名が多いのだ。それにビルマ戦線の知識が全く無い拙者には戦闘の部分はちんぷんかんぷん。しかし、その後のリサーチで、著者の残した人名リストはミチナ攻防戦を多少なりとも理解する上での手がかりとして非常に役立ったということを述べておこう。

 

本全体を通して感じられるのは著者の誠実さと成熟した人柄である。

一言でいえば、細かいところにとらわれることなく大きな見取り図を描くことのできる人だという印象を受けた。こういうタイプの人はなぜか中国人に多いように感じられる。

 

グーグルで検索すると、著者は1999年に84歳を持ってすでに鬼籍に入っておられた。

Burma : Untold Story ビルマの慰安婦

 

Burma: The Untold Story

Burma: The Untold Story

 

 

 米軍情報局による『捕虜尋問リポートNo. 49』というのがある。

 

これはビルマのミチナ市陥落直後に連合国側の捕虜となった20名の韓国人慰安婦に対して行われた尋問報告である。

彼女らは comfort girls と呼ばれていた。

 

なを、日本語ではミートキーナ=Myitkyinaと表記されているが、ミチナ又はミチーナという発音が近いそうだ。GI達はミッチと呼んでいた。

 

原文は非常に平易簡明な英文で書かれている。このリポートの筆者がニセイ(=二世)通訳軍曹(T/3 )のアレックス・ヨリチ氏であったことから、これは故意 に米人向けにていねいに分かり易くしたものだろうか、と拙者などはつい邪推してしまうのだ。

 

しかし日本ではこのリポート解釈に問題があるようだ。

 

よく知られているようにこのリポートは

“ Japanese comfort women deniers”(=慰安婦否定者) の聖典となっているのだ。

 

もっとも有名な一例をあげれば、

A comfort girl is nothing more than a prostitute or “professional camp follower” 

attached to the Japanese Army

というくだりだろう。

 

はじめの部分は、「comfort  girl (=慰安婦)とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかない」、となってしまうで、これは慰安婦がただの売春婦である証拠と、秦氏をはじめとする慰安婦の存在否定派が言い張っていたのはよく知られている。しかし全文訳は、

「慰安婦とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかないが日本陸軍に付属している」となる。

要は、日本陸軍は売春婦を連れた軍隊である!、ということを言いたかったのだ

誤解してはならないのは、これはヨリチ氏の個人的見解というよりも、単に当時の米軍側の一般的見解を反映したものに過ぎないということだ。

 

Won-Loy  Chan による“Burma ,Untold Story”にもこの見解はきわめて明らである。ミチナ包囲戦での情報担当将校だった著者は、うわさでは日本軍の慰安婦のことを知っていたのだが、実際にミチナで彼女らに遭遇した時にはとても信じられなかったそうだ。

報告にやって来た通訳の二世兵士グラント・ヒラバヤシも

“Captain! you aren’t gonna believe this, but I’ve got twenty female , I think Korean”

『大尉!こりゃ、とても信じられんだろうが20人の女性が捕虜となって来ています、どうやら朝鮮人らしい』

と、著者と同様にまったくのオドロキモモノキだったという。

 

ところでこのリポートの対象となった20人の韓国人慰安婦達の写真は今日世界的に有名となっている。吉見義明氏の『従軍慰安婦』の英語版の表紙にも使われている。これはビルマのミチナで捕獲直後に撮影されたものである。

 

この写真で慰安婦達と一緒に写っているのが東洋系の米軍兵士達である。

その最前列の兵士がミチナ攻略の情報将校であったウォンロイ・チャン大尉、それから3人のニセイ(日系)軍曹達である。その中には前述のグラント・ヒラバヤシ軍曹も入っている。

 

この中国系のWon-Loy  Chan (=ウォンロイ・チャン大尉)は戦後も陸軍に残り1968年に陸軍大佐として退役している。1986年にはミチナ攻略の回想録を

“Burma ,Untold Story”『ビルマ、語られざるストーリー』というタイトルで出版した。

 

この本の中にミチナの韓国人慰安婦との邂逅の部分が含まれているということがネットで紹介されていた。それで拙者はこの本全体を読ませていただくことにあいなった。

 

著者 Won-Loy  Chan は米国に移民した中国系二世である。

彼は1914年オレゴン州に生まれた。その当時両親は北欧系移民地域で雑貨商を営んでいた。非常に勉強熱心で、父に従って広東語の読み書きをマスターし、名門スタンフォード大を卒業、法科大学院に進学したのだが、長兄の死により一時的にオレゴンに帰り、両親の店を手伝うことになった。

 

彼は大学時代にROTC(予備役将校訓練)に入隊、卒業と同時に陸軍砲兵将校予備役に編入されていたのだが、太平洋戦争開始で現役として召集された。当時著者は27歳、独身であった。

しかし最終的に著者が送られた先が MISLS(=米軍情報局言語学校)。そこで約10か月間日本語をみっちり習わされた。

 

どういうわけか卒業を待たずに海外派遣の命令が出て12月14日には サンフランシスコを米軍に接収されていた元フランス豪華客船『イル・ド・フランス』号で出航。しかし船上第一日目に突然全員に北京官話を習得するようにと軍の命令が下された。

彼らもはっきりとした行く先を知らされていなかったらしく、著者は両親の祖国である中国かと胸ワクワク。

さっそく一行の中から中国語のエール大学博士号を所持する米軍人が出てきて毎日3時間の講義をしたので彼は必死になって北京語習得に努めた。

翌年の1月14日、船は南インドのボンベイに到着、そこで初めて行く先が明らかにされた。インド北部のラムガルー。何と、今や伝説上の人物となったスティルウェル将軍の指揮下へ。

 

このスティルウェル将軍(=General Joseph W. Stillwell)は米側の

CBI(=China- Burma- India Theatre of Operations)=ビルマ戦線、の総指揮官であった。

実は第二次世界大戦は3つの Theatre=戦線、で展開されている。ヨーロッパ、太平洋、そしてこのCBIであった。

恥ずかしながら、拙者はこれを知らなかった。

著者も指摘しているように、CBIは今日では忘れられた戦線となってしまっているそうだ。

本来ならば、このスティルウェル将軍は歴史上アイゼンハワー、マッカーサーと肩を並べる存在であるはずだったという。

 

スティルウェル将軍は“ビネガージョー”と呼ばれるくらい辛辣なものの言い方をする人として知られていた。その為敵も多く退役するしか道がないというところま追い詰められていたのだが、この人も大戦の勃発によって運命が変わった一人だった。彼の戦場指揮官としての才能を高く買っていた上官によってビルマに進軍した蒋介石の国民党軍の指揮官に抜擢されたのだった。

このスティルウェル将軍は中国語が達者の上、日本通でもあった。

 

ところが1942年、彼がビルマに到着するやいなや、日本軍のビルマ侵攻に遭遇。中国軍と共に険しい山岳地帯を徒歩で越え命からがらインドに逃げ込んだのだ。

1943年の初めにウォンロイ・チャン大尉が到着した頃にはインド北部でビルマ奪回の計画を練っている最中だった。

元々日本軍のビルマ侵攻は蒋介石への援助ルート切断が目的であったが、英軍がインドに敗退した後は、ヒマラヤ山越えの空輸というい手段が残されるのみであった。著者によれば、輸送機が墜落することも稀ではなく、乗務員はパラシュートでジャングルに落下という事も度々起こったそうだ。

 

スティルウェル将軍は日本軍を駆逐しインド・ビルマ・中国の援蒋ルートを再開する計画を立てていた。そのルート上に位置するミチナは日本軍の要所であり、ミチナを奪回すればルート再開は容易だと見ていた。

 

しかしミチナの日本軍は中国で転戦をかさねた精悦部隊(菊部隊)として米軍にさえもよく知られた勇猛果敢を売り物とする博多出身の部隊だった。

それに対する中国部隊は、ウォンロイ・チャン大尉によれば、ほぼ全員が北京語を話すが、読み書きは全くだめ。だから命令伝達は北京語のみ。情報を集める為には敵の文書がいるのだが彼らにとっては便所紙。

捕虜と文書を中国軍から得ることはまず無理な相談で、それよりも歯を抜くことの方がよほど易しい、というのが著者の率直な評価であった。

やたらめったらに発砲し、一旦塹壕に逃げ込むと出てこさせることは至難の業だとかで、とにかく悪評ぷんぷんの軍隊だった。

 

しかし中国通のスティルウェル将軍は、食料を十分与え医療体制を整え給料をきちんと払うなどして中国軍を人間的に扱うなら、武器と訓練で彼らは日本軍を打ち負かす強い軍隊に成る、という堅固な信条を持っていた。

これに関しては、後になって将軍の主張の正しさが証明された、と著者は書いている。

 

実際、NHKで放映されたビルマ北部に配属された菊部隊についての特集によると、彼らは自分達を攻撃しているのが中国で散々にやっつけたはずの国民党軍である事を知って大ショックを受けたそうだ。しかも、敵兵はあの同じ国民党軍とは全く思えないほど強かった、とある元兵士は述懐していた。

 

 

ウォンロイ・チャン大尉のスティルウェル将軍についての印象は、典型的なアメリカの好好爺だそうだ。いつもよれよれの野戦服姿でいっさいの飾りリボンや位階を表す記章をつけず、アタマには中国国民党軍の野戦帽をかぶっていた。いつもこの格好で一般兵士と共に列に並んでおせじにもおいしいとは言えない戦闘食を受け取り皆と一緒に食べていた。

 

ある時、たまたま話し相手になった軍曹に、ところで何であんたみたいな年寄りがこんな最前線の部隊にいるんだ、と尋ねれられたという笑えない冗談まで残っている