chuka's diary

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A town like Alice : 日本軍の捕囚達


A Town Like Alice Trailer 1981

  You Tube  を勝手気ままに検索していたら昔なつかしいTVミニシリーズを見つけた。

その名は“ A town like Alice”、日本語訳は『アリスのような町』。

原作は1950年出版となっている。

作者は英国人のNevil Shute ネビル・シュート。彼による他の作品、『渚にて』と『パイドパイパー』の二作については早くから日本語訳が出版されているのだが、、、、

 

原作は1956年にイギリスで映画化され大ヒット、その年のカンヌ国際映画祭に出品されるはずだった。しかしこの映画は少なからぬ問題をまきおこした。

それがもとでこの映画の出品は開催間際になってドタキャンだ。

主人公を演じた名優ピーター・フィンチはすでにカンヌに乗り込んでいたのだが、カンヌが何だ!と憤慨やるかたなし。

 

日本語ネット上では日本政府の抗議が原因だという一点張りなのだが、不思議な事に英語界では事情がかなり違う。

当時日本政府は抗議した覚えはない、とまで言っていた。一体どうういうことなのだろうか?

どうやら真相はイギリス側が自主規制を行ったということらしい。理由は、相手国側を不快に陥れるような映画を出品してはならない、というカンヌ映画祭りの原則に従ったというのだそうだ。

 

それにもかかわらずこの映画は目立たないようにしてカンヌで上映された。

当時のニュース記事のクリップには、カンヌを訪れた匿名希望のある日本女優の、この映画を見て涙を流さずにはいられなかった、という感想が報告されていた。

 

それから24年も経った1980年には英BBCがオーストラリアTVと組み超ミニシリーズ(連ドラ)と銘打ってリメイクだ。

今度は、英国(スコットランド)、マレーシア、オーストラリアと3国に渡って大掛かりな海外ロケをおこない、原作をかなり忠実にドラマ化したのでのべ5時間に渡る超大作。

これが放送されるとたちまち世界中で大ヒット。

おかげでオーストラリアの一介の俳優にしか過ぎなかったBryan Brown は一夜明ければ国際級大スターだ。

 

私が昔見たのもこのTVミニ・シリーズの再放送であったのだが、全部は見ていなかった。今回はじめて最初から最後まで見ることができてマンゾクこの上ない。

それでことのついでに原作も読んだ。おまけとしてやはりYou Tubeに載せられていた、かのいわくつき映画の方も見てしまった。

 

作者の方は1960年に亡くなってしまい、彼の著作の多くは忘れ去られようとしているのだが、この本だけは60年後の今日に至るまで世界中で愛読され続けている。まことに作者冥利に尽きる話だ。

 

しかしそう手放しで喜んでばかりはいられないのは日本側だろう。

 

この本の日本語訳は2000年になって出版されたのだが、何と素人の翻訳で日本図書刊行会という、本を出版したい人を相手にする出版社からだそうだ。

 

前回に書いた『竹の森遠く』と同じく、この作品には“戦争を知りたくない日本人”にとってまことに不都合な内容が含まれているせいだろう、君子危うきに近寄らず、といったところか。

 

ところで、Amazon  Japan の読者レビューはゼロ。果たして日本語訳を読んだ人はいるのだろうか?と思ってしまう。

 

 

ストーリーはある年老いたロンドンの弁護士によって語られている。

 

話は第二次大戦前にさかのぼる。彼がスコットランドの山奥のホテルで引きこもり生活を送っていた富裕なスコットランド人独身男の遺言を依頼されたのがはじまりだった。

そもそもこの男の金は事業で大儲けした父親から相続したもの。金さえあれば引きこもりなぞなんのその、さすが英国の階級社会だ。

 

さて、戦争のどさくさでこの顧客のことなどすっかり忘れていたところ、彼がついの住みかにしていたホテルの主人からこの客の突然の死を知らされた。

 

戦前、この顧客は自分の資産のすべてを彼のただ一人の妹に、妹が亡くなっている場合は妹の息子、つまり彼の甥に、甥が亡くなっている場合は妹の娘である姪に、ただし女だから35歳まで弁護士の後見つき、と遺言していたのだった。

 

老弁護士は早速相続人である顧客の妹をの行方を探した。ところが彼女はロンドン空襲中、避難先の防空壕で心臓発作をおこしてすでに亡くなっていた。彼女の息子の方は英領マラヤのプランテーション経営会社の社員であったが戦争中英軍将校として日本軍の捕虜となり、あの悪名高いタイ・ビルマ鉄道建設に狩り出され、そこで飢餓とマラリヤの為に亡くなっていた。

最終的相続人である姪のジーンはロンドン市内の高級靴・ハンドバッグ製造会社のタイピストとして働きながら小さな屋根裏部屋でひっそりと暮らしていた。

 

ジーンというありふれた名前のように、器量も頭もまったく平凡な小娘だった。

老弁護士の方としては、彼女のような世間知らずの小娘が大金を手にすることからくる数々のトラブルが事前に予想され、あまりありがたくない役目を負わされたと思っていた。

とにかく仕事上の役目から、たくさんの金をどういう風に使うつもりかね、と彼女に尋ねた。

ところが、彼女の口からは「私はまずマラヤに帰ってそこで井戸を掘りたい、世話になったマラヤの村に何か恩返しがしたい。」という全く予想外な返事が返ってきた。

老弁護士はこういった未婚の相続人にありがちな結婚トラブルも当然予想していたのだが、将来結婚するつもりはない、という年頃の若い娘には全く似つかわしくない言葉にも驚かされた。

 

後見人として彼女の相談相手をしているうちに、マラヤで日本軍の捕虜となったジーンの極めて凄惨な体験の一部始終を聞くことになってしまった。しかも聞き終わった時には何とこの老弁護士は年甲斐もなくすっかり彼女に恋してしまっていた。

 

マラヤの英国人達は日本軍が目前に現れるまで優雅な植民地生活にしがみついていた。クァラルンプールの兄の会社でタイピストをしていたジーンも当然そのおこぼれにあずかっていたわけだ。

 

ある日突然全員シンガポールに退避するようにという通達。しかし、子供連れの友人夫妻のことが心配で、まず彼らの屋敷を訪ねその家族共々退避する途中、マレー半島を迅速に下ってきた日本軍の捕虜となってしまったのだった。

男たちは捕虜収容所に、総勢31人の女性と子供達は日本兵三人に引きつられて、幻の女子収容所に向かって徒歩で行進を強制させられた。日本軍の与えた食料はすべて現地徴収。現地米の煮たものと魚のスープだった。たちまち疲労、飢餓、マラリヤ、下痢が一行を襲った。現地駐屯の日本軍には、女子の集団はやっかい荷物であった。あっち、こっちとひきずりまわされ、七か月ものホームレス生活で31人のうち半分が死んでしまうという惨状ぶりだった。

 

もともとジーンはマラヤで生まれマレー人のばあやに育てられたせいでマレー語が達者だった。

その上植民地育ちの人によく見られる異なるカルチュアの中で生きる知恵みたいなものが彼女には備わっていた。

そこで自国語以外は全く分からない日本兵達とマレー人との橋渡しとなった。また、日本兵との交渉も彼女が当たり、未婚で年下なのにもかかわらず一行のリーダー格となってしまっていた。

 

ある日ジーン達一行は日本軍のトラックを修理している二人の白人を遠くから見かけた。白人男性を見たのは何と二ヶ月ぶり、一行はおもわずトラックに向かって駆け出していた。

 

「クソ汚い小人(=Nip=日本人の俗称)にクソ汚い女達をどけるようにいってくれ。これじゃ日が遮られて見えやせんぞ!」というきわめて下品な英語が車体の下から響いた。

「そのような言葉使いはただちに止めなさい、そこの若い方!」と一行の中で教師をしていた年配女性がさっそく注意に及んだ。

男達二人にとっても本物の英語は、とくに女性のは、晴天の霹靂。ただちにトラックの車体の下から這い出し、集まった女達子供をしげしげと見回した、白人なのに皆褐色の肌をしてマラヤ人のような腰巻をつけしかも素足の女達。

「誰か英語が話せるか?」

「私たちは皆英国人ですよ。」とジーンが笑いながら答えた。その時彼女も腰巻姿、しかも褐色の裸の赤ちゃんをマレー女のように腰にかかえて運んでいた。 

 

“Dinky-die?” ( ホンマかいな?=オーストラリア方言)

同じ英語には違いないがジーンにも意味のわからない言葉だった。

 

「安心しな、俺たちは“オーシー”(俗語でオーストラリア人)だ。」

日本軍の捕虜となったオーストラリア兵達だった。

二人のうちのジョーと名乗ったこの男が、赤ちゃんずれのジーンに

“Mrs. Boong”というからかい半分のニックネームをつけた。

 

“Boong”というのは、オーストラリア人が現地先住民を呼ぶ俗称だそうだ。今日の標準からいえば、かなりクレームがつくのではないかと思われるが、この本は戦後の1950年に出版されたことを思えば無理もないだろう。意味としては、“土人の奥様”となるので、あまり感心はできない。

 

しかしジーンは男に未婚だとわかると面倒になると思い、『奥さん』と呼ばれることを否定しなかった。それどころか、自分から進んで夫は日本軍捕虜として連れて行かれたとウソまでついた。彼女がマレー人の様に腰に抱えていた赤ちゃんは実はこの行進の犠牲となった彼女の友人の忘れ形見だった。