chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

もう一人の ❝アンネ・フランク❞(2)

その日、ヘニークはキッチンで働いているミリーを呼び出した。二人きりになるとヘニークはまとまった金と彼の結婚指輪をミリーに手渡たそうとした。ところがミリーは仕事中二人きりでいることに気が気ではなかった。ナチに見つかれば二人とも銃殺だ。ミリーは最初断った。しかしヘニークが強く言い張ったので何かを感じてとにかく受け取った。これが彼との最後の逢瀬になった。

数日後にはナチがヘニークを含めた13人の警察官とその家族を逮捕し連行していった。ミリーは20フィート(=約7メートル)離れてそれを見ていた。目撃者側には、あのレノンバスキーもいた。その時ヘニークはレノンバスキーを恐ろしい形相でにらみつけ、「おまえがやったんだな、これは全部おまえのせいだ!」と言い放った。

連行されたヘニーク達一行の行方は戦後の捜索にも関わらず一切不明である。しかしどこかで殺されたことだけは確実とされている。

 

事はそれだけでは終わらなかった。次の日ミリーは逮捕された。密告したのは、あの憎きレノンバスキーについてやってきたゲットー警察官の一人、エルカナ・モルゲン。何とこの男は実はミリーの幼馴染の従兄弟でもあった。エルカナは、ミリーはヘニークの妻だからグリーンスパンだというのだ。グリーンスパンというのは、あの高炉監督のミラーに強姦された犠牲者の一人であったが、ミラーの犠牲者の多くは取り調べと称して逮捕された。エルカナの方はグリーンスパンに該当する名の少女全部を逮捕するという勇み足ぶり。これこそ犬根性丸出しだ。ところで連行されたSSの留置所で、ミリーはもう一人のグリーンスパンに出会った。彼女は、ミリーを見るなり、あんたのおかげで逮捕された!と怒鳴りつけたそうだ。この哀れな本物のグリーンスパンはその時妊娠していた。取り調べで顔を殴打され全部の歯が折れて落ち、その直後銃殺された。

ミリーは取り調べ室に連行され何も聞かれずただ皮手袋をしたSSの手で幾度もビンタを喰らわされ、誰にも言うなと口止めされて紫色に腫れた顔で宿舎に送り返された。

 

なんの事はない、ミラー事件で名が上げられた関係者、犠牲者の少女達やその友人、密告者等が全員逮捕された上殺されたのだ。そしてこの事件は一件落着。下手人ミラーが罰せられる事はなかった。それどころか、今度はミラーが手下のユダヤ人警察を使って密告者レノンバスキーを逮捕しようとした。それを素早く察したレノンバスキーは妻と共にいち早く逃亡。ところが、ナチの掟では、一人逃亡すると20人のユダヤ人が処刑されることになっていた。それで、20人のユダヤ人、残された妻の親戚一同と無関係のユダヤ人合わせて20人が捕まり処刑された。その中には彼の妻の実母がいた。銃口を目前に激しく泣きじゃくりながら、婿のレノンバスキーを呪い殺してやる、私の呪いを彼に伝えてくれ!と金切り声で叫んだのをミリーは目撃した。

 

終戦後新天地を求めて渡米し、子も出来てNYの貧民街のアパートで暮らしていた頃、何とあの憎いレノンバスキーが見つかった。アウシュビッツを生き残ったミリーの父がある日訪ねてきて、レノンバスキーを見かけたと報告。父は当時NY市の縫製服地区で働いていたのだが、名前こそ違っていたがあれはレノンバスキーと妻に間違いないというのだ。ミリーの心の底では彼に対する怒りと憎しみがじっと生きていた。

ダッハウ収容所の数少ない生き残りの一人だった夫をはじめ、ユダヤ人同胞達はレノンバスキーもナチの犠牲者に過ぎないのだというのだが、ミリーにはどうしてもそれが納得できなかった。

いくら同じホロコーストの犠牲者だからといっても、レノンバスキーは自分勝手な行為で何人もの人が巻き添えになって犠牲になるのを知っていたはずだ。ミリーにとってかけがえのないヘニークはこの男に殺されたのだ。

 

ミリーはまず、連邦移民局に出向き、当時ほとんど英語が話せなかったのにもかかわらず、レノンバスキー夫妻は戦争犯罪人であり、偽名を使って違法入国している、と告発したのだが、そこの役人達は戦争犯罪はともかく、違法入国であれば、ぜひ、何らかの証拠を持って来るように、と親切に説明したそうだ。

 

それでもミリーは一レノンバスキーに対する報復を止めなかった。この話がユダヤ人達の間に広まり、ある晩、レノンバスキーの妻がアパートにこっそり訪ねてきた。彼女はどうか私達にこれ以上面倒を起こさないでくれ、とミリーに頼み込んだ。「戦争は終わった、すべては過去の事だ」と。

その時ミリーにはレノンバスキー達をアメリカから追い出すことは出来ないことはわかっていた。しかし悔しさのあまり、『あんたの母の殺される前の最後の言葉は、あんたを呪い殺してやる、あんたが生きている限りあんたには絶対に心の平安はない、だ』と言ってやったそうだ。

 

ミリーは今でもこのことを後悔していない。ヘニーク、母、兄、をはじめユダヤ人犠牲者達は皆沈黙したまま。だから、ミリーにとって怒りを口に出すことは死者達を代弁することであり、ある程度の満足感すら感じたという。

 

1995年、ミリーは終戦50周年を記念する行事にドイツのアンネ・フランク・ハイスクールに招かれた。この高校のあるリップシュタット市には、ミリーが終戦まで強制労働させられた弾薬工場があった。この高校の生徒達は、リップシュタット市に残され荒れ果てたユダヤ人墓地の清掃をした。この市のユダヤ人達は1938年に全員市から消滅していた。しかしそこには1945年に埋められた赤ん坊の墓があったのだ。この赤ん坊は、ここに作られた弾薬工場で強制労働させられた夫婦の赤ん坊であったという事実が判明。

それまで、この市では、誰もミリー達のラドム兵器労働者の生き残りがアウシュビッツから輸送され働かされた弾薬工場のことを口に出す人すらいなかった。

ミリーはこの弾薬工場の生存者の一人として、ドイツまで招かれてスピーチを頼まれた。

 

『私は皆さんを非難する目的でやって来たのじゃない。皆さんは若い、私は皆さんを批判するつもりはない。しかし、皆さんが本当に真実を知りたいならば、歴史の本からじゃなく、皆さんの両親に聞いて欲しい。お父さんに、お祖父さんに。あの時何をしていたのですか?ドイツ人達は皆、あの頃はロシアと戦っていてそんなことは知らなかった、ユダヤ人に対する仕打ちには全く関係していなかった、というかも知れない。もちろんそんなことは本当であるわけないでしょう。皆さんがたの中のあるお祖父さん達は人殺しです。お祖父さんだけじゃなく、お祖母さんも。女の方がもっと残酷な場合があるのです。皆さんのお祖父さん達に、興味があるからぜひ教えて欲しい、と尋ねなさい、戦争中にしたこと、知っていること。おそらくお祖父さんやお祖母さんは皆さんには言わないでしょうが、皆さんは尋ねるべきです、というのは、皆さんは祖父さんや祖母さんが人殺しだったかどうか知るべきなのです。』

 

この時、ミリーはこれまで秘めて来た胸の内を初めてドイツ人に明かすことが出来て心がスカッとしたそうだ。ユダヤ人のことを彼らは過去の出来事として歴史の中に消そうとしていることを知っているからだ。もちろん、彼女一家を招いてくれたドイツ人達の寛容さには感謝していた。その時、ドイツ人達が彼女の怒りの言葉を熱心に聴いていたことが深く印象に残っている、とミリー。

 

ミリーはもはや神を素直に信じることはできない。

渡米してから数年後、あるラバイが神を褒め称えて、神がすべてに宿る、ここにも、世界中どこにでも、たとえ、ゲットーの中にも、というのを聞いて、ミリーは礼拝場から無言で歩き去った。

あるラバイの言葉、

『どうしてホロコーストのような悲劇が起こったのか、その答えは私には分からない』、というのが真実だ、と思っているからだ。

 

ところで、どうやってミリーは二つのリングと一枚の写真を持ち続けることが出来たのか不思議に思う読者も多いはずだ。ミリーもあのアウシュビッツで素っ裸になってドイツ兵の前を走らなければならなかったのだ。それまで持っていた所持品はすべて残していかなければならなかった。実は指輪に関しては全く見知らぬ女の人が親切にも何と膣に隠してくれたのだ。二人の記念写真は、ラドムの工場から一緒だった母の妹ミマが皮製の短足ブーツの底に隠してくれた。ミマは短ブーツをはいたままで知らんぷりしてドイツ軍の前を素っ裸で行進したという勇気の持ち主だった。この叔母が一緒でなければミリーはおそらくアウシュビッツを生き残ることは出来なかっただろう。二人はアウシュビッツで一体となって生き残る為に知恵をしぼった。写真やリングを隠したミマのブーツは食器用のカップを詰め込んで二人向き合って片足ずつ抱えて眠った、盗難を防ぐ為にだ。それらが盗まれるとあの水のようなスープも貰えなくなってしまう。

 

実は、ここでは触れなかったのだが、ミリーがホロコーストを生き残ることができたのは人々の思いがけない善意のおかげでもあったのだ。ナチを恐れてその片棒を担ぐ人が出て来たのは当然だろうが、人々には本能的ともいえるような善意が備わっているようだ。ミリーは幾度も殺されそうになったのだが、それらの人々のとっさの善意のおかげで生き残ることができた。たとえば、ミリーの結婚指輪を隠してくれた全く見知らぬ女性。間違って鉄板に穴を空けたのをそっと見逃してくれたポーランド人工場監督、キッチンが統合されてミリー達余分な働き手が収容所送りになった時に、咄嗟に床板をはいで彼女を床下に隠した叔母ミマの夫、こっそり自分のサンドイッチをくれたドイツ人の政治犯等々。

ミリーにとってへニークもそういった善意の人達の一人だった。

彼がミリーの手に無理やり押し付けた金で、へニークが去った後に工場の元の仕事場に戻らされたミリーはもっと条件のよい仕事を買うことができた。

ミリーにはそういった親切な人々の存在が全く忘れられてしまっていることが耐えられない。特に、彼女が愛したへニークも、自分の家族を与えられる機会も奪われ、彼の存在自体が全く忘れ去れようとしている。ミリーはユダヤ人警察官でありながら皆に対して親切で思いやりのあったヘニークのことをこの本を通して是非全世界に知って欲しい、

とエピローグで述べていた。

 

ミリーとヘニークの残された写真と指輪を見たい人は、英語のタイトル、

two rings : a story of love and war 、で検索して下さい。すぐ出てきます。