chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

逆説の日本教と戦争責任

下は、元ヤフーブロガーのmop**srさんのブログ記事、山本七平氏の日本教について、の拙コメントです。
https://ameblo.jp/polymorph86/entry-12503812085.html
 
 
 
 日本では1960年代頃から日本人及び文化の孤立性にネガティブに焦点をあてた‟日本人論”がさかんになっていた。それには高度経済成長、円の自由化(それまでは戦後いらい1ドル=360円に公定だったのが自由化で200円に落ちた)、結果として安い海外旅行の一般化、が背景にある。70年代のヨーロッパには日本からの大量の放浪者が滞在していた。当時アメリカではコーヒーの値段が高くで50セントだがお代わりフリー、ただし水のように薄かった。日本では70-100円どまり、フランスでは一杯約60円で例のクリーム無しの真っ黒けのコーヒーがカフェで飲めた。それに他国の物価は驚くほど安かった。確かにこの時点で戦後はとっくに終わっていたと言えるだろう。
 
山本七平の『日本人とユダヤ人』もその一例だと思っていた。しかし1970年に出たこの本は日本人の正反対像となった和製‟ユダヤ人”ブームまで引き起こしたのだ。山本氏の社会への影響は今日に至るまでユダヤ人陰謀説などのように長く尾を引いているようだ。
 
拙者もこの本を読んだ一人だが、当時の感想としてかなりオーバー過ぎると思った。が結構おもしろく読めたことを記憶している。
 
今では山本七平氏がユダヤ人・イザヤペンダサンとして華々しくデビューした70年の頃を口に出す人はあまりいない。当時、インテリ、学生達の総左傾化が起こったのだがあの時期の流行語は『主体性』であった。それまでは階級闘争から革命への流れは歴史的必然、というのが共産党をはじめ当時の左翼理論家のドグマであったのだが、共産党が学生運動のヘゲモニーを失った60年安保を境に型通りのマルクス史観は通用しなくなった。
‟主体性”を掲げる団塊世代にはマルクス主義も革命も個人的選択の一つになってしまったからだ。だから山本七平も大学闘争時代の日本社会の‟空気”をしっかり吸い込んでいたのだ。彼の内なる‟日本教”は『主体性』に欠けるネガティブな‟日本人像”に他ならない。
 
 『日本人とユダヤ人』では訳者山本七平氏は当時日本では珍しい旧約聖書の研究家として紹介されていた。だが、これもつい最近知ったことだが、どうやらこの本をはじめ彼の一連の日本教及び日本人論は氏の凄絶な‟戦争トラウマ”の‟カタルシス”が根底にあるように思えてならない。
 
山本七平によると‟日本教”にはユダヤ教のような確固とした教義が存在しない。
その場その場の‟空気”を読むことが教義の代替えになり、論理性に欠ける‟空体語”をいとも容易に受け入れてしまう下地となっている。
これには膠着語系に属する日本語の特殊構造が大きく貢献しているとかで、日本教のみならず日本語まで手厳しい批判のターゲットにされている。その反対は英仏独に代表される西洋語=合理語(?)となっている。元来ヨーロッパの2大言語系は、ドイツとラテンである。現代英語は先の二つの言語の混合が英語としてエリザベス一世の頃までに成立した。文化習慣にもラテン系とドイツ系には大きな違いがありこれらの二つの言語のみに合理的発想が内在しているとも言い難い。また、日本語のように極度に地域化した言語系は世界中で今も健在であり、そういった孤立言語系が論理性に欠けるという説はいまだに言語学者側からは出ていない。英語が世界語になってしまったのは論理性ではなく英国植民地の拡大という政治的原因からなのだ。
 
この‟日本教”と正反対なのが、一神教の教義で身を固めたユダヤ教、ついてはユダヤ教を土台としたキリスト教、イスラム教だと山本氏は主張しているのだが本当だろうか?
 
一般的にキリスト教・ユダヤ教・イスラム教は ‟一神教” という共通項にくくられている。しかし信仰としてはそれぞれが全く違うしろものだ。もともとキリスト教は新約に記された主イエスの奇跡の数々が信仰の礎となって伝道によりヨーロッパ全域に広まった。だから西洋合理主義はキリスト教が根底にある、と21世紀になっても信じている人が日本にはいまだに多いが、逆にヨーロッパ近代はキリスト教のくびきを絶つことからはじまったという見方が歴史的には広く受け入れられている。
 
キリスト教の一神教の教義は三位一体である。
神の主体は一つであるが、神格は3つ。ユダヤ教から受け継いだ唯一神、救世主イエス、聖霊という3つの違う神格が一つの神を構成している、という複雑で神秘な唯一神教がキリスト教による教義である。当初から奇跡を信じる信徒達にはこの方がより有難かった。
しかし、この三位一体は新約のイエスの言葉には出てこない。イエスの死後100年以上もたって聖職者会議で決定され、これ以外の説を持つキリスト教会は異端とされ迫害の為に消滅を余儀なくされた。
 
なぜクリスチャンに生まれ育った山本七平氏は三位一体のキリスト教でなくユダヤ教で日本批判をしたのか?
私には最初から非常に不思議に思えた。
 
旧約の有名なモーセの十戒はキリスト教にも共有されている一神教の原則である。
#1はユダヤ人の祖アブラハムと彼の子孫の神のみを崇める。#2はカナン人達のような偶像崇拝の絶対禁止である。
旧約のモーセの出エジプト記は、今日では旧約の中でもっとも古い記述ではないかという説が有力になっている。神の名がYHWHという子音4文字で初めてモーセに神みずから伝えらられた。それまでは神は名もなく姿もない絶対唯一の天の存在だった。羊のバーベキューをして匂いや煙を天に送り神に気に入って貰えることは司祭達の重要な職務だったのだ。
ところがモーセに従って砂漠を彷徨していたユダヤ人達がモーセの留守中に偶像崇拝に傾倒してしまい神の命で違反者は全員殺された。それで旧約の神は怒りの神と性格ずけられている。
 
今日でもユダヤ教を棄教すると殺されなくとも死んだ者として村八分にされる。だから日本だけが村八分の本家ではないのである。むしろ唯一神教の特徴となっている。
 
旧約の一般的な解釈では、ユダヤ人及びユダヤ教の創始者はアブラハムという遊牧民の族長であった。アブラハムの人々はカナン(パレスチナ)人ではなく遠くメソポタミア(イラク)からやってきた異邦人である。彼の崇める神は名もなく形も無い唯一神、今日のイスラム教の神はこれを模している。この神のみを崇め絶対服従することでカナンの地をアブラハム、つまりユダヤ人の子孫で満ち満ちさせる、と神が約束されたというのがユダヤ教の教義の根本なのだ。
 
しかし、カナンの原住民側にとってはトンデモ災難。もともとカナンは地中海の交易ルートとして海岸沿いには城塞都市が並びかなり繁栄していたと見られている。時期はBC1500頃と推定されている。しかし内陸部は水の乏しい荒れ地で遊牧民の場となっていたらしい。21世紀に入り、旧約の神を示す古代ヘブライ語=イスラエルの‟エル”、がカナンの原住民のリーダー神の名であったことが確定され、ユダヤ教はどの時点で他の神々を切り捨て唯一神教に早変わりしてしまったのか?が現在の議論の焦点となっている。いずれにせよ、考古学的な証拠待ちの状態だ。
だから、多神教とされる‟日本教”の方が極めて自然であり、日本では唯一神教に特有な一つの特定宗教による他宗教の物理的排除が起こらなかったと考えた方が理にかなう。
 
しかしこれはキリスト教を除いての話である。
 
日本のクリスチャン達は鎖国と前後して古代ローマ並の大迫害を受け絶滅してしまった。理由はモーセの十戒#1のように他の神の崇拝拒否である。どうやら地の利とキリスト教の大分裂という歴史の流れが日本のクリスチャン信仰を見殺しにしてしまったようだ。
 
現代日本のクリスチャンを日本教キリスト派と山本氏は皮肉っているが、その中の一人が彼自身である事は忘れてしまっている。
戦時下の日本のプロテスタント教会は戦争に協力することになり、キリスト教会の大政翼賛会として日本基督教団を結成した。これは現人神天皇の崇拝であり、クリスチャンとしてはあり得ない事だ。しかし、山本七平氏は迫害を恐れるあまりクリスチャンである事をひた隠しながらも、自分はクリスチャンだという意識から一般の兵士達とは一線を画し、戦争を奇跡的に生き残ったのだそうだ。
 
クリスチャンと自称しながら信仰を守れなかった元日本軍将校の山本氏にとっての戦争責任は‟日本教”にあり‟空気”にあるということになった。
 
聖書は一冊だがキリスト教では新旧二つに分かれている。しかし実体は新約は27冊、旧約は39冊の異なった本の集合である。新約は短編で旧約は長編ものと考えてもよい。旧約の種類も神話・王・預言者・個人、詩など文学・歴史の集大成であり、扱っている時代はBC3000(ノアの箱舟伝説)からBC200にまで及び、人類のエンサイクロペディアとも呼ばれている。
 
今日のユダヤ教はイスラエル建国と関連して極度に政治的である。1970年代はパレスチナ紛争の最盛期でもありイスラエルは世界から非難を浴びた。マルクス主義を掲げるグループにはヨーロッパからの義勇軍兵士も参加していた。日本赤軍として岡本公三はアラブの英雄とさえなった。だから山本七平氏のユダヤ教ヨイショの本はイスラエル側から大歓迎されることになった。
 
当時のイスラエル側のスタンスは、遺跡発掘をすれば旧約の歴史的正当性が実証される、というものだった。あれから50年、残念ながら考古学的検証は逆方向に向かっているらしい。当然ながらイスラエル側はそれに強く反論している。
 
下の動画は旧約の中で最も読まれ人気のある『詩編』の一節をポップミュージックにしたもの。
 

もう一人の ❝アンネ・フランク❞(2)

その日、ヘニークはキッチンで働いているミリーを呼び出した。二人きりになるとヘニークはまとまった金と彼の結婚指輪をミリーに手渡たそうとした。ところがミリーは仕事中二人きりでいることに気が気ではなかった。ナチに見つかれば二人とも銃殺だ。ミリーは最初断った。しかしヘニークが強く言い張ったので何かを感じてとにかく受け取った。これが彼との最後の逢瀬になった。

数日後にはナチがヘニークを含めた13人の警察官とその家族を逮捕し連行していった。ミリーは20フィート(=約7メートル)離れてそれを見ていた。目撃者側には、あのレノンバスキーもいた。その時ヘニークはレノンバスキーを恐ろしい形相でにらみつけ、「おまえがやったんだな、これは全部おまえのせいだ!」と言い放った。

連行されたヘニーク達一行の行方は戦後の捜索にも関わらず一切不明である。しかしどこかで殺されたことだけは確実とされている。

 

事はそれだけでは終わらなかった。次の日ミリーは逮捕された。密告したのは、あの憎きレノンバスキーについてやってきたゲットー警察官の一人、エルカナ・モルゲン。何とこの男は実はミリーの幼馴染の従兄弟でもあった。エルカナは、ミリーはヘニークの妻だからグリーンスパンだというのだ。グリーンスパンというのは、あの高炉監督のミラーに強姦された犠牲者の一人であったが、ミラーの犠牲者の多くは取り調べと称して逮捕された。エルカナの方はグリーンスパンに該当する名の少女全部を逮捕するという勇み足ぶり。これこそ犬根性丸出しだ。ところで連行されたSSの留置所で、ミリーはもう一人のグリーンスパンに出会った。彼女は、ミリーを見るなり、あんたのおかげで逮捕された!と怒鳴りつけたそうだ。この哀れな本物のグリーンスパンはその時妊娠していた。取り調べで顔を殴打され全部の歯が折れて落ち、その直後銃殺された。

ミリーは取り調べ室に連行され何も聞かれずただ皮手袋をしたSSの手で幾度もビンタを喰らわされ、誰にも言うなと口止めされて紫色に腫れた顔で宿舎に送り返された。

 

なんの事はない、ミラー事件で名が上げられた関係者、犠牲者の少女達やその友人、密告者等が全員逮捕された上殺されたのだ。そしてこの事件は一件落着。下手人ミラーが罰せられる事はなかった。それどころか、今度はミラーが手下のユダヤ人警察を使って密告者レノンバスキーを逮捕しようとした。それを素早く察したレノンバスキーは妻と共にいち早く逃亡。ところが、ナチの掟では、一人逃亡すると20人のユダヤ人が処刑されることになっていた。それで、20人のユダヤ人、残された妻の親戚一同と無関係のユダヤ人合わせて20人が捕まり処刑された。その中には彼の妻の実母がいた。銃口を目前に激しく泣きじゃくりながら、婿のレノンバスキーを呪い殺してやる、私の呪いを彼に伝えてくれ!と金切り声で叫んだのをミリーは目撃した。

 

終戦後新天地を求めて渡米し、子も出来てNYの貧民街のアパートで暮らしていた頃、何とあの憎いレノンバスキーが見つかった。アウシュビッツを生き残ったミリーの父がある日訪ねてきて、レノンバスキーを見かけたと報告。父は当時NY市の縫製服地区で働いていたのだが、名前こそ違っていたがあれはレノンバスキーと妻に間違いないというのだ。ミリーの心の底では彼に対する怒りと憎しみがじっと生きていた。

ダッハウ収容所の数少ない生き残りの一人だった夫をはじめ、ユダヤ人同胞達はレノンバスキーもナチの犠牲者に過ぎないのだというのだが、ミリーにはどうしてもそれが納得できなかった。

いくら同じホロコーストの犠牲者だからといっても、レノンバスキーは自分勝手な行為で何人もの人が巻き添えになって犠牲になるのを知っていたはずだ。ミリーにとってかけがえのないヘニークはこの男に殺されたのだ。

 

ミリーはまず、連邦移民局に出向き、当時ほとんど英語が話せなかったのにもかかわらず、レノンバスキー夫妻は戦争犯罪人であり、偽名を使って違法入国している、と告発したのだが、そこの役人達は戦争犯罪はともかく、違法入国であれば、ぜひ、何らかの証拠を持って来るように、と親切に説明したそうだ。

 

それでもミリーは一レノンバスキーに対する報復を止めなかった。この話がユダヤ人達の間に広まり、ある晩、レノンバスキーの妻がアパートにこっそり訪ねてきた。彼女はどうか私達にこれ以上面倒を起こさないでくれ、とミリーに頼み込んだ。「戦争は終わった、すべては過去の事だ」と。

その時ミリーにはレノンバスキー達をアメリカから追い出すことは出来ないことはわかっていた。しかし悔しさのあまり、『あんたの母の殺される前の最後の言葉は、あんたを呪い殺してやる、あんたが生きている限りあんたには絶対に心の平安はない、だ』と言ってやったそうだ。

 

ミリーは今でもこのことを後悔していない。ヘニーク、母、兄、をはじめユダヤ人犠牲者達は皆沈黙したまま。だから、ミリーにとって怒りを口に出すことは死者達を代弁することであり、ある程度の満足感すら感じたという。

 

1995年、ミリーは終戦50周年を記念する行事にドイツのアンネ・フランク・ハイスクールに招かれた。この高校のあるリップシュタット市には、ミリーが終戦まで強制労働させられた弾薬工場があった。この高校の生徒達は、リップシュタット市に残され荒れ果てたユダヤ人墓地の清掃をした。この市のユダヤ人達は1938年に全員市から消滅していた。しかしそこには1945年に埋められた赤ん坊の墓があったのだ。この赤ん坊は、ここに作られた弾薬工場で強制労働させられた夫婦の赤ん坊であったという事実が判明。

それまで、この市では、誰もミリー達のラドム兵器労働者の生き残りがアウシュビッツから輸送され働かされた弾薬工場のことを口に出す人すらいなかった。

ミリーはこの弾薬工場の生存者の一人として、ドイツまで招かれてスピーチを頼まれた。

 

『私は皆さんを非難する目的でやって来たのじゃない。皆さんは若い、私は皆さんを批判するつもりはない。しかし、皆さんが本当に真実を知りたいならば、歴史の本からじゃなく、皆さんの両親に聞いて欲しい。お父さんに、お祖父さんに。あの時何をしていたのですか?ドイツ人達は皆、あの頃はロシアと戦っていてそんなことは知らなかった、ユダヤ人に対する仕打ちには全く関係していなかった、というかも知れない。もちろんそんなことは本当であるわけないでしょう。皆さんがたの中のあるお祖父さん達は人殺しです。お祖父さんだけじゃなく、お祖母さんも。女の方がもっと残酷な場合があるのです。皆さんのお祖父さん達に、興味があるからぜひ教えて欲しい、と尋ねなさい、戦争中にしたこと、知っていること。おそらくお祖父さんやお祖母さんは皆さんには言わないでしょうが、皆さんは尋ねるべきです、というのは、皆さんは祖父さんや祖母さんが人殺しだったかどうか知るべきなのです。』

 

この時、ミリーはこれまで秘めて来た胸の内を初めてドイツ人に明かすことが出来て心がスカッとしたそうだ。ユダヤ人のことを彼らは過去の出来事として歴史の中に消そうとしていることを知っているからだ。もちろん、彼女一家を招いてくれたドイツ人達の寛容さには感謝していた。その時、ドイツ人達が彼女の怒りの言葉を熱心に聴いていたことが深く印象に残っている、とミリー。

 

ミリーはもはや神を素直に信じることはできない。

渡米してから数年後、あるラバイが神を褒め称えて、神がすべてに宿る、ここにも、世界中どこにでも、たとえ、ゲットーの中にも、というのを聞いて、ミリーは礼拝場から無言で歩き去った。

あるラバイの言葉、

『どうしてホロコーストのような悲劇が起こったのか、その答えは私には分からない』、というのが真実だ、と思っているからだ。

 

ところで、どうやってミリーは二つのリングと一枚の写真を持ち続けることが出来たのか不思議に思う読者も多いはずだ。ミリーもあのアウシュビッツで素っ裸になってドイツ兵の前を走らなければならなかったのだ。それまで持っていた所持品はすべて残していかなければならなかった。実は指輪に関しては全く見知らぬ女の人が親切にも何と膣に隠してくれたのだ。二人の記念写真は、ラドムの工場から一緒だった母の妹ミマが皮製の短足ブーツの底に隠してくれた。ミマは短ブーツをはいたままで知らんぷりしてドイツ軍の前を素っ裸で行進したという勇気の持ち主だった。この叔母が一緒でなければミリーはおそらくアウシュビッツを生き残ることは出来なかっただろう。二人はアウシュビッツで一体となって生き残る為に知恵をしぼった。写真やリングを隠したミマのブーツは食器用のカップを詰め込んで二人向き合って片足ずつ抱えて眠った、盗難を防ぐ為にだ。それらが盗まれるとあの水のようなスープも貰えなくなってしまう。

 

実は、ここでは触れなかったのだが、ミリーがホロコーストを生き残ることができたのは人々の思いがけない善意のおかげでもあったのだ。ナチを恐れてその片棒を担ぐ人が出て来たのは当然だろうが、人々には本能的ともいえるような善意が備わっているようだ。ミリーは幾度も殺されそうになったのだが、それらの人々のとっさの善意のおかげで生き残ることができた。たとえば、ミリーの結婚指輪を隠してくれた全く見知らぬ女性。間違って鉄板に穴を空けたのをそっと見逃してくれたポーランド人工場監督、キッチンが統合されてミリー達余分な働き手が収容所送りになった時に、咄嗟に床板をはいで彼女を床下に隠した叔母ミマの夫、こっそり自分のサンドイッチをくれたドイツ人の政治犯等々。

ミリーにとってへニークもそういった善意の人達の一人だった。

彼がミリーの手に無理やり押し付けた金で、へニークが去った後に工場の元の仕事場に戻らされたミリーはもっと条件のよい仕事を買うことができた。

ミリーにはそういった親切な人々の存在が全く忘れられてしまっていることが耐えられない。特に、彼女が愛したへニークも、自分の家族を与えられる機会も奪われ、彼の存在自体が全く忘れ去れようとしている。ミリーはユダヤ人警察官でありながら皆に対して親切で思いやりのあったヘニークのことをこの本を通して是非全世界に知って欲しい、

とエピローグで述べていた。

 

ミリーとヘニークの残された写真と指輪を見たい人は、英語のタイトル、

two rings : a story of love and war 、で検索して下さい。すぐ出てきます。

 

もう一人の❝アンネ・フランク❞

 

Two Rings: A Story of Love and War (English Edition)

Two Rings: A Story of Love and War (English Edition)

 

 

『アンネ・フランクの日記』は疑いもなく世界中で一番読まれたホロコーストの本だ。ところで、アンネとほぼ同年代で多感な少女時代をゲットー、アウシュビッツで過ごし、米軍の到着を目前にした最後の死の行進から開放された時には19歳になっていた少女がいた。彼女の名はミリー。

 

『シンドラーのリスト』1993年という名画を覚えていないか?

ナチ党員だったドイツ系チェコ人のシンドラーが戦争で一儲けをしようとナチ占領下ポーランドで元ユダヤ人所有の工場を払い下げて貰らった。しかしこの男は工場経営はまったくの素人。そこでゲットーから奴隷労働に徴集したユダヤ人の頭と力を借りて軍需品を作り大儲けをした。だが、ナチの介入に抵抗し最後は彼の工場のユダヤ人1200人あまりの命を莫大な金を払ってナチから買い取って救ったというストーリーだ。

 

ミリーはこういった軍需工場に15歳から奴隷労働をさせられた。ただし、ナチの監督下での工場だったので、そこは日々の恐怖と過酷な労働と飢えの世界であった。

 

今日のミリーは80歳を越え、NYのユダヤ人コミュニティーに生きる富裕な未亡人である。彼女の息子の家で開かれる定例の安息日ポットラック(持ち寄り)ディナーに来ていた大学の英語教授がミリーの息子に頼まれたのだ、ぜひ彼女のストーリーを本にしてくれないか、と。

それまでこの女性教授はミリーがホロコーストの生存者であることを知らなかったそうだ。控えめな未亡人と思っていた。まあ、やって見てもいいんじゃないか、と一応引き受けることにしたのだが、このミリーと付き合っているうちに彼女のストーリーにすっかりはまってしまった。

 

一年以上もかかってやっと原稿ができたそうだ。何しろ戦争が終わって65年。ミリーは当時の事を驚くほどよく記憶していたが、どうしても記憶がないという事柄も出てきた。

それから、言語の壁もある。ミリーは英語はうまい。だがどうも聞いていると、やはり母国語だったイディッシュと呼ばれるドイツ語をもとにしたユダヤ方言の言い回しが頻繁に出てくる。そこで、聞き手の英語教授はミリーに原稿を読んで聞かせて必ずその時の思いを英語で確認したそうだ。

その成果がミリー・ウェバー、イブ・ケラー共著の “Two Rings : a story of love and war” 2012  (二つのリング:愛と戦争の物語)である。

 

結果として従来のホロコースト・ストーリーとはかなり違ったものになってしまった、というのが拙者の印象だ。

 

ミリーはポーランド中心部のラドム市で生まれ育ったユダヤ人。当時ラドム市の人口のおよそ3分の1にあたる約30万人がユダヤ人だった。しかしミリーの父は長い間パリにいた。一家の生活を支えていたのは手広く仕立て屋を営んでいた母だった。兄が一人に、祖父母をはじめ、叔父叔母やいとこ達のいわゆる典型的なユダヤ人大家族に囲まれて育った。

 

1939年にドイツ軍がラドムを占領、多くのユダヤ人が逮捕され姿を消していった。1941年にはゲットーに市のユダヤ人住民が強制移住させられた。それに従わないものは殺された。ゲットーから許可なくさまよい出たユダヤ人も皆殺された。

 

“ Arbeit macht frei” =『働けば自由になる』、というドイツ語のスローガンがアウシュビッツをはじめいくつかの強制収容所の門に掲げられていたのは写真でもお馴染みだ。拙者が読んだある日本語の本では、これは全くのジョークだった、と書かれていたが、その本の著者は間違っていた。これはマジだった。但し『働けなければ殺すぞ』というのが正確だ。

給料など一切出ない奴隷労働の先を見つけなければ殺される、というわけで、当時15歳になったばかりのミリーはナチの工場で働くはめとなった。苦労したせいで見た目がふけ過ぎてナチにに拒否された母と一緒にゲットーに残るといって泣きじゃくった。しかし、ドイツ軍に殺されるぞ、と叔父にゲットーから追い出され、兵器部品工場で毎日12時間働かされた。6時間と6時間の間に休息が15分間だけ。トイレはこの休息中の済ませなければならない。仕事中に席を離れると殺されるからだ。男性は尿意を抑えるためにチンXXを紐で縛ることが出来たが女性はじっと我慢あるのみだ。

 

注:真似してあれを縛ることは絶対しないように。腎臓・膀胱・尿道機能に異常をきたす恐れがある。縛られた先の部分が壊死すれば切断することになりかねない。

 

兵器工場では二回、仕事の前に、コーヒーらしき茶色の飲み物と黒パンのスライス、仕事の終わりには水のように薄いスープが与えられた。それは後で知ったのだが馬のスープだった。浮いている肉のかけらももちろん馬肉だ。ところでミリーはどうしてもこのスープが飲めなかった。コーシャでなかったので飲むと神の怒りを受けて死ぬと信じていたからだ。逆に、飲まないと死ぬと皆からせかされてやっと目を閉じて飲みこんだが、死ななかったのですっかり驚いた。その上、信じられないくらいおいしかったとのこと。

 

奴隷労働にありついたミリーの父、叔父と叔母は殺されずにすんだが、ゲットーに残っていたミリーの兄は以前街路掃除に狩り出された際にドイツ軍のトラックにひかれて以来びっことなってしまったのだが、方輪者としてその場で射殺、奴隷労働に不向きだとされた母や祖父母、幼い従兄弟たちは皆強制収容所送りになり、そこで殺された。

おそらくこのまま鉄鋼部品に穴をあける仕事を一日12時間もしていたら、ミリーも長くは持たなかったはずだ、しかし思いがけなく天使がミリーに微笑んだ。

 

イブ・ケリーがミリーのストーリーを聞き始めて数ヶ月経った頃、ミリーは彼女を自分のベッドルームに連れて行き、大切にしまっていた二つのリングと節目のついた古い白黒写真を見せた。若いカップルが頬を寄せ合って写っていた。ミリーと彼女の最初の夫、ヘニークだった。

 

ミリーは生まれて初めて恋に落ちた。16歳だった。ヘニークはユダヤ人の工場警察官であった。

このユダヤ人警察官こそジョークである。彼らはドイツ人の手下となって少しばかりの特権、たとえば皆が雑魚寝する宿舎のかわりに個室にベッド、と引き換えに同胞ユダヤ人を監視する。余計な食べ物を隠し持っている者を見つけて密告だ。だが最後はドイツ人に殺されてしまう運命にあった。

 

ヘニークはミリーを工場からキッチンへ移動させた。ここでの彼女の仕事はジャガイモの皮向きになった。しかしこっそり薄く削ぎ切りしたポテトをストーブにはりつけ、すばやく口に放り込むということも出来たのだ。これが生きるが死ぬかの運命の分かれ目になるのだ。

ところでヘニークの妹夫婦はアルゼンチン国籍だった。アルゼンチンにいるドイツ人と交換されるということになってヘニークはミリーを連れてポーランドから脱出しようとした。その為に二人は秘密裏にミリーの叔父によってユダヤ教の結婚式をあげた。

ミリー16歳、ヘニークは28歳だった。しかし公式にすることは不可能だったので二人はゲットーでの結婚式の後その足で工場の宿舎に戻り、ドイツ軍を恐れて一緒に暮らすことはできなかった。しかし、ミリーは幸せだった。最愛の母が連れ去られた後、ヘニークだけが彼女にとって輝く希望の星だった。

しかし、ヘニークの妹夫妻をはじめ、アルゼンチンに移住希望のヘニークの親戚はある日全員が集合させられ、その場で、ドイツ兵に射殺された。ミリーの叔母が目撃者だった。ヘニークとミリーは工場に住んでいたので処刑を免れた。

たとえドイツの奴隷であってもミリーにとって人生でもっとも幸せな日々だったそうだが、それもある日突然終わりを告げた。

 

ミリー達が強制労働させられた工場には高炉があった。そこで働くユダヤ人は高温と灰燼に肺を侵されながらもっと過酷な労働をしいられていた。この高炉はミラーというナチSSの監督下にあった。実はこの男はユダヤ人の少女達を強姦していた。その被害者達の一人はミリーの友人であった。この少女はミラーに呼び出され、すっ裸にされた。それから椅子に腰掛けさせられて、囚人を殴るゴム製のバトンを口の中に突っ込まれ、喉を手で捕まれて窒息しそうになった時、ミラーは少女の足を広げさせ強姦した。もちろん少女は処女であった。ミラーは明らかに性的変態癖のある男である。

 

だがこういうことは密かに知れ渡ってしまうのが普通だ。だが、ミラーを恐れて皆は口をつぐむ。しかし、ただ一人これを公に告発した男が出た、それもミラーの上部のSSにである。男はノレンバスキー。ゲットーのユダヤ人警察官だが、同じ学校に通ったというヘニークの友人であった。告発の理由は『人種の恥』である。優性民族であるドイツ人が劣性のユダヤ人とセックスすることは人種の純血に反する行為と見なされていた。

ノレンバスキーは正しい事をした報償としてゲットーから彼の同僚12人の警察官と彼らの家族共々、ヘニークの管轄である兵器工場に移ってきたのだ。その頃ナチは空っぽに近い市のゲットーを閉じようとしていた。

ミリーによれば、レノンバスキーはドイツの犬、告発は自分をよく見せたい為だったというのだ。このレノンバスキー達のおかげで工場のヘニーク達13人のユダヤ人警察官が余計なものになってしまった。

 

戦時下の朝鮮人家族:When My Name was Keoko(2)

戦争の進行に連れ家族それぞれの運命も変わっていく。

 

まず大好きな叔父さんだ。

ある夕方の事、Sun-heeの親友『とも』がこっそり会いに来た。この日本人少年は彼女の叔父さんが昔作ってくれた針金細工にたくして近々軍による貴金属接収があることを知らせにきたのだが、あいにくSun-heeはそれを叔父さんに対する警告と誤解してしまった。 

さっそくそれを叔父さんに伝えた後叔父さんは忽然と姿を消した。日本軍に逮捕されれば待っているのは拷問と死であった。当然その影響は本人だけに限らす家族にも及ぶのだ。

 

翌日さっそく点呼があった。日本軍は朝鮮人達から宝石から台所用品にいたるまで金属製品を残らず接収していった。しかし自分の間違いを悟った

Sun-heeは後悔してもしきれないという深い悔恨の情に沈んだ。

『今隠れておいた方があのまま印刷屋を続けているよりずっと安全だ』と父は娘を慰めた。

しかしその日以来Sun-heeは毎晩床の中で音を殺して泣き続けていた。

見かねた母がある晩枕元で

『善意からの間違いなんだから間違いをおこした本人は自分を許してもいいんだよ。』とそっと囁いた。

しかしSun-heeは母の慰めの言葉にも無言であった。

『今は出来ないかも知れないが、いつかきっと出来るようになる』と言い残して母は静かにその場を去っていった。

『でも本当は純粋な善意からしたことじゃなかった、誰も知らない重要な情報を手にしたことでオッパ(=長兄)を出し抜きたかった。だからもし叔父さんが生きて帰って来なかったら自分を許すことなどとても出来そうもない』

とSun-heeは心の中でつぶやいていた。

 

一家は叔父さんの事で当局から何かにつけて追及を受けることになったが、教頭の父は彼の『親日派』の立場を利用して知らぬ存ぜぬで押し通した。

 

ある日、米軍の飛行機が飛んできて空からビラを撒いた。

Sun-heeは密かにそのビラを隠し持っていた。家に持ち帰り父に見せた。

父はそれを読んだ後すぐに焼いてしまったが、

『ビラはマッカーサー将軍からだ。朝鮮人は日本人ではないから米軍の敵ではない、だから米軍は朝鮮を爆撃はしない、と書かれている』と家族に告げた。

 

朝鮮人は日本人ではない!

それは当たり前の事だったのだ。

叔父さんや隣のお婆さんのかたくなな反日的姿勢がなぜなのかSun-heeはやっと理解できた。

 

その日からSun-heeは日記をつけ始めた。いずれ叔父さんが帰ってきた時に読んで貰おうと思ったのだ。ただし、日記は日本語であった。ハングルを習うことは禁じられていた。

 

だがある夜遅く皆が寝静まる頃になって突然点呼がかかり家宅捜索が始まった。各々の家の中に隠し持っている反日書類を根こそぎ調べ上げ反日容疑者を逮捕するのが目的だった。やってきた憲兵隊に日記がみつかってしまった。

 

『大変綺麗な字で書けているが中身がよくない。これは天皇陛下を屈辱するものだ。今日だけは許してやるがこれ以後は厳罰に処するから覚えておけ』と言って日本軍人は日記を台所のストーブに投げ込んだ。

憲兵隊が去った後に押さえつけていた兄の腕を振り解き、Sun-heeはストーブに駆け寄った。手を中に突っ込み日記を取り出そうとしたがもう後の祭り。かわりに手にひどい火傷を負った。

『日本側が焼いたのはただの紙だ、しかし書かれた言葉までは焼くことは出来ない。』といって父はSun-heeを慰めるのだった。

翌朝Sun-heeは再び日記をつけ始めた。

 

戦争はいよいよ末期を迎えた。北朝鮮を根拠とした抗日運動に合流し抗日新聞を発行している叔父さんに対する官憲の追及をかわす為に兄のTae-yulは日本陸軍に自ら志願してしまった。

学校を卒業すれば待っているのは徴用という名の重労働だ、それに日本軍兵士の家族には特別に米と食糧が配給されるのだ。しかし残された家族はいわば自分たちの犠牲となった格好の兄を思って悲嘆にくれた。

 

陸軍の新兵訓練は過酷であったが、Tay-yulは余計な事は一切考えないで訓練に耐えることのみに集中することでうまく乗り越えていた。がその間に海軍航空隊がほんの少数の朝鮮兵志願者を募っているのを知りそれに応募。日本内地の訓練所に向かったのだった。

これは『竹の森遠く』の中で主人公ヨーコの兄が志願した『予科練』のことである。飛行機を操縦するパイロットは何といっても当時の少年達の憧れの的であった。Tay-yulもその例外ではない。しかし目的は神風特攻隊となることであるから全くの自殺志向だ。

 

自殺は正常な人間にとって生理的に受け入れ難いのが普通である。

 

Tae-yulは特攻の部分は後で対策を考えることにし、当面は戦闘機パイロットとしての訓練に身と心を没頭させた。

 

実際に沖縄戦で11人の朝鮮人神風特攻隊員が玉砕している。

 

この本が韓国でどう見られているのか拙者は全く知らない。この金一家は外見からすれば“親日派”家族だ。この本は戦後の反日教育下で育った韓国人読者一般にとってあまり居心地のよいものではないだろうと拙者は思ってしまう。

Tae-yulは日本軍将校になった。

反日感情を政敵攻撃の手段とした独裁者李承晩を軍事クーデターで倒して実権を握り長期に渡って独裁政治を続けた朴大統領も日本軍の若き将校だった。彼のことを朝鮮語を話すもっとも日本人らしい日本人と評した人もいるくらいだ。この朴大統領は暗殺後『親日派』リストに入れられている。

 

しかし米の読者達の見たものは日本統治という名のもとに行われた圧制とその下で虐げられた人々の姿である。自由と人権を認めない社会に生きなければならない人々の苦しみと悲しみをこの本は非常にうまく表している、というのが読者達の全員一致した見解なのだ。

そういう視点からすると、この朝鮮人家族の姿は戦時下の日本の家族の姿に似てはいないか?

 

戦前の日本人には自由も人権も無かった。天皇制に不適切と見なされない自由のみが許され、天皇だけが国民の自由の範囲を設定する権限を持っていた。これが大日本帝国憲法下の日本国民の基本的人権であったのだ。その範囲を超えた国民は厳罰に処されたのだ。

それだけではない。大日本帝国憲法下では天皇の命に従う事は国民の法的義務であった。だから天皇の名において国民は皆勝つ見込みの全く無い無謀な侵略戦争に強制的に狩り出されて死んでいかねばならなかったのだ。特攻隊に強制志願させられたTae-yulの絶望的心情は当時の日本の青年達と驚くほど共通したものがあるはずだ。

 

敗戦を迎え、Sun-heeは親友の『トモ』に最後の別れを告げに行く。

 

トモはこれまで育ってきた唯一の家を離れるのだ。これから見知らぬ国で暮らすということについてどんな気持ちがするだろうか?とSun-hee。

「兄さんのこと聞いたよ。何といって慰めたらいいのか・・・」とトモ。

 

兄のことは絶対に口に出さないのが家族全員の暗黙の了解だった。だからこれはショックだった。そのせいでトモに言おうと思っていた別れの言葉が頭の中で突然消えた。

「元気でね。」というのが精一杯のSun-hee。あらかじめ用意していた『贈り物』をトモの手に押し付け、駆け去ったのだった。

この親友トモへの最後の贈り物はあの叔父さんが消えた日にトモがくれた小さな小石だった。この小石と一緒にトモが「朝鮮の小さなひとかけら」を日本へ持って帰って貰いたかったのだ、二人の間の友情の思い出の為に。

 

上記の箇所についてたくさんの読者が胸にせまる切ない思いを感じたと書いていた。

Sun-heeと『トモ』の間に初恋にも似た感情のつながりが存在しているのではないかと指摘する読者が少なからずいる。

中にはこの『トモ』との関係をストーリーとしてもっと発展させるべきだったとおせっかいをやく読者がいることも知らせておこう。

戦時下の朝鮮人家族:When My Name was Keoko

 

When My Name Was Keoko

When My Name Was Keoko

 

 

“When My Name was Keoko”,2002、は以前紹介した“So far from the Bamboo

 grove”『竹の森遠く』(題名のみ日本語訳)と同年代の主人公の開戦前夜から日本の敗戦までの体験である。ただしこちらは朝鮮サイドからのストーリーとなっている。

 

この本は米図書館協会によって2003年のベストブックに選ばれた。『竹の森遠く』と同様に米の中学校で英語の副教材として広く使われている。

 

著者はLinda Sue Park。韓国系米国人だ。学校時代を通じて自称本の虫というくらいの本好きだった。今日では朝鮮を舞台にした青少年向けの歴史小説家として米国では非常に著名でありファンも多い。

 

“When My Name was Keoko”(=私の名がきょうこだった時) の日本語訳はない。

“Keoko”は『きょうこ』。理由は一般的に使われるいる“Kyoko”の方は英語では『きょうこ』と発音しにくいからだそうだ。

実はこの『きょうこ』は1945年の敗戦まで彼女の母の日本名であった。著者は両親から戦時中の体験を聞きながら育ったとかでそれをもとにしてこの本を書いたそうだ。

 

>1935年から1945年にかけての朝鮮史には空白がある。朝鮮側の確とした記憶にも関わらずこの10年間の日本総督府による朝鮮人抑圧政策の記録が無いのだ、また戦時中日本と共に働いた朝鮮人達もその史実をきれいに消してしまっている。

 

上記は“Korea’s place in the sun”by Bruce Cummings からの著者による引用である。特に戦時下の朝鮮人達の体験はこれまでほとんど国外には知られていない。だからの本には希少価値があるという意見も出ていた。

 

主人公は1940年当時13歳のTae-yulと10歳のSun-heeの兄妹。ストーリーは二人の交互の語りで展開していく。

 

当時この金一家は朝鮮半島のある地方都市に住んでいた。

父は小学校の教頭を務めていた。戦時色が強まってきた時代である。日本人の監督下での父の任務は生徒をよき皇国の民として教育することであった。この年までにはすべての教育は日本語で実施され学校内での朝鮮語の使用は厳禁であった。この学者肌の父はひたすら職に忠実であり常によき朝鮮人として振舞うことを忘れない人であった。

目の前で日本兵が息子のTae-yulに大切な自転車をよこせと命令した、天皇陛下の名においてだ。息子は自転車のハンドルを硬く握ったまま凍りついてしまった。たちまち日本兵との間に自転車の取り合いがおこったのだが、中に入った父は息子の指を一本一本ハンドルから引き離して日本兵に自転車を取らせたのだった。

息子の心は怒りに打ち震えたがどうして父に逆らえようか。

その時の父の蒼白な表情をTae-yulは決して忘れる事ができなかった。

 

母は家庭菜園に精を出し今や米の代用食となったかっての鶏の餌だった雑穀類を何とか食べられるように炊いてひたすら家族の日々の暮らしを守っていた。

しかしそんな従順な母でさえ槿(むくげ)の木を残らず引き抜いて焼け、代わりに桜の木を植えよ、という日本側からの通達にはさすがにムカッときたらしい。とにかく庭の槿の木はひっこ抜いたがこっそりと一本の槿の若木を納屋に隠したのはこの母であった。

槿(むくげ)の花は日本の農家や町屋の軒下でよく見られる花である。

日本国内で戦時下にそんな命令が出たというのは未だに聞いたことがない。

朝鮮人達はこの槿(むくげ)の花を国花として愛していたのでそれを妨害し止めさせようとしたのだ。

このように日本の同化政策は被支配側の朝鮮人達にとっては悪意のこもったハラスメントにしか他ならなかった。

 

父の弟である独身の叔父は広告宣伝ビラを作成する小さな印刷屋をしていた。血気盛んな若者らしく宗主国日本を憎んでいたが表向きは日本人相手の商売で経営を乗り切っていた。しかし裏では反日活動を行っていたのだ。

 

主人公の兄の方のTae-Yul は日本語学習に明け暮れる学校に不満を持っていた。その上、戦況の悪化により松脂取りや飛行場建設に学徒動員されるようになり学校をいっそう嫌うようになった。一体何の為にこういうことをしなければならないのか彼にはさっぱり納得が出来ない。しかしTae-yulは大好きな叔父さんのように日本に反抗する事はしなかった。父の教えを守って面倒を避け要領よくノルマを果たすというのが彼のとる道となった。

 

しかし妹のSun-heeは学校での日本語の学習、とりわけ漢字に意欲を燃やした。そんな娘に父は毎晩時間をさいて漢字を教えていた。

そのかいがあってSun-heeは小学校四年の時に日本語が最優秀であるということを全校で表彰され優等生のバッジさえ貰った。

ところがである、学校の帰り道で朝鮮人生徒に待ち伏せされ、“親日派”と囃し立てられた上に石を投げつけられた。

“親日派”chin-il-pa  とは日本統治に協力する朝鮮人売国奴という意味がこもっているのだ。

 

もう恐ろしくてバッジをつけて学校に行くのも嫌になったがつけないと今度は先生側に睨まれる。そういうわけでSun-hee はすっかり落ち込んでしまった。

そんな娘 の心情を察した父は、朝鮮王朝時代に有名な学者だった祖父は中国の古典に精通していた、漢字を学ぶことは祖先を崇拝する事につながるのだ、と説得した。そのおかげで彼女は再び漢字の勉強に熱中することができた。

Sun-heeの一番の友達は近所に住む日本人校長の息子“トモ”であった。

しかし同学年の“トモ”は日本人だけの高等小学校に去っていった。その後を埋めるように一人の転校生が新しい親友になった。この生徒の父は日本の銀行に勤める“親日派”だった。

 

この物語は戦争前の“創始改名”で始まる。父は集まった家族に新聞を読んで聞かせる。

『天皇陛下の御命により、この度朝鮮人はめでたく日本名を拝領することになった』

それを聞くなり叔父は烈火のごとく怒り出した。

『なにぃ!めでたく拝領するだと!全くうまく言い繕いおって!なぜヤツラは少しでも正直に言わないのだ!つまり俺たち朝鮮人は日本名を強制されるということなのだ。』

『来週にも皆で警察署に行って登録せんとな。』と深刻な表情の父。

『登録せんと、皆逮捕されるからな』と。

『やれるものならやってみろってんだ!俺の身体はつかまっても心まではつかまらんぞ。俺の名は俺の魂だ!』

その時の叔父の顔は唐辛子のように真っ赤だった。

『そんな事いっても何の役にも立たんぞ。』と父は叔父をたしなめた。

「皆、考えるからちょっと時間をくれ。」と父。

しばらくして父は息子の日本語の教科書から漢字を探し出して来た。この家族の祖先は金氏だ、だから祖先を忘れない為に金山という苗字にした。ついで兄をノブオ、妹をキョウコとつけた。

 

もちろんその後の数日間学校では大混乱がおこっていた。

それまでの朝鮮名が全部日本名に変えられてしまったからだ。何しろ日本名で呼ばれた本人ですらそれが自分だとわからずキョトンとしてしまう有様だから事情のほどは察せられる。Sun-heeは出来るだけ注意していたつもりだったが、第二日目にうっかりと同級生を朝鮮名で呼んでしまった。ところが運悪くその時軍人視官の“大西さん”が教室に視察に来ていたのだ。

“大西さん”は、まず『ゴホン』と大きく咳払いをし棒で片手をたたいて先生に合図を送った。

先生はただちに『金山きょうこ、前へ来なさい』と命じた。

そして金山きょうこことSun-heeは竹の鞭で足を打たれたのだ。鞭をふるった先生の表情は暗かった。

あの“大西さん”さえいなけれがこんな事は起こらなかったはずなのに。

Sun-hee は心の中で憤懣やる方なかった。教頭の娘で優等生の彼女がたった一回の間違いで皆の面前でみせしめとして鞭で打たれなければならないのだ。

しかし彼女にはこの不道理な罰と痛みをじっと耐えることしか方法はなかった。

 

そして真珠湾攻撃。その後朝鮮半島でも隣組が出現した。ラジオは没収されている。代わりに日本側は命令伝達手段として隣組点呼を頻繁に行うようになった。隣組は10列10家族で構成されていたのだが、Sun-heeの隣の一人暮らしのお婆さんは日本語が分からなかった。点呼の際にこのお婆さんは日本語で“ロク”が言えなかった。代わりに朝鮮語で“ロク”と言ってしまった。

たちまち日本軍人がお婆さんを前に引き出して、『このババァ、何をいっとるんだ?』と怖い顔で尋問した。

『まことに申し訳ごさいません、日本語がわかりません』

と隣のお婆さんは膝をついて謝罪したが朝鮮語だったのでこの日本軍人には通じない。

『大ばか者!お前の脳ミソは腐っておる。この国の公用語が日本語になってからもう30年も経っておるというのに日本語がわからぬということがあるものか!』

そういうなり手に持っていた棒で隣のお婆さんを頭といわず肩といわず滅多打ちにした。

お婆さんは前につんのめって倒れたまま動かなくなった。

『ロクだ、うすのろめ。ロクだぞ!』とその日本軍人は気を失ったお婆さんに向かって叫んだ。

ついで、母に向いて、『続行せよ』と命じた。

母は大きく息を吸い込み『シチ!』と怒鳴った。その後横の倒れたお婆さんを起こしにかかった。

『コラ!ソコのお前は何をしとるんじゃ?』

母は日本軍人に深く頭をさげ恐れ多い口調で、

『あなたさまがお年寄りを大切になさるように、私もお年寄りを助けなければならないのでございます』

日本軍人は母を睨み付けたまま、『それなら連れて行け!』とはき捨てるように言った。

その間Sun-heeは母も棒で打たれるのではないかと生きた心地がしなかった。しかしあの普段は口数の少ない母がこのような強い口調で年配の男の人に話すとは、と内心では驚いていた。

それ以後Sun-heeは点呼がかかると真っ先に外に出て隣のお婆さんの場所を取るようにした。このお婆さんは何とか五までは日本語でいえるがその先は、『私は日本人じゃないからこれで充分』とかたくなに拒否していたのだった。

 

竹の森遠く(2)

ところが、この病院列車はソウルを目前にして爆撃を受け機関車が燃えてしまい走行不可能になった。ヨーコ達母娘はここからは自分たちだけで歩いて行くことに決めた。

 

飢えと疲れに苦しみながら夜歩き続けたのだが、再び共産ゲリラに見つかってしまう。しかし、ラッキーにも、空襲爆撃でゲリラ兵士は吹っ飛ばされたが、咄嗟に地面に腹ばいになった彼女らは生き残ることが出来た。ヨーコはその爆撃で、胸部に裂傷を負い聴力を失った。胸部を姉のシュミーズで固く縛り上げ、死んだ兵士の制服を着込んだ断髪姿の3人は今度は日中を堂々と歩き続けた。姉は貧しい朝鮮人のふりをして達者な朝鮮語で地元人を騙して同情を買って食糧を恵んで貰った。

 

彼女らは避難民となった日本の女達が朝鮮人達に連れ去られ陵辱されるのを度々目撃し、明日はわが身と生きた心地もなかった。

 

こういった加害者としての朝鮮人描写が米国の韓国系父系達を怒らせた。

確かに作品は植民地下の朝鮮人の苦難について一切言及していない。従って、慰安婦の『い』の字も出てこない。

それでもって、朝鮮人をまるでレイピストのように描写している、と韓国系米国人からの非難の声が高まった。

韓国系住民と韓国領事館が各学校区に対してこの本を教材からはずすように要求した。ある学校区は要求に応じた。

 

韓国側が指摘しているもう一つの問題点にこの本についての史的事実性がある。

 

作品中には繰り返し米軍による北朝鮮爆撃が描写されているが、これは史実ではない。米軍爆撃はなかった。

朝鮮共産ゲリラ軍はまだ存在していない。だから、日本人皆殺しを実行しているゲリラ軍は著者の想像の産物にしか過ぎないという。

ヨーコの兄は動員先の軍需工場で共産軍に攻撃を受け、仲間3人だけ運よく皆殺しから免れたわけだが、逃亡中に、共産ゲリラが避難民化した日本人を容赦なく皆殺しにするのを目撃している。

 

題名にまでなっている竹はナナムのような北部では寒すぎて育たない。

 

以上のようなことから反発が嵩じて、ついには著者の父はあの生体実験で悪名高い石井部隊のメンバーだと主張する韓国人が現れた。証拠として、著者の父親の名の発音が部隊の高官の名と同じであること、作品に登場する数名の人物の苗字が、石井部隊のメンバーリストに載っているということ、著者の父が6年間シベリアに戦犯として勾留されていたということを挙げている。が、これらは根拠に乏しい。

 

ついに2007年4月16日、ボストンにて著者はマスコミを前に公開質問に応じた。その日韓国のマスコミが勢揃いしたことはいうまでもない。が、日本側からはゼロ。

異色なのは、“A Plague upon Humanity”という例の生体実験の石井部隊を題材にした本の著者が出席したことだ。彼は、韓国人の熱心な説得に心打たれたそうで、韓国新聞には、この本は最初から最後まで出鱈目、という有名人である彼のコメントが載った。しかし、彼は後でコメント自体を否定している。

 

この公開質問の場で、著者は、まず、この本が韓国系米国人に不都合な感情をいだかせたことを謝罪している。それと同時に、彼等の理解が得られることを信じていると述べている。

本の内容に関しては、3つのマイナーな事柄を除いては、本の内容はすべて真実であると主張している。ただ作品は当時11歳の日本側からの著者の目を通して描かれており、歴史全体という観点からは不十分であることを認めていた。

 

“So Far from Bamboo Grove”は母娘達がめでたく日本にたどり着くことで終わらない。後半のテーマは日本での悲惨な体験である。

 

当てにしていた父の実家は空襲で一家全滅、母は浮浪者生活をしていた京都駅で力尽きて死んでしまった。

残された二人は浮浪児となった。しかし母が死ぬ前に学校だけは始めさせていたので、寝泊りしていた京都駅のベンチから所持品を全部詰め込んだリュックをしょって通学していた。つぎはぎだらけの服から二人とも引き揚げ者の浮浪児ということはミエミエ。ふろにも入っていないだろうから匂いもしたはずだ。そういったわけでひどいいじめにあっていた。

 

だが、中にはそういった二人に同情し助けてくれる人も出てきた。著者はその時の感謝の気持ちを決して忘れない。

一方、朝鮮半島に残された兄は凍死寸前で行き倒れになったところを、朝鮮人の農民一家に助けられた。

 

11歳の少女の目を通しては歴史は把握できないが、良心を持った人間と悪意にかられた人間の見分けは大人よりもはっきりしている。

 

1986年以来、膨大な数の米国人生徒がこの本を読んだわけだが、多くが主人公ヨーコのファンだと言っていることを伝えておこう。絶対多数の米国人父兄はこの作品を支持している。

 

なお韓国では、“ヨーコ物語”として韓国語訳が出版されたのだが現在は発売禁止になってしまった。

日本と中国では翻訳はなされていない。

 

私がこの本の存在を知ったのは、ネット上でのある嫌韓ネトウヨ氏のコメントからであった。その人はこの本を読んだことはないというのに、ただただ賞賛あるのみ。実は他人のコピペから内容を知ったつもりになっていたのだろう。

竹の森遠く


竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記

舞台は終戦直前の満露国境近い北朝鮮。11歳の日本人少女と母、姉の家族3人の本土への引き揚げの旅が始まろうとしていた。といっても、この少女は日本を知らない異国育ち。だから彼女にとっては未知への旅立ちでもあったのだ。

 

この少女の辛酸なめ子さんとしての体験が自伝的小説と銘打って1986年に米国で出版された。

 

題名は“So Far from Bamboo Grove”。

 

日本語訳はいまだに出版されていない(この記事を書いた時には)。しかし、日本では『竹の森遠く』というのが題名としてすでに定着してしまっている。著者自身による訳は『はるかかなたの竹林に想う』であるらしい。彼女自身の自筆の写真をネットで見た。

現在マサチューセッツ州在住の著者は、78歳を超える高齢をものともせず、毎年近隣の中学校を訪れ自らの体験した戦争の害について語り続けている。

 

この本はわずか180ページの中学生向けの本である。だから2時間余りで読める。しかしこの薄っぺらな子供向けの本が米国内で一大政治的問題となったのだ。それは26年後の今日に至るまで続いている。

 

出版された当初からこの本は非常に高い評価を受け、全米の中学校の英語の副読本として指定された。つまりこの本は過去25年以上に渡り授業の教材に指定され全米の中学生に読まれてきたわけだ。

作者のヨーコ・カワシマ・ワトキンスの意図はただひとつ。自己の経験を通して飽食満ち足りた米国の中学生達に戦争の悲惨さを知り満ち足りた現実を見直して欲しいということだそうだ。

 

だが、韓国系からこの本を中学校で強制的に読まされることに精神的苦痛を訴える生徒や、この本の内容から人種差別を受けるのではないかいう不安を訴える生徒達が出てきたのだ。米国での慰安婦問題への関心の高まりに同調するかのように、父兄達が自分達の学校区に対してこの本を副読本のリストから外すよう要求するようになったのである。

この本に強く反対する韓国系住民の父兄達は、日本は戦争の加害者であり、かっての日帝に植民地化された朝鮮人は被害者。それがこの本の中では、全く逆になっている。これは史実に反している、と主張する。

 

この本の作者は、ヨーコ・カワシマ・ワトキンス、78歳。戦後、”戦争花嫁”としてアメリカに渡った日本女性である。しかし彼女は日本生まれの日本育ちではない。彼女は戦前の北朝鮮に生まれ、戦後日本に引き揚げるまでは日本の土を一度も踏んだことのない日本人だった。

 

ヨーコの家族は南満鉄勤務の父、母、兄、姉の五人家族だった。末っ子の彼女は皆から“ちびちゃん”と呼ばれてかなり甘やかされて育てられたようだ。

終戦まで一家は満州国境近くの羅南(ナナム)で暮らしていた。戦時中だからあまり贅沢はできなかったようだが、それでも大学出の満鉄官吏に相応する暮らし振りだったようだ。まあ、今日で言えば大手会社の海外駐在員の暮らしぶりを想像すればよいのではないかと思う。

 

この一家の父は不在がちである。満州勤務の父は勤務の合間に家族の所に帰っていたのだが、戦争末期になるといっそう不在が増した。

久しぶりに帰ってきた時は兄と一緒に防空壕を掘り空襲避難の準備に追われた。もしもの時の為に冬のコートを忘れないようにということが最後の手紙で指示されたのだが、北朝鮮に残された一家はむしろ大袈裟なことと思っていたようだ。

 

敗戦時の引揚げ体験をテーマとする本やドラマは決して珍しくはない。日本人に限らなくても、旧植民地に対する限りない追想を素材にした物語も多い。

 

だが、彼女のストーリーは従来の引き揚げ者のものとどこか一味違うのである。

 

まず、冒頭に出てくるのは、父いない留守宅に突如現れた日本の憲兵達である。彼らは金持ちの家族から金銀、宝石類を強制没収しにきた。母の金縁のめがねを容赦なく取り上げた憲兵の手にヨーコは噛み付いた。おかげで彼女は軍靴で胸を蹴っ飛ばされ、意識を失ってしまったのであった。

 

さらに予科練事件というのある。

 

ヨーコの兄は家族に黙って予科練を志願した。それに対して母は大反対。ついに二人は口を聞かなくなった。当時は予科練のイケメンぶりが軍歌となり大ヒット、当然若者の間であこがれの的になっていた。しかし、現実には、彼らは人間魚雷などのカミカゼ攻撃に使われたので彼らの死亡率は異様に高かったのだ。

まず姉が、兄は予科練に入るべきではない、兄がいなければ誰が母と私達を守るのだ、父が亡くなれば誰が家の名を継ぐのだ?と直談判した。

 

「予科練に入って死ねば、国は栄光なることだといってお兄さまを英雄と奉り立て、お母さまには勲章を下賜するでしょうが、お母さまは本当にそれがおのぞみだと想うの?・・・・今日、私はまた学校で防空訓練をした。その時一緒に、陸軍病院の傷病兵も訓練を受けていた。全員、顔色も悪くまだ満足に回復もしていないのに。その中にはあのマツムラ伍長がいたわ。そういう人達を戦場に送り返さなければならないくらいだから、この戦争は負けよ。お兄さまは自分の命を捨てに行くだけよ。もしそれでも行くというのなら、私、お兄さまとは縁切りよ、もう死ぬまで絶対口きかないから!」

「私もよ、」と私(ヨーコ)、「絶対!」

「女共に指図は受けない!出て行け!」と兄は怒鳴った。・・「いいか、俺がちゃんとかたをつける。」

 

しばらくして、陸軍司令部からの父宛の通達が届いた。父と兄がいなかった為に、母が封を開いた。兄は筆記試験で見事に不合格となったのだ。通告によると、兄はとても愚直だから軍では使い物にならない、かわりに20マイル離れた弾薬工場で週六日働けというのだ。ごていねいに間違いだらけのテストも一緒に返送されてきた。

兄が筆記試験で故意に間違った答えを選んだのは明らかだった。

たちまち、母娘達3人大笑いとなった。

 

ところが、兄が泊りがけで弾薬工場に出発したその日の夜遅く、マツムラ伍長が突然やって来た。明日の早朝4時に陸軍病院全体がソウルに避難するので、彼らと一緒にソウルに行くように、すでに話はつけた、というのだ。寝耳に水の家族は最初は驚き困惑。しかし考え直して言われた通りに母娘3人で出発することに決めた。兄にはソウル駅で再会しようという置手紙を残した。時は7月29日、敗戦の半月前だった。

 

暗闇の中を重いリュックを背負い夏なのに冬のコートを着込み、紐で手首を結び合って母娘3人は長年住みなれた家を出た。徒歩で河にそってナナム駅に向かった。その途中、三人は共産ゲリラ兵士の一隊に遭遇、すばやく草叢に身を隠した。彼らは朝鮮語でいかにして敵を殺し、死体を河に投げ込むかを話していた。

駅にたどり着いた母娘3人を待っていたのは、ユダヤ人が詰め込まれて収容所に運ばれたあの列車と決してひけをとらないしろものだった。

 

彼女たちは、女専用の貨車に載せられた。ぎゅうぎゅう詰めの上、トイレは隅に置かれた二つの桶だった。尿用と便用である。ソウルまでは2日3晩の旅であるが、緊急だから誰も水や食料を用意している様子はなかった。ヨーコ達は自分たちの持ってきた水筒の水を隣人と分け合い、ひそかに母が前もって用意しておいた非常用の干し魚の切れ端を噛んで飢えをしのいだ。

 

夜になって、汽車は長いトンネルに入った。貨車にはドアがなかった。たちまち、車内に黒煙が吹き込んだ。それを吸い込んだヨーコは呼吸困難の為に失神してしまった。看護婦に頬をひっぱたかれて意識を回復、しかし、他の人達はそうラッキーではなかったのだ。隣にいた赤ん坊が死んでしまい、母親は大声で泣き叫んだ。

 

衛生兵は手に持っていたリストから名前を線で消し、こちらで後始末するから死んだ赤ちゃんをよこすように告げた。主人公は、いったいどうやってこの小さな死んだばかりの赤ちゃんを後始末するのか、とても不思議に思った。

母親はそれに抵抗しやってきた夫にしがみついて、この衛生兵が私の赤ん坊を殺した、この男が私の赤ん坊を投げ捨てようとしている、と叫んだのだ。

 

衛生兵は力ずくで赤ん坊を母親の手から奪い取り、何と貨車のオープニングからひょいと投げ捨てたのだ。若い母親はよろよろと立ち上がり、赤ん坊の後を追い、貨車から身を投げた。たちまち恐ろしい断末魔の叫びが聞こえた。

 

投げ捨てられたのは、赤ん坊だけではない、死者は皆こうして貨車から投げ捨てられた。おかげで車内には少し余裕ができた。

ヨーコは、何も見ない、聞かないようにという母の命に従ってひたすら両目を閉じていた、が、肩になにか冷たいものを感じて、起き上がろうとしたが、母に止められた。隣に寝ていた妊娠していた女の人が破瓜して羊水が流れ出たのであった。

 

こうして生まれた赤ちゃんに使う水もないので、何と赤ちゃんはあの桶にたまった尿で血まみれの体を洗われた。

 

汽車が停車した。衛生兵が看護婦に、朝鮮共産軍がこちら来るぞと忠告した。

看護婦があの尿桶から胎盤を取り出して、寝ている姉のお腹の上に置いた。看護婦は姉に大きなシーツをかぶせると、動いてはいけない、と命じた。

・    ・・・看護婦と衛生兵は気が狂ったようなことをした。先ほどのお産で血に染まった私のシャツで母と姉の顔をふいた。彼らの命令で私はその血でよごれたシャツをまた着て横になった。・・・・

朝鮮共産軍の制服姿の二人が現れた。まずい日本語で、

「我々は健康な日本人乗客を探している。中年の女と二人の少女、19歳の少年だ。ナナムから乗り込んできた。カワシマという名だ。」

衛生兵は、そんな女性はここにはいない、ここにいるのは皆病人の女子供だ、と答えた。

 

兵士が銃の先で私の背中をついた。看護婦は、「この子の背中にはひどい傷があるのです。」

姉のところでは、兵士がシーツの下をのぞいた。「この女は赤ちゃんがうまれるのか?」

「もう生まれそうです」と看護婦が言った。兵士は母を見て、この年寄りのどこが悪いのかと尋ねた。

「この人は天然痘だ、近寄らない方がよろしいかと。」

すると慌てた兵士達は急いで貨車から飛び降りた。

 

今日では天然痘ウィルスは絶滅され病気もなくなってしまっているが、当時 高い致死率で非常の恐れられたのがこの感染病だ。運よく回復すれば、傷痕として醜いアバタが顔に残ることでよく知られている。