chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

A Town Like Alice :日本軍の捕囚達 (3)


A Town Like Alice Trailer

しかし翌日このジョーは老弁護士のオフィスに現れなかった。良心の呵責にかられたのはこの老弁護士の方だった。

実は、ジョーの方は、今や大金持ちになったジーンに結婚を申し込み、オーストラリアの未開地に一緒に住んでくれということはとても出来ない、と判断してすべてを諦めることを決心。ヤケクソ気分でロンドンのとあるパブで酔っ払って大立ち回りを演じ、警察のお世話になっていたのだった。

 

というように二人の曲折的ロマンスはそれ以後も延々と続くのだが、最後はハッピーエンディング。だから読者の満足度も非常に高いわけだ。

 

この本はウィークエンドに最適な長さだ。大衆向けとしてよく書けているせいか、こむずかしい屁理屈抜きでストーリーがスラスラとアタマに入ってくる。

そのせいで、今日でもなおアマゾンやグーグルにポジティブな読者レビューが寄せられているのだ。

興味深いのは読者多数はこの作品のテーマをカルチャー・クラッシュ、つまり異文化の衝突、ととらえていることだ。英国、オーストラリア、日本、マラヤといった国や人種別だけでなく、文化の衝突は社会内部でも起こっているらしい。

 

ナレーターの老弁護士は完璧なイギリス紳士である。戦前に妻を亡くした後は独身を通し、ロンドンの快適なマンションで気楽な独り暮らし。仕事を終えれば会員制紳士クラブで社交ブリッジやワインを楽しみ、ディナーもたいていはもそこでとる、といったような。

だから自分の息子よりもはるかに若いジーンに恋してしまっても決して彼から告白することなどは出来ない。傍若無人のジョーに嫉妬を感じながらも、後見人としてのプロフェッショナルな立場にひたすたとどまってジーンの町おこしビジネスの資金の面倒を見る。

もし自分が20年若かったら、という思いを心の奥底にじっと秘めたまま。

 

TVミニ・シリーズでこの老弁護士を演じているのが、英国きっての名優のせいか、彼の片思いがいっそうせつなく際立ってしまったようだ。

しかしながら、この老弁護士、おそらく著者自身の投影か? への読者による評判は全く芳しくない。どうしようもなくアタマの混乱したお気の毒な人、といった見方が圧倒的だ。

しかも、この老弁護士のナレーションのせいでストーリー自体が爺くさくなって台無しだという非難まで寄せられていたのには驚かされた。

この老弁護士の特権階級にありがちな常に下を見下すような態度、これはきわめて社会習慣的なもので彼のせいではないのだろうが、特に民主社会に育った現代人は自然と反感を感じてしまうものらしい。

 

実はこの本の半分以上はオーストラリアが、それも文明を遠く離れたアウトバックと呼ばれる未開地帯が舞台となっている。英米の読者達は彼等の知らなかったオーストラリア文化に魅了され、口のなかでモグモグのオーストラリア英語は実にチャーミングということになってしまっている。

目玉焼きがステーキの上に乗っかったのが、オーストラリア式朝食とは。これで勝負はついたようなもの。

 

ところで1956年製作の映画にはこのオーストラリアの部分、つまりストーリーの後半がすっぽり抜けている。要するに、前半の日本軍捕虜物語が主題となってしまっているわけだから、『マラヤのレイプ』という何か意味ありげな副題付きで公開されていた。

これでは、『アリスのような町』というタイトルは一体何なのだ、と思ってしまう。

 

日本には古い洋画ファンが多いらしい。本を読んだことはないらしいが、この映画を見た人がネット上にかなりいた。

醜い顔つきの東南アジア系俳優をことさら選んで日本兵を意図的に悪役に仕立てているという批判が映画を見た日本側から出ていた。

それと、この映画は史実と違う、という日本側からの例のお決まりの批判も。

 

ところで意外にも英米読者多数は、作品中に登場する日本兵についての著者の描写はフェアだと思っているのだ。TV連ドラの方も原作に沿っている。

要するに日本兵達は占領軍として上から命令された事を遂行しているだけなのだ。ただし、彼らは外国語がまったく通じない、西洋文化・風習を知らない人々であり、彼らの行動は日本の文化的標準に他忠実に従ったもの、という解釈だ。

つまり、文化自体が残虐であれば、人々も残虐な行為を行うというわけだ。

 

これでは問題が、チキンとタマゴならぬ、人が先か文化が先かという堂々巡りになってしまう。

 

原作、映画、TVミニ・シリーズでも、一行に配置された日本兵達は個人的には非常に親切であり、子供達を抱えて歩いてくれた、となっている。

 

実は“心やさしき日本兵”というのは、この本だけの特許ではないのだ。

何と、韓国系米人の誇るチャンネ・リーによる慰安婦をテーマとした大作、“A Gesture Life”の主人公の元日本軍仕官 ‟はた氏”も典型的な“心やさしき日本兵”であった。

 

一行に最後まで付きそった年配の軍曹については、捕虜達はすっかり弱った軍曹の所持品を肩代わりして運んだり、軍曹の家族の写真を見せてしっかりするように励ましたりしているのである。亡くなった際にはお墓の前でちゃんと葬式まで行っている。

 

黒チキンを盗んだ罪でジョーを磔にした日本軍の隊長については、非常に残忍な性格の持ち主として描かれている。そのことは地元住民のマラヤ人達の口から明らかにされる。マラヤ人の村の男達は日本軍に徴集されて労役に狩り出された。当然のことながらこの本の中では誰も日本軍がマラヤの独立に導いたと賞賛するものはいない。

 

ジーンには実在したモデルがいた。

実際にこの事件が起こった場所は英領マラヤではなかった。

事件はオランダ領インドネシアのスマトラ島で起こった。従って一行は英国子女ではなくオランダ子女である。一行の総数は80人あまり。何と2年半にわたり歩き続け、この行進が終った時には半数以下の30人に減っていた。

 

同様に処刑されたオーストラリア兵捕虜のモデルとなった人物も実在していた。

この人はビルマ・タイ鉄道建設の強制労働に従事させられた。そこで牛を殺して囚人仲間を養おうとしたという罪で両手を鉄条網で縛られ木から吊り下げられた。そしてバットで長時間に渡り殴打された。この兵士が右手を鉄条網からはずしたのを日本兵に見つかってしまった。今度は罰として右手に鉄条網が打ち込まれた。この手の処刑のやりかたは日本軍の得意とするところであったらしい。

彼の処刑仲間は皆その場で絶命したが、彼だけ奇跡的に生き残り故郷のオーストラリアの奥地に帰還、日本軍の捕虜帰還兵として有名になった。

 

なお、捕虜の磔事件については第一次大戦中に実際に起きたことだそうだ。こちらの方は第一次大戦後よく知られた事件だったそうだから、第一次大戦に参加した著者はよく知っていたはずだというのが研究家の見方。

下手人はドイツ軍。しかしこれには因果関係がからんでいるといわれている。

ドイツ側の毒ガス使用に怒ったカナダ兵達がドイツ兵捕虜を殺害、それを知ったドイツ側がカナダ兵捕虜を磔にし殺害したのだそうだ。

 

戦争という異常な状況下では人間も正常ではいられない、ということなのだろうか。これは比較文化より精神病理学の領域だ。

A Town Like Alice : 日本軍の捕囚達(2)

 


A Town Like Alice

“ジーンとジョー”は、日本版の“太郎と花子”。

全く若平凡な若い男女の、しかし戦争という全く普通とは言えない状況下での出会い。

この若い二人の心の間に何かが通じた。

 

おかげでジョーは異様にハッスル、もうすぐ修理の終る筈だったトラックも同じ村でジーンと一夜過ごせるならという理由からその日は全く動きそうにない。

 

ジーンに頼まれて、一行のサバイバルに必要なマラリアの為のキニーネ、下痢止めの薬に皮膚疾患のクリームを村の華僑の店主から手に入れてやった。代金はトラックのタンクからこっそり抜き取った貴重なガソリンだ。彼によれば『日本軍のギフト』だそうだ。

その後トラックはガス欠で立ち往生だ。

彼の方はそれ以後も懲りる事なく盗んだ日本兵のブーツと石鹸を交換したり、飼い主の華僑から逃げ出した豚を密猟してその肉をジーン達一行に送り届けるなどして相変わらずの多忙の日々。

ジーンの一行の英婦人達は、ジョーのことを“ジーンのオーズィー”( オーストラリア男aussi  の英国式発音)と呼んで彼女をしきりにからかっていた。 

 

どうかこれ以上危ない事はやめるようにとジーンはジョーに嘆願をかさねるのだが、『アンタ達は捕虜なのだから手に入るものは何でも利用して生き延びるこった』と、止める気などはさらさらない。

そのきわめつけが黒チキン窃盗事件とあいなった。

 

その村に駐屯した日本軍の司令官は先住者の英国人役人から取り上げた英国産の黒チキンを鳥小屋で後生大事に飼っていた。総数20匹だがその内5匹をジョーはコソ泥しジーンに届けたのだ。

チキンというのは英国人にとって日本人の魚に匹敵するようだ。彼らは産地や味になかなかうるさい。この極上チキンに彼女達はもちろん大喜び、意気揚々と羽をむしって料理にとりかかった。

しかし、宴の後に見事に発覚、泣く子も黙る憲兵にしょっぴかれた。

 

尋問に当たった日本兵はジーンの頬に容赦なくビンタを喰らわせ白状をしいた。

ジーンとしては、あらかじめ皆と申し合わせていたウソの一点張り。

チキンはジョーからだ、とは口が裂けても言えない。

そこにトラックで駆けつけてきたのはジョーだ。全責任は自分にあることを宣言、ジーンには何の関係もないと言い張った。

司令官の命令により、黒チキン窃盗の罪で彼は両手を釘で木の枝に打ち付けられ、背中を鞭で死ぬまで殴打された。ジーン達捕虜一行は強制的に刑の執行に立ち会わされた。

 

その時自分の中で何かが死んだ、とジーン。私は突然70歳の女性になった、と。老弁護士に語るジーンの顔には涙が浮かんでいた。

 

刑の執行後、彼女達は再び炎天下の行進を強いられた。今度はマレー半島の湿地帯を徒歩で横断するウルトラ長期旅。暑さとマラリア、下痢でたちまち残っていた子供達が死んでしまった。やっとそこを抜けた頃には、チキンを食べた罰として一行に付けられていた唯一人の日本人軍曹まで行進の犠牲となってしまった。

 

軍曹が亡くなった村でジーン達はマレー人の村の長老と交渉することになった。彼女ら一行が水田で稲作りを手伝うことをひきかえとして食と屋根を提供してくれないか、そこに戦争が終わるまでとどまれないか、と。

働き盛りの男達は日本軍に徴集され、老人と女子供が残された村では来るべき食料不足が予想されていた。

しかしジーンから話しを聞いた村の長老は目を丸くして驚いた、白人のご婦人方(white mems)が水田で働くことなどとは未だに聞いたことがない、と。

そうなのだ、戦前の白人のご婦人方は、大きな家に住んでたくさんのサーバントにかしずかれて暮らしていたのだ。

しかしジーンは、私達はただの日本軍の捕囚、このまま歩き続ければ皆死んでしまう、この戦争を生き残る為には働いて食べ物を得なければ、と長老を必死に説得。

彼らが敬虔で慈悲深いイスラーム教徒だったことも幸いして、一行は村人に受け入れられた。

 

ところでその村には井戸がなかった。女達は朝夕二回歩いて一時間ぐらいのところから湧き水をバケツにいれて家まで運ばなければならなかった。

 

彼女は遺産を使い念願のマラヤ再訪を果たした。

彼女は、一行が三年あまり住んだ村に自費を投じて井戸を掘った。

ところがである、偶然その井戸掘り人夫の一人にあのジョーが処刑された村に親戚がいた。そのマレー人は残忍な日本軍司令官と白人捕虜の処刑の話を親戚から聞かされて憶えていた。あの白人捕虜は処刑を生き残った、長い間病院にいたが、やがて回復しどこかへ連れ去られた、と。

 

                 

 

1942年のその日の夕方、あの捕虜にまだ息があることを軍曹が隊長に報告した。

興味を引かれた隊長は、ただちに昼間捕虜が処刑された広場に向かった。

 

西洋人が日本的思考過程を理解することは不可能に近い。

死に間際のオーストラリア兵が明らかにこの隊長の存在を間近に認めた時、この日本人は引き裂かれた捕虜の身体に向かってうやうやしくお辞儀をした。そしてまことに真摯な口調で尋ねた。

「死ぬ前に何が欲しいものがあれば言ってみろ?」

オーストラリアのカウボーイの声は驚くほどはっきりしていた。

『この血に飢えたクソ野郎。アンタのあの黒チキンと、ビール一本を頂こうか。』

隊長は血まみれの塊に化した男に無表情な一瞥を与えた。

それから軍隊式に踵を揃えて回れ右、元来た方向に戻っていった。

家に入るやいなや、彼は部下を呼び、ビールとコップ見つけてこいと申し付けた。ビールの栓は開けないように念を押す。

ここにはビールは無い、と部下は隊長にその場で報告。隊長もそれをすでに知っていたのだが、それにもかかわらずこの部下に村中の華僑の店を一軒一軒まわらさせビールを探させた。

一時間後に戻ってきた部下は、同じ椅子に座ったまま辛抱強く待ち続けていた隊長を発見。ビールを見つけることができなかった事を報告し、わかった、という一言にほっとしながら隊長の面前を辞去。

この隊長にとって死は儀式なのだ。死ぬ前に彼の犠牲者に末期の望みをかなえることが儀式を聖なることにならしめている。

もし、ビールが見つかっていたならば、当然英国産黒チキンを料理させ、彼自らが死につつあるオーストラリア兵のところへお膳を捧げもって行ったはずだ。それは彼の武士道を部下達にみせつける絶好の機会であった。

残念ながらビールはない、だから、チキンを殺すのは無駄、というわけで儀式は中断、死ぬ筈だった捕虜の死も中断だ。というのはここで捕虜が死んでしまえば恥をかくのは隊長である彼の方になってしまう。

隊長は早速軍曹に命じて捕虜を木から降ろして現地の病院に送ることを命じた。

 

 

ジョーは日本軍に処刑されたとばかり思い込んでいた。しかし今やジーンはジョーが戦争に生き残ったことを信じて疑わなかった。彼女は急遽予定を変更、マラヤからオーストラリアへ飛んだ。

ジョーが必ず帰ると語っていたオーストラリアのはるかな辺境にあるという彼のキャトルステーションをとりあえず訪れて見ることにした。その地に行くには辺境の町、“アリス・スプリング”を基地としていたセスナで飛ぶこと意外には方法はなかった。この小説の題名、『アリスのような町』のアリスとは、アリス・スプリングのことなのだ。アリス・スプリングは辺境地への基地だった。さらに奥地にむかう人々はそこで電気、電話、水道、手紙、ラジオなどの現代文明と別れを告げなければならなかった。

 

話を先に飛ばすと、ジーンはジョーと所帯を持つ未開地で彼女の遺産を使って近くで町おこしをし、その町をアリスのような文化生活の拠点、人々の憩いの場としたかった。文明の恩恵を受けない不自由な生活にもメゲない素朴で勇気に満ちた住民達を助けたいというのが彼女の願いとなった。だからその町をアリスのように、というわけだ。

 

一方、ジーンが彼を探してオーストラリアに渡ったとはつゆ知らず、ジョーの方はロンドンにいたのだ。彼もジーンを探していた。何というスレチガイ!

彼はまずジーンの父方の叔母を探し当て、彼女から教えられたかの老弁護士をロンドンのオフィスに尋ねた。

 

ジーンは唯今旅行中、顧客の住所はおいそれとは教えられない、手紙を彼女に送るから翌日の正午に持ってくるようにと実に横柄な態度の老弁護士。二人の事情はよく知っている筈なのに。もちろん若い男に対する嫉妬が働いていたのだ。

その上ジーンは遺産を相続し大変富裕な身分であること、なぜすぐにジーンを探さなかったのか、とジョーの動機を疑うような態度にさえ出たのだ。

 

結婚しているものとばかり思っていたので彼女の後を追うことができなかった。そうでない事を知ったのはつい数ヶ月前のこと。偶然に、辺境の町のバーでセスナのパイロットと一緒になって話に花を咲かせているうちに、シンガポールまでジーン達一行を載せたと彼がいったからだ。本人が気がつかないうちにジーンはちょっとした有名人になっていたのだ。

それを聞いて矢も立てもたまらず、その年の牛を鉄道駅まで送り届ける事をすませるやいなや、将来家畜ステーションを買おうと思っていた貯金をはたいてカンタス航空でロンドンへ直行したという。

 

 

A town like Alice : 日本軍の捕囚達


A Town Like Alice Trailer 1981

  You Tube  を勝手気ままに検索していたら昔なつかしいTVミニシリーズを見つけた。

その名は“ A town like Alice”、日本語訳は『アリスのような町』。

原作は1950年出版となっている。

作者は英国人のNevil Shute ネビル・シュート。彼による他の作品、『渚にて』と『パイドパイパー』の二作については早くから日本語訳が出版されているのだが、、、、

 

原作は1956年にイギリスで映画化され大ヒット、その年のカンヌ国際映画祭に出品されるはずだった。しかしこの映画は少なからぬ問題をまきおこした。

それがもとでこの映画の出品は開催間際になってドタキャンだ。

主人公を演じた名優ピーター・フィンチはすでにカンヌに乗り込んでいたのだが、カンヌが何だ!と憤慨やるかたなし。

 

日本語ネット上では日本政府の抗議が原因だという一点張りなのだが、不思議な事に英語界では事情がかなり違う。

当時日本政府は抗議した覚えはない、とまで言っていた。一体どうういうことなのだろうか?

どうやら真相はイギリス側が自主規制を行ったということらしい。理由は、相手国側を不快に陥れるような映画を出品してはならない、というカンヌ映画祭りの原則に従ったというのだそうだ。

 

それにもかかわらずこの映画は目立たないようにしてカンヌで上映された。

当時のニュース記事のクリップには、カンヌを訪れた匿名希望のある日本女優の、この映画を見て涙を流さずにはいられなかった、という感想が報告されていた。

 

それから24年も経った1980年には英BBCがオーストラリアTVと組み超ミニシリーズ(連ドラ)と銘打ってリメイクだ。

今度は、英国(スコットランド)、マレーシア、オーストラリアと3国に渡って大掛かりな海外ロケをおこない、原作をかなり忠実にドラマ化したのでのべ5時間に渡る超大作。

これが放送されるとたちまち世界中で大ヒット。

おかげでオーストラリアの一介の俳優にしか過ぎなかったBryan Brown は一夜明ければ国際級大スターだ。

 

私が昔見たのもこのTVミニ・シリーズの再放送であったのだが、全部は見ていなかった。今回はじめて最初から最後まで見ることができてマンゾクこの上ない。

それでことのついでに原作も読んだ。おまけとしてやはりYou Tubeに載せられていた、かのいわくつき映画の方も見てしまった。

 

作者の方は1960年に亡くなってしまい、彼の著作の多くは忘れ去られようとしているのだが、この本だけは60年後の今日に至るまで世界中で愛読され続けている。まことに作者冥利に尽きる話だ。

 

しかしそう手放しで喜んでばかりはいられないのは日本側だろう。

 

この本の日本語訳は2000年になって出版されたのだが、何と素人の翻訳で日本図書刊行会という、本を出版したい人を相手にする出版社からだそうだ。

 

前回に書いた『竹の森遠く』と同じく、この作品には“戦争を知りたくない日本人”にとってまことに不都合な内容が含まれているせいだろう、君子危うきに近寄らず、といったところか。

 

ところで、Amazon  Japan の読者レビューはゼロ。果たして日本語訳を読んだ人はいるのだろうか?と思ってしまう。

 

 

ストーリーはある年老いたロンドンの弁護士によって語られている。

 

話は第二次大戦前にさかのぼる。彼がスコットランドの山奥のホテルで引きこもり生活を送っていた富裕なスコットランド人独身男の遺言を依頼されたのがはじまりだった。

そもそもこの男の金は事業で大儲けした父親から相続したもの。金さえあれば引きこもりなぞなんのその、さすが英国の階級社会だ。

 

さて、戦争のどさくさでこの顧客のことなどすっかり忘れていたところ、彼がついの住みかにしていたホテルの主人からこの客の突然の死を知らされた。

 

戦前、この顧客は自分の資産のすべてを彼のただ一人の妹に、妹が亡くなっている場合は妹の息子、つまり彼の甥に、甥が亡くなっている場合は妹の娘である姪に、ただし女だから35歳まで弁護士の後見つき、と遺言していたのだった。

 

老弁護士は早速相続人である顧客の妹をの行方を探した。ところが彼女はロンドン空襲中、避難先の防空壕で心臓発作をおこしてすでに亡くなっていた。彼女の息子の方は英領マラヤのプランテーション経営会社の社員であったが戦争中英軍将校として日本軍の捕虜となり、あの悪名高いタイ・ビルマ鉄道建設に狩り出され、そこで飢餓とマラリヤの為に亡くなっていた。

最終的相続人である姪のジーンはロンドン市内の高級靴・ハンドバッグ製造会社のタイピストとして働きながら小さな屋根裏部屋でひっそりと暮らしていた。

 

ジーンというありふれた名前のように、器量も頭もまったく平凡な小娘だった。

老弁護士の方としては、彼女のような世間知らずの小娘が大金を手にすることからくる数々のトラブルが事前に予想され、あまりありがたくない役目を負わされたと思っていた。

とにかく仕事上の役目から、たくさんの金をどういう風に使うつもりかね、と彼女に尋ねた。

ところが、彼女の口からは「私はまずマラヤに帰ってそこで井戸を掘りたい、世話になったマラヤの村に何か恩返しがしたい。」という全く予想外な返事が返ってきた。

老弁護士はこういった未婚の相続人にありがちな結婚トラブルも当然予想していたのだが、将来結婚するつもりはない、という年頃の若い娘には全く似つかわしくない言葉にも驚かされた。

 

後見人として彼女の相談相手をしているうちに、マラヤで日本軍の捕虜となったジーンの極めて凄惨な体験の一部始終を聞くことになってしまった。しかも聞き終わった時には何とこの老弁護士は年甲斐もなくすっかり彼女に恋してしまっていた。

 

マラヤの英国人達は日本軍が目前に現れるまで優雅な植民地生活にしがみついていた。クァラルンプールの兄の会社でタイピストをしていたジーンも当然そのおこぼれにあずかっていたわけだ。

 

ある日突然全員シンガポールに退避するようにという通達。しかし、子供連れの友人夫妻のことが心配で、まず彼らの屋敷を訪ねその家族共々退避する途中、マレー半島を迅速に下ってきた日本軍の捕虜となってしまったのだった。

男たちは捕虜収容所に、総勢31人の女性と子供達は日本兵三人に引きつられて、幻の女子収容所に向かって徒歩で行進を強制させられた。日本軍の与えた食料はすべて現地徴収。現地米の煮たものと魚のスープだった。たちまち疲労、飢餓、マラリヤ、下痢が一行を襲った。現地駐屯の日本軍には、女子の集団はやっかい荷物であった。あっち、こっちとひきずりまわされ、七か月ものホームレス生活で31人のうち半分が死んでしまうという惨状ぶりだった。

 

もともとジーンはマラヤで生まれマレー人のばあやに育てられたせいでマレー語が達者だった。

その上植民地育ちの人によく見られる異なるカルチュアの中で生きる知恵みたいなものが彼女には備わっていた。

そこで自国語以外は全く分からない日本兵達とマレー人との橋渡しとなった。また、日本兵との交渉も彼女が当たり、未婚で年下なのにもかかわらず一行のリーダー格となってしまっていた。

 

ある日ジーン達一行は日本軍のトラックを修理している二人の白人を遠くから見かけた。白人男性を見たのは何と二ヶ月ぶり、一行はおもわずトラックに向かって駆け出していた。

 

「クソ汚い小人(=Nip=日本人の俗称)にクソ汚い女達をどけるようにいってくれ。これじゃ日が遮られて見えやせんぞ!」というきわめて下品な英語が車体の下から響いた。

「そのような言葉使いはただちに止めなさい、そこの若い方!」と一行の中で教師をしていた年配女性がさっそく注意に及んだ。

男達二人にとっても本物の英語は、とくに女性のは、晴天の霹靂。ただちにトラックの車体の下から這い出し、集まった女達子供をしげしげと見回した、白人なのに皆褐色の肌をしてマラヤ人のような腰巻をつけしかも素足の女達。

「誰か英語が話せるか?」

「私たちは皆英国人ですよ。」とジーンが笑いながら答えた。その時彼女も腰巻姿、しかも褐色の裸の赤ちゃんをマレー女のように腰にかかえて運んでいた。 

 

“Dinky-die?” ( ホンマかいな?=オーストラリア方言)

同じ英語には違いないがジーンにも意味のわからない言葉だった。

 

「安心しな、俺たちは“オーシー”(俗語でオーストラリア人)だ。」

日本軍の捕虜となったオーストラリア兵達だった。

二人のうちのジョーと名乗ったこの男が、赤ちゃんずれのジーンに

“Mrs. Boong”というからかい半分のニックネームをつけた。

 

“Boong”というのは、オーストラリア人が現地先住民を呼ぶ俗称だそうだ。今日の標準からいえば、かなりクレームがつくのではないかと思われるが、この本は戦後の1950年に出版されたことを思えば無理もないだろう。意味としては、“土人の奥様”となるので、あまり感心はできない。

 

しかしジーンは男に未婚だとわかると面倒になると思い、『奥さん』と呼ばれることを否定しなかった。それどころか、自分から進んで夫は日本軍捕虜として連れて行かれたとウソまでついた。彼女がマレー人の様に腰に抱えていた赤ちゃんは実はこの行進の犠牲となった彼女の友人の忘れ形見だった。

甦れ!マルクス

1991年のソ連の崩壊により、マルクス主義は死んだ、とさえ云われるようになった。
しかし2008年後期に始まった大不況で、再び甦りを期待する人々がふえたという。ただし、今日、プロレタリアート=低賃金の為に私有財産を持てない階級、は死語となり、プレカリアート=職の不安定な勤労者達、がとって代わったそうだ。
 
カール・マルクスは、国家的共産主義の提唱者として、疑いもなく20世紀に最も影響力のあった思想家である。
マルクスが唱えた共産主義は、まず革命が前提となる。その後に到来するのが、革命政権による私有財産の廃止である。すべては国家に属するのだ。だから、国民は皆、真の“プロレタリア”になる。生産手段を国家に取り上げられた人間は、国家に服従せざるを得ない。
国家権力に比べれば、ブルジョワ工場主の力などは問題にならない。反対者には厳罰が待ち受けるのみ。 “国家的共産主義”は、人間の解放どころか、国民の奴隷化と反対者の大量粛清をもたらした。
これが20世紀を通しての恐るべき現実であった。
そして、マルクス主義の没落という形で20世紀は幕を閉じた筈であった。
 
マルクスは1818年、ドイツのトリアというモーゼル河畔の古都に生まれた。ドイツに旅行した際にマルクスの生家を訪れた人も多いのではないだろうか。
マルクスは正真正銘ユダヤ人の直系であった。
 
ヨーロッパのユダヤ人は固有の宗教経済共同体を形成していた。要するに国の中の国であった。ユダヤ人居住区はゲットーと呼ばれた。そこでは宗教指導者であるラビが政治的力影響力を持っていた。
マルクスの父方母方の祖父がトリアのラビを務めていた。マルクスの父方の叔父もトリアのラビを務めた。母方の祖先からは有名なユダヤ教神学者が輩出していた。母方の叔父はオランダの富裕なバンカー、要するに金貸し、であった。彼の息子、すなわちマルクスの従兄弟、は今日世界的な電気器具メーカーとして知られているロイヤル・フィリップスの創業者であった。この叔父にマルクスが妻を使いにたてて金を借ろうとした事が残された手紙により知られている。
 
浅黒い肌、濃い黒髪、頑強な体格、と彼には中東系のエキゾティックさがあったらしい。妻となった貴族令嬢イェニーはマルクスを “モール” と呼んだ。それが彼の愛称となった。
モールとは、かってイベリア半島を占領したアラブを指していた。
 
彼の死後に問題となった私生児の存在であるが、マルクスの私生児とされたフレディ・デムートの父親似の容貌が決め手の一つになった。
 
ところで、日本でもだが、多くの人がマルクスを “ユダヤ人思想家” として位置ずけようとした。それは果たして正当なのだろうか?
思想の特異性からよく一緒に並べて槍玉に上げられるのが、精神分析の父と呼ばれるユダヤ系のフロイドである。これには反ユダイズムという政治的思惑がからんでいる。
似たような試みに、マルクスの思想はユダヤ教的世界観の知識なくしては決して理解不可能だ、という選民思想的なものもある。
 
いずれにせよ、マルクス自身は無神論者であった。彼の三人の娘達も無神論者、盟友のエンゲルスも同様であった。
 
マルクスの父はトリア市の弁護士であった。トリア市はフランスに近い国境の街である。その為、フランス革命に影響され、革新的気風が強かったといわれる。一時的にではあれ、ナポレオン軍に占拠された。その間にマルクスの父は弁護士の資格を得た。しかし、翌年には、ナポレオンはワーテルローで大敗を喫しトリアは再びドイツ、プロシア王国領、に戻った。
 
プロシア王国はいまだに絶対王政を固守、軍事力増強による領土拡大政策、それが国力隆盛に繋がるという旧体制そのものといった国だった。日本の明治政府を思い起せばよいのだ。明治憲法はこのプロシアの憲法を学んで作成されたと教科書に載っていた。
 
しかし日本と同様に、人々は自由を求めていた。隣国フランスでは1789年の大革命で絶対王制が倒れ、国王と王妃のクビが飛んだ。おかげで人間は生まれつき自由であり、法の下では皆平等であるべし、という革命的考えが、ヨーロッパ中に広まった。
 
トリア市がプロシアに併合されると、かってのユダヤ人に対する規制がすみやかに復活することになった。ユダヤ人の公職追放、ユダヤ人弁護士の禁止であった。
 
同僚達のドイツ人がこの人の為にプロシア政府に嘆願書を出したくらいだから、マルクスの父は非常によく出来た人物だったのだと思う。
そういう事情で父親はキリスト教ルーテル派に改宗してしまった。ただし、進歩的な彼自身はすでにユダヤ教信仰をやめていたといわれている。
名前もクリスチャン風にハインリッヒ・マルクスに改名した。母親もラビだった父親が亡くなるのを待って、夫と同様にルーテル派に改宗した。
 
マルクスは長男であり、姉妹が3人あった。父親は早くから彼の頭の良さに注目していた。だが、マルクスと母親との関係は冷たいものと見なされている。
 
大分後になってからだが、エンゲルスの同棲相手が死んでしまった。酒と女、特に下層の女に目のなかったエンゲルスはこの女工出身のアイルランド女を彼なりに愛していたらしい。マルクスに悲嘆の手紙を書き送った。それに対して、マルクスは、いかに自分と家族が困窮生活を送っているか、もし代われるものなら、自分の母に死んで欲しかった、と返事を書いたのだ。これがエンゲルスを非常に怒らせた。マルクスとの縁切りまで考えたそうだ。
 
父親はマルクスが大学で法律を修得し、弁護士になる事に決めていた。
マルクスは学費の高いギムナジウムに入学、5年間かかって大学入学の準備を開始した。
マルクスがギムナジウム在学中に得たたった一人の親友が、トリア貴族の息子、エドガー・フォン・ウェストファーレンである。マルクスはエドガーの家庭に出入りするようになり、博学な彼の父からロマン派文学を薫陶された。そして、エドガーの姉、4歳年上のイェニーと恋に落ちた。
 
ギムナジウムを終了し、ボン大学に入学する直前、二人は密かに婚約してしまった。双方の親の承諾なしにである。一年後に婚約を打ち明けられたマルクスの両親は非常に困惑した。
身分が上であるイェニーの父親には一切相談なし。これは当時の社会的に認められていた良識ある行動を全く無視したものだった。その上、マルクス自身はぐうたらな学生生活を送り、どう見ても将来イェニーのような貴族令嬢を支えていけるような見込みがたっていないのだ。
 
ボン大学のマルクスは詩人気取りで酒びたりの学生のぼんぼんの役を演じていた。酔った勢いで決闘にはしり、相手方の貴族のぼんぼんにサーベルで左目を切りつけられた。それでも懲りずに今度は御法度のピストルで決闘場におもむく直前、運よく?身柄を拘束されてしまった。しかし違法は違法だ。弁護士の父親が出てきてやっと放免されたというていたらく。それ以上に問題なのは、金使いの荒さだ。金銭に対する彼の態度はここから一生変わらなかった。しかし本人はすっかり詩人気取りで、父親にへたくそな詩を見せ出版したいからさらに金を出せとせがんだ。父親は呆れた。一人息子の行く末についての憂慮が一層増した。
 
父は勉学の厳しいベルリン大学の法学部にマルクスを転校させた。
ベルリン大学はマルクスにとってかなりのストレスだったに違いない。不規則な生活が原因となって体調を崩した。そこでマルクスはベルリン郊外の村でひと夏ゆっくり静養とあいなった。
全くぜいたくな話だ。しかし父親の心遣いはまたまた裏目に出てしまったのだ。
 
かの地の酒場でベルリンのドクターズクラブという哲学文学の文化人の討論サークルのメンバーと知り合った。彼らの興味の焦点は、ヘーゲル左派と呼ばれた革新的無神論であった。ヘーゲル左派の中心的論客は当時ベルリン大学で教鞭を取っていたブルーノ・バウアーであり、このクラブのメンバーでもあった。
 
重病の床に伏したマルクスの父親に、判事補をめざして法律の勉強にはげんでいる、ついては不足の金を送ってくれ、とのマルクスの無心の手紙が届いた。
 
それから数ヶ月後、マルクスの父は世を去った。マルクスはきっぱりと法律に別れを告げた。
 
マルクスの目算は、師のブルーノー・バウアーの推薦で大学に教職を得る事だった。
 
ところが、師であり、頼みにしていたブルノー・バウアーがボン大学に飛ばされてしまった。国王のお膝元であるベルリン大学は今や保守派の牙城に急変してしまったのだ。それでもマルクスは楽天的な態度を変えなかった。
なに、博士号さえ取れば、後はラクラクで何とかいこう、と。
 
だが、ベルリン大学の保守派はバウアーの弟子マルクスの博士論文など読むつもりもないだろうから、博士号は無理だ。そこで考えついたのが、金で学位を買うことだった。高額な料金を払えば誰にでも学位を出すという評判があったイェナ大学に論文を送り、学位を請求。驚いた事に、即刻博士号が授与された。
 
めでたく博士号を取得した後も依然として無職。あちらこちらをブラつきまわっている息子に業を煮やした母親は仕送りをぴたりと止めてしまった。
 
頼みの綱のブルーノー・バウアーはプロシア国王より教職追放となり、ボン大学を追い出された。
 
だが捨てる神あれば、拾う神あり。ケルンの富裕なブルジョワによって新しく発刊予定のライン日報の編集長として高給で雇われた。学者志望からジャーナリストへ変身だ。
この新聞は非常に成功したのだが、結局、政府の弾圧で廃刊に追い込まれた。
マルクスがきちんとした給料を稼いだのは、このケルンの一年間だけであった。ついでに退職金までついていた。
 
後は他人からの金、夫妻の両親からのかなりの遺産、同志からの遺産とカンパ、エンゲルスの援助、がマルクス夫妻と娘達の生活を支えた。一応女中と見なされている、ヘレーネ・デムートの助けがなかったら、一家は生き延びることができたかどうか、疑問である。
 
マルクスを極端に敵視する人の中には、マルクスは自己の無能と怠慢を正当化する為に私有財産を否定したのだというのがいる。
 
マルクスの私生児問題はマルクスの人格攻撃の格好の材料になってしまった。
この問題に関して、共産国では一切触れられないのが慣例である。
だが、事実は、確固とした証拠に欠けると云う人も多い。
 
イェニーの母が送った若い女中のヘレーネ・デムートに子供が出来た。ロンドンに亡命後、生活が困窮し、夫婦の間で喧嘩が絶えなかったと云われている頃だ。しかし、愛称 “レンシェン” はわが子の父親に関しては口を固く閉ざしたまま亡くなった。子供は、ヘンリー・フレデリック と命名された。明らかにマルクス、エンゲルスの双方から取られた名だ。愛称 “フレディ”は誕生後、労働者の家族に里子に出され、そのまま他人の家で養育された。後には“レンシェン の息子” としてマルクス、エンゲルス家からは家族同様に扱われた。 エンゲルスは、フレディの父、という噂を否定しなかったので、当然皆は彼の息子と思っていたというのだ。
 
マルクスの私生児として表立ってしまったのは、エンゲルスの死期を看取った家政婦の手紙が “写し”として公表されたからだ。それによると、死期のせまったエンゲルスは、マルクスがフレディの父だ、とマルクスの三女、エレノアに告げたという。余計なことながら、このエレノアと家政婦は犬猿の仲であった。
 
それと、後に自殺したエレノアは、フレディに関して罪悪感と親近感を告白するような手紙を残していた。それを根拠に多くのマルクス研究者はマルクス説を取っている。
だが、実際には、フレディがマルクスの子と明記された当時の書簡は今日まで存在していない。
マルクス、エンゲルス双方の遺書にも、フレディの名は見当たらないのだ。
 
マルクスの思想は彼の残した著作の内容のみで評価されるべきなのか、それとも彼の特異な生き方と共に総合的に解釈されるべきなのか、今日でも意見は分かれている。 
 
 
 
 

トランプのアメリカ:モラーは耄碌(もうろく)!?

先週の大事件は何といっても米時間の7月24日(水)に行われたモラー喚問だった。
2016米大統領選挙ロシア介入事件捜査を終了したモラー特別検察官がやっと下院に初登場。午前は司法委員会、午後は情報委員会で延べ5時間以上にわたり議員の質疑応答に対応した。もちろんこれはモラー報告書が70%公開されて以来初めてであり、これが最後になる可能性もなきにしも非ず。モラー特別検察官はいわば任意出頭ではなくイヤイヤやって来たと報道された。
 
モラー特別検察官は司法省を去る日、捜査に関しては報告書を読めばわかる、と発言したように、質問者は報告書に書かれている箇所を取り上げたのがほとんどだったが、聞こえない、指摘された箇所がみつからないので戸惑い、最後は、書いて通ある通り、という答えがほとんどを占めた。
 
トランプは73歳。ボケが出ている、とこれまで散々言われてきたのだが、モラーは74歳。2年半前にモラーは特別検察官に任命されたのがその時はとっくにFBI長官をリタイヤしていた。このモラー氏は議会で60回証言したベテランであり、今回も数年前と変わらず明晰な答えが即返ってくると民主党側は期待していた。
しかし今回は全く違った。モラーの返答はスロー。耳が遠いのも原因だろうが、仕事で彼をよく知っていた人達も、まさかこうなるとは思わなかったそうだ。
 
午前8:30に時間通り公聴会が始まり、一時間後ぐらいには、FOXニュースの著名なニュース解説者である、クリス・ウォレスが、モラーの老化現象について
‟A disaster for the Dems and disaster for the reputation of Robert Mueller” 
大失敗の民主党に台無しになったロバート・モラーの評判
 
という速報を出し、この実況をみるつもりは全くない、と先に宣言していたトランプが90分後には早くも似たようなツィート。
 
 
 
 
Donald J. Trump Retweeted Michael Moore
Even Michael Moore agrees that the Dems and Mueller blew it!
Donald J. Trump added,

 
 
 
拙要約: トランプ: マイケル・ムーアでさえ、民主党とモラーの大失敗、と認めている。
 
マイケル・ムーア: 弱々しいご老体、物忘れがひどく、つっかえつっかえながら、簡単な質問さえも拒否。2017年に私が言った通りだ、今日のモラーがその証拠。政略プロ、中道派、役立たずの民主党、非の打ちどころのないモラーを信じろと大衆を説得した連中は皆今を境に黙ってろ、バカ!
 
 
マイケル・ムーアは日本でも反体制=反トランプの人として有名。しかし彼のツィートは相変わらず直情的で衝撃的。
 
 
 
 
上の動画にはモラー自身が、トランプの主張、捜査は『魔女狩り』で報告は『捏造』、を全面否定するシーンが入っている。
記者会見のシーンでは、トランプは、モラーは一度リタイヤしたFBI長官にまたなりたくてインタビューにやってきたが断った、それとビジネスで対立があり、その二つを恨んでああいうでたらめの捜査報告を書いた、と言っている。
事実はモラーはトランプに呼び出され、FBI長官に三度目になることを打診されたのだが、モラーは断った。しかし、翌日、当時の司法省代理長官がせっぱつまってモラーを特別捜査官に任命した、という話。これではトランプも怒るわけだ。
ビジネス対立とは、モラーはバージニアのトランプの高級ゴルフクラブの会員だったが、クラブを使用する機会がないので脱会したい、ついては使わなかった時期の会員費を返してくれ、という手紙をゴルフクラブ宛てに送ったが断られたということ。
 
金持ちや身分の高い(と思っている)人のほうが結構ケチくさい、ということか。
 
しかし、この質疑応答でモラーが明らかにしたことは、トランプは自分が主張するように無罪潔白ではないという事。
ロシア介入に関しては共謀罪の証拠は不十分。しかしトランプも長男ジュニアもモラー捜査に応じていない。(これについては法的証拠が充分なのでモラー側もこれ以上追求しなかった、と見なされている)。
米司法省の内規により、現大統領は告訴されない。自分の報告を元に議会で弾劾すること、または大統領でなくなった時に犯罪者として起訴することの二つのオプションがあるという事。
トランプはロシアの選挙介入オファーを利用して大統領選に勝ったという事。(仮想敵国ロシアとのコミュニケーションがあった事などから将来反逆罪の可能性も出てくる)
 
しかしトランプ弾劾については今も答えが出ていない。

トランプのアメリカ:フェイク大統領御紋章珍騒動!?

前回の記事からトランプをめぐる政界はまたまた大転回、おかげでフォローアップが大変だ。
 
私は民主党支持ではない。しかし『古き良き共和党』はトランプというよりブッシュの失政(?)で崩壊がスタート、今やトランプに完全に乗っ取られている。だからトランプの政策(?)は伝統的共和党とは全く違うものと考えている。拙記事は戦後米史の『時代の大変遷』を体験しつつあるその他大勢の中の一人の感想として書いています。
 
米時間7月24日にはモラー元特別検察官の待望された初(?)の下院証言が開催され、目下トランプとメディアはモラー氏発言の解釈に大忙し。しかし、下の歴史に残りそうな珍事件はモラー証言前夜の7月23日に起こった為、見過ごされがちだったのだが・・・
その日、トランプ大統領は、トランプ若者ラリーと銘打って全米のトランプ支持(?)の高校生達を首都に集めた。そこで壇上に立ったトランプはまたお決まりの暴言。拙者はこちらの方が問題視されるべきだと思う。
 
そこでトランプは、米憲法第2条で、大統領には何をしてもいい権力が与えられている、と声高々に宣言。
もちろん第2条にはそんな内容はない。2条は大統領の資格・権限を明記したもので、大統領は憲法の施政者、と規定されている。第2条での大統領の権限は
 
米軍の総帥
国際条約を結ぶ権限
上級公務員の任命
年次報告のスピーチ
 
しかし敵国との戦争宣言は議会の権限となっているので、大統領の軍派遣の権限は極めて限られていると解釈されている。
上の例のように米国民主主義では連邦政府・議会・裁判所が相互に規制しあう仕組みなのだが、トランプには憲法の理解が全くない、と見なされている。
 
下のフォトはその高校生大集会で鷲の大統領御紋章をバックに満面総得意のトランプ。しかしかの御紋章は実は反トランプ・オンラインショップで売られているフェイクだった。この珍事件、陰謀でも何でもなく、実は担当者がググって画面が明確な御紋章をオンラインショップからコピペしてしまったのが原因と報道されている。
 
 
 
 
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本物は下。
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本物:一頭鷲。               フエィク:二頭鷲、ロシアの御紋章と同じ
                         胸の盾の上部には数個のカマトンカチ!
 
    右側の足は銃を掴み、            ゴルフのクラブ 
    左側 オリーブの枝              緑色のドル紙幣
 
さらに、鷲の頭上に記されているモットーであるが
本文はラテン語(=モットーは常にラテン語)で 本物は、多数(=民衆)の中の一人、の意で主権在民を象徴しているのだが、フェイクでは、スペイン語(ラテン語に似ている!)で、45(=代目)は操り人形、となっている。
 
という具合で、皮肉のこもったとんでもない代物だ。
このフェイク大統領御紋章のデザイナーは今は反トランプの元共和党支持者。
フェイク御紋章を出したテクニシャンは即刻クビになったそうだ。
 

トランプのアメリカ:トランプの差別発言大騒動

この数日間、米政界は大揺れに揺れた。下院では差別発言を重ねたトランプに対して非難決議が民主党全議員+共和党系5人によって可決。世論調査でも60%以上が 『自分の国へ帰れ』のトランプを批判。
 
しかし事実は今回のトランプの人種差別大騒動は一週間前にトランプとは全く関係ないところで始まった。
去年選出された新人民主党会議員の中で4人の若い新人女性議員がメディアの寵児として非常に目立っていたのだが、この若い女性議員4人のニックネームは‟The Squad”、日本語には訳しにくいが、進歩派猛女4人組という意味が籠っている。下がその4人。
 
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アヤナプレスリー、 シカゴ、黒人、ケリー元国務長官補佐
イルハン・オマー、ソマリア難民、回教徒、ミネソタ
アレキサンダー・オカシオ・コルテス、通称‟AOC”.プエルトリコ系、社会主義団体メンバー、元サンダース候補補佐
ラシダ・タイーブ、パレスチナ系弁護士、オハイオ
 
4人とも非白人で革新系である。
一週間前、AOCことコルテス議員が、トランプ弾劾に強固に反対する民主党ペロシ議長を批判、その上、上の四人組を有色人として見下しているのではないか、とコメントしたことから、ペロシ議長は新人は議会の立法プロセスをまず習う事が先決、とメディアを通して叱りつけた。
すわ、民主党内で内紛か、というのでフォックスなどのトランプ支持メディアが騒ぎたてたのだが、そこに割り込んだのがトランプ。
下は彼のツィート。トランプはこれはペロシ議長の支持だ、と主張。
 
So interesting to see “Progressive” Democrat Congresswomen, who originally came from countries whose governments are a complete and total catastrophe, the worst, most corrupt and inept anywhere in the world (if they even have a functioning government at all), now loudly and viciously telling the people of the United States, the greatest and most powerful Nation on earth, how our government is to be run. Why don’t they go back and help fix the totally broken and crime infested places from which they came. Then come back and show us how it is done. These places need your help badly, you can’t leave fast enough. I’m sure that Nancy Pelosi would be very happy to quickly work out free travel arrangements!
 
 
拙要約: これは面白い、進歩派下院女性議員達、彼女達がやって来た母国はメチャクチャ、そこの政府は世界でも最悪、汚職だらけで全くの無能(もしも政府らしきものがあったらの話だが)なのに、彼女らは生意気にも大声で、米市民、地上でもっとも偉大でもっとも強い国の市民に、政府のやり方を指図している。なぜ、彼女達は母国に帰って、崩壊し犯罪が跋扈する国の政府を建て直すのを助けないのだ、そこが彼女達の本来の居場所だろう。それした後で、こちらに帰って成果を披露して欲しいね。元の居場所はアンタ方の助けが絶対いる、さっさとそこを後にするべきじゃない。ナンシー・ペロシは喜んで急いで帰国旅行のアレンジをすると私は確信している。
 
実は4人組の内3人は生まれながらの米市民。オマー議員だけが十代に米国籍取得。プレスリー議員は黒人。非白人はすべてよそ者外国人というトランプのレイシストぶりがここでバレてしまった。
 
ペロシ議長をはじめ共和党からも批判がでた。
しかし、翌日もトランプはメディアに向かい、米国政府に文句ばかりいう者は非愛国者で、来た国に帰れ、と凄い暴言を吐いた。その夜遅く、下院でレイシスト・トランプ非難決議が可決。
しかしトランプはその夜ノースカロライナ州、グリーンビルで2020大統領選をめざす大集会に登場、今回は、"Send Her home" (=米から追い出せ)というスローガンの大合唱が起こった。
 
これまでは個人が特定されなかったのだが、この米から追放の対象はソマリア難民だったイルハーン・オマー議員であることが明らかになった。下はイルハーン・オマー議員のトランプに対する抗議コメント。
 
Ilhan Omar Retweeted Jon Favreau
You may shoot me with your words,You may cut me with your eyes,You may kill me with your hatefulness,But still, like air, I’ll rise.-Maya Angelou
Ilhan Omar added,
 
 
 
拙訳:あなた方がいかに私を言葉で撃とうと、目つきで刺そうと、憎しみで殺そうと、それでも、空気のように、私はよみがえるのだ -マヤ・アンジェルー(ノーベル文学賞受賞の黒人女性作家)
 
ところがビックリ仰天。今日の7月19日の朝、トランプはメディアに向かい、
あの ‟Send her home!”というスローガンは彼の一部の支持者が勝手にしたことで、トランプはその時むしろやめさせようとした、と主張。その上、今朝の彼のツィートでは4人がなぜか3人になっていたのだ。
その背景には多くの共和党議員がオマー議員を名指しにした国外追放にしろという選挙スローガンは不適切とツィートしたことにある。
 
日本の著名な政治コメンテーターにはトランプは哲学を持って行動する大統領などど、過度のヨイショをするのがいる。
トランプは哲学を持っているのか?疑問だ。