拙ブログ、“chukaのブログ”、の記事、“竹島は韓国領!?”に、この竹島領土紛争に関連する過去の判例があるのか?というコメントを貰った。ネットに掲載されている数々の論文でもいくつかの過去の判例が竹島問題と関連ずけられて解説されている。
このプレア・ビヘア寺院事件は他のマイナーな領土紛争と比べると国際的には格段によく知られているのだが、竹島関係ではもっとも問題にされていない。しかし、この紛争のプロセスと判決理由を考慮するなら、もっと議論の対象にされていいのではないか、と私は思っている。
昨年ICJにより判決が出されたのだが、実はカンボジア政府によってICJに持ち込まれたのはこれが最初ではなかった。
日本では竹島問題はICJに提訴というのが筋、これを拒否する韓国側は負けるのを恐れているからだ、という論議が幅を利かせているわけだが、この事件の判決内容を考えると、日本側にとってICJの判決が必ずしも有利なものになるとは限らないのではないだろうか。
プレア・ビヘア寺院( =Temple of Preah Vihear) は9世紀末にクメール王国(現在のカンボジア人の祖)がダンレク山地の東側、今日のタイ領土を眼下に見下ろす岸壁の上に建立したヒンドゥー寺院なのだ。ところが時代は下り、シャム王国の勢力拡大でクメール人達は退却を余儀なくされ、アンコールワットがジャングルの中で廃墟と化していたように、この寺院も半ば廃墟化していた。クメール王国に代わってプレア・ビヘア寺院はタイ王国の領土となった。
1867年にフランスがインドシナを植民地化してしまい、タイ王国と交渉し以前から明確でなかったタイ・カンボジアの国境を定めることになった。
1904年のシャム・仏条約で、ダンレク山地の尾根にあったプレア・ビへア寺院は、シャムとフランス領インドシナの国境上に位置することになった。
そこで明確な境界線設定の取り決めとして、国境はダンレク山地の分水嶺(wataershed)とすることに双方が合意した。その目的で国境は最終的に両者から構成された合同委員会による実地測量に基ずいて決定されることになった。しかし、当時のタイにはそんな西洋式の測量技術はなかった。だからタイ側のオブザーバーが随行した上で、フランス側が現地で測量を実施、翌年フランスの地図作成会社が最終的な国境を示した地図を公刊した。そしてその地図をシャム側に提示した。この地図によればプレア・ビヘア寺院は分水嶺の南側、すなわちフランス領インドシナ側にあるとされていた。タイ側もフランス側を信じてそれを受け入れた。
1930年には同寺院をシャムの王族ダムロン王子が訪問し、当地の植民地フランス要人に外国の賓客として接待を受けていた。
しかし、タイ側が1934年に行った調査で、プレア・ビへア寺院の箇所では地図の国境線と実際の分水嶺は一致していないという事が分かってしまった。問題となったプレア・ビヘア寺院は分水嶺の北側でこれは明らかにタイ側に位置していた。おそらくフランス側に一杯喰わされたのだろうが、タイ側はその時点ではこの件でフランス側と対立することを避けたようだ。また、例のフランス製の地図についても放置したままであった。
ところが、欧州が二次大戦に直入、情勢がフランスにとって不利になったことを察したタイ側は、1940年、フランスとの国境交渉で次々と失われてしまった過去のタイ領を取り戻そうとしてフランス領インドシナを爆撃し両軍は交戦状態となった。1941年5月8日に日本の仲介によりフランスのヴィシー政権との間に東京条約を調印し、プレア・ビへア寺院はタイの領有に復した。
しかし、戦後、当然のことながらフランスはタイから東京条約で失った領地を全部取り返した。しかしタイ側の実効支配は続いた。
1953年にカンボジアは独立、プレア・ビヘア寺院に軍隊を派遣し寺院を取り返そうと図ったが、そこのタイ軍に阻止された。それが理由でタイは国境封鎖を行った。
1958年、領土問題解決をめざして開かれた会議が決裂、国交断絶に発展。
1959年にカンボジア側がIJCに提訴、タイ側は当初拒否したのだが強制的に裁判に立たされた。
1962年にはカンボジア側の訴えを全面的に認める判決が下されたのだが、これがかなり問題のしろものなのだ。しかもこの判決には日本の外務省ヒモつきの田中判事が関係している。
驚くべきことには1962年の判決理由は非常にシンプルだ。
カンボジアが領有権の根拠としている1908年作成の地図をタイ側は全く黙認してきた。当然ながら、地図に疑問が生ずれば、即急に解決を図るべきであるが、タイ側はそういった行動を取っていない。
タイ側からプレア・ビヘア寺院問題を提起する機会は1925年、1937年、1947年とあったのだがタイ側はそれをしていない。特に1947年には、1904年の国境処理の妥当性を話し合う調停委員会が開かれたが、この好機にもかかわらずプレア・ビヘア寺院の問題を提起していない。タイ側は一貫してプレア・ビヘア寺院を領有し、地方行政上の行為が行われていたから、異議を出す必要はなかったと主張し、地図を黙認してきたという政府の一貫した態度を否定していない。1930年のダムロン王子の訪問の外交的意味は明白である。タイは1958年に問題が提起されるまでカンボジアにプレア・ビヘア寺院の主権があることを黙認していたことになる。つまり、タイ中央政府が黙認を続ける一方で、現地で実行支配をするという全く矛盾した立場を取っていることに対して、国際法廷はタイ側の主張をそのまま受け入れることはできない。法廷はタイ中央政府の黙認こそがタイ政府の立場と認識、カンボジアに領土権を認める、というのだ。
いうまでもなく、この判決はこの領土紛争の真の原因となった、フランス側の故意とも思えるようなエラーには一切触れていない。何だか、これでは最初にIJCに対して不遜な態度を取ったタイへの罰だ、と言わんばかり。また法体系の違う各国が送り込んだ判事達による“ビックリ判決”ではないか、というわけで、法専門家からはそれなりの批判が出たようだ。
タイ側は不承不承、ICJの判決に従った。
しかし2007年に新生カンボジアがプレア・ビヘア寺院を世界遺産に申請した際に、ユネスコ側が、この寺院に近ずく道はタイ側にしかないので、両国共同で申請したらどうか、と言い出したことから、再び紛争が再燃してしまった。
しかし、翌2008年にはタイ・カンボジア合同で世界遺産に登録することができたのだが、これがタイ国民の激しい反発を巻き起こした。すぐにタイ外相は責任を取って辞任した。
その直後に寺院近くの国境地域に両国の軍隊が集結し、緊張が続くようになった。
そうしている内に多数の銃撃戦が起き、紛争は他の地域にも広がっていった。そこで2011年にカンボジアが再びIJCに提訴、2013年には1962年の判決にもとずき寺院はもとよりその周辺の土地もカンボジア領である、という判決が下された。
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