chuka's diary

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"強制連行"レッテル貼り論争

拙ブログに下の記事を読むようにお勧めのコメントを頂きました。コメントありがとうございました。

日本政府が認める朝鮮人強制連行とは応募・官斡旋・徴用のことであるが、食料収奪こそが元凶 | 悪鬼滅殺 仕事は介護と子育て支援。日・韓・中・沖縄の平和。愛知県春日井市

コメントされた記事は下です。

chuka123.hatenablog.com

今回のコメントは下の著作の内容紹介も兼ねています。

日中戦争開始(1937)で物資、兵力、労働力不足に陥った日本はその代替えを植民地朝鮮に求めた。朝鮮人徴兵・徴用・慰安婦動員が1938年に一斉に始まったことはこの証拠でもある。

慰安婦動員(=the mobilization of comfort women)というレッテルは著名な朝鮮戦争研究者ブルース・カミングスが"Korea's place in the sun"1997で使っている。

"慰安婦達は同国人の朝鮮人業者達によって動員された"

カミングス氏は慰安婦ブームの最中にこの句について質問され、今も私の考えは変わっていない、と答えている。

 

この朝鮮半島の動員についてはもう一つの大きな共通点がある。

それは当時の経験者の聞き語り(オーラルヒストリー)にある。体験者は、日本人(らしき者、又は少なくとも一人)に直接強制された、と答えている。強制の種類としては誘拐・暴力的拘束(又は同様)が多く挙げられている。徴用、徴兵、慰安婦ともども動員先で人間がする事とは思えない人権侵害的虐待を受けたと述べている。

 

この著作の焦点は総督府統治が戦争で内鮮同化政策に変換を余儀なくされた事を朝鮮人徴兵と徴用の歴史的究明で明らかにしようとしている。特に戦時下の半島では、朝鮮人徴兵は日本政府の絶対命令であり無理を承知の総督府の究極のゴールとなった。もし日本が日中戦争を避けていたなら、この変換が起こったかどうか疑問である。

 

朝鮮人徴兵は徴用と同時期に始まった。徴用が募集、次いで官斡旋であったように徴兵は志願制だった。日本と同じ直接徴兵は徴用と同じく1944年に実施された。

 

下の数字をご覧ください。この表は日韓の研究者にはよく知られている統計の一部です。

 

1938年 志願者2946人 入隊者406人

1941年 志願者144743人 入隊者3203人

1943年 志願者303294人 入隊者6300人

 

上の数字で不思議な点に気が付くはずだ。志願者はかなりの数に上るが実際の陸軍入営者はほんの一握り。この原因は総督府から待ったがかかったからです。

 

このまま朝鮮人志願者を陸軍に送り込むと大変な事(皇軍崩壊)になる。

総督府側では朝鮮人が"皇軍"兵士になるのはまず無理と判断していた。少なくとももう30年はかかる、と言うのだ。

 

そこで志願者達の身許を徹底的に調査した。その際の基準は本人の強い意思の有無、日本語のうまさ、天皇への忠誠心、大東亜共栄圏の理解力、兵士向きの人間であるかどうか、となっていた。その段階での調査結果では、強制されて志願したと総督府により判断されたのが約半数。強制志願の該当者はすべて落とされた。

 

この厳しい審査の合格者は6か月間総督府の設置した予備訓練学校に入れられた。そこでは日本語上達を中心に"日本人"を作り出す為の厳しい特訓が施されたのだった。

この特訓を終了した朝鮮人志願者達の多くが陸軍宛てに美辞麗句の入隊宣誓書を書き自らの血でしたためた署名付きで出している。その一人が朴正熙だった。

 

こういう人はもう通常の"日本人"基準をはるかに越えている。

 

上の数字が示しているようにこの超朝鮮人=日本人の青年が毎年数千人も日本陸軍に入営、日本兵と共に皇軍として軍の命令を遂行した。

 

朝鮮人戦死者の実数は今も不明です。靖国神社には約2万2千人の名が記録されている。しかし実際はこれよりはるかに多いはずとも言われている。

戦後の韓国では親日となり、元兵士とその家族、遺族及び関係者等が厳しい迫害を受けた。朝鮮人皇軍の存在は韓国側には触れたくない歴史の箇所となっている。同様に日本側の左派歴史観の伝承者達にとっても被害者の枠を超えてしまうので無視同然となっている。

 

1944年の徴兵の実施にむけ総督府は急速な同一化政策に乗り出した。それが創氏改名であり、学校での韓国語禁止、学生や青年を対象とした日本人になる準備を目的とした軍事教練の設置だった。

 

しかしそれが朝鮮側にはどう反応されたのか?

当時の日本語普及率は25%と総督府は見ていた。その上に40%に満たない小学校就学率、武士階級を一段見下げる伝統、貧困及び情報不足、等々などが背景にあった。大多数が農村に居住していた一般朝鮮人は、総督府の派手なプロパガンダにも関わらず、同一政策に対する反応は今一つだったようだ。かといって総督府がもっとも恐れたような積極的抵抗に出たのでもなかった。

 

一つ注目に値する点は、日本国民と同等の徴兵制設置にあたり、日本側から先手を打って参政権の是非が検討された。日本側は1944年に1946年の国会に朝鮮代表を受け入れる事を決定していた。しかしこれは敗戦で実現しなかった。

 

このように、歴史研究という視点からは"日帝の植民地侵略に伴う強制連行"というシンプルな政治的ストーリーには当てはまらない箇所が多くある。主要原因として戦後の日韓両国の政治変遷で一般的歴史観も変わったことがあげられる。

基本的には植民地の歴史は両側の資料を検討するべきなのに、それが充分になされていないという印象を受けている。日本側の歴史家ならば朝鮮語や文化・国民性に理解のある人が望ましい。これは韓国側も同じ。それに国際的な視野からの視点も必要でしょう。