chuka's diary

万国の本の虫よ、団結せよ!

トランプ VS ストーミー・ダニエルズ : Make America Horny Again

初老のA氏(60才)は米国で超有名なセレブ、B嬢(27)はデカパイで有名なポルノスター。この二人はセレブ・ゴルフトーナメントで出会い、A氏はB嬢を自分のホテルルームに招き、そこで二人は合意のセックス。B嬢の動機はA氏がプロデュースしていた悪名高いTVショーに出演できそうだと思った、or  思わされたからだそうです。ところが、一年後にTVショーの出演がダメになり、二人は疎遠に。しかし10年後にはこのA氏は大統領に立候補。最初から負け犬候補と予想されていました。ところが、投票日の数週間前に、A氏の弁護士からB嬢に、10年前のあのホテルでの出来事を口外しなければ、$130,000(=1360万)出すとの申し出が。B嬢は何も考えずにさっさと署名し、投票日の2週間前に、その金を受け取ったのです。しかしその契約には、もしB嬢が一回口外すれば、1億ドルの罰金を払うこと、という損害賠償条項がついていました。
現在のところ、B嬢は2回口外したとして2億ドルの損害賠償で告訴されています。ところが、B嬢は、契約書にはA氏の署名がない、だからこの契約は最初から成立していないと反論、この契約の無効解消を主張してA氏を逆告訴。
こうなると一体何がどうなっているのか、こちらの方が混乱してしまいます。
 
昨日3月25日にCBSでのストーミー・ダニエルズの初のTVインタビューを200万人が見たそうですが、実は私もその一人です。上の初老のA氏とは、もちろん我らの恥ずべき大統領トランプ、B嬢とは只今 ‟ Make America Horny Again”(=再びアメリカを発情させよう)という極めていかがわしいタイトルをひっさげ全米各地のナイトクラブで興行中のストーミー・ダニエルズ嬢。
 
実はこのストーリーには裏があるのです。今年の2月に、大統領選挙のウォッチグループが米司法省と連邦選挙委員会にトランプ氏の選挙資金隠しについて公式に調査を要請しました。
これに関して、トランプの弁護士は、この契約は自分とストーミー嬢との契約であって、トランプには関係ない、出したカネは自分のもの、と全く高飛車な態度に出ているわけです。道理でトランプの署名がない筈です。トランプが署名していれば、彼は公職選挙法違反で逮捕です。これに対してカンカンなのはストーミー嬢。実際$130,000より高額な申し出があったのに、この契約をばか正直に守ってきたせいでそれを逃したわけですから。
しかし注目の的となったトランプ氏は、これはフェイクニュース、と早朝のtweet.。
ところで、たった一回のハンキーパンキーが$130,000というは、ギネスブックにのるべきではありませんか。下はストーミー嬢ですが、トランプ氏の二番目の奥さんのジョージア・ピーチことメープルさんに驚くほど似てませんか?メープルさんはボディーガードと浮気するなど好き勝手をして、トランプ氏から大金をせしめ、その後は固く口を閉じてます。

 

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皇軍将兵への贈り物:A Gift of the Emperor by麻生軍医

 

 

 

A Gift of the Emperor

A Gift of the Emperor

 

 

 
さて前回と前々回で麻生徹男軍医が軍上層部に充てた『花柳病ノ積極的予防法』の一部について私の感想を書きました。時は1939年、あの南京事件から一年後にあたります。当時の北シナ方面軍司令官は、岡村寧次大将、実際この人が日本軍慰安所制度の生みの親として認められています。この意見書、どのように慰安所強化に貢献したのか、知りたいところです。
『従軍慰安婦』1973年発行、では、著者の千田夏光が、麻生軍医がこの意見書で半島出身のほぼ未経験の慰安婦を強く推薦した事が朝鮮女性慰安婦の悲劇に導いたと述べています。もちろんこれに反して、麻生医師及びそのご一家は大反撃、今日に至っているわけです。
 
麻生軍医の医者として全く不適切な表現は文中でさらに続き、今日に至っても彼の言葉が日本バッシングに貢献しているのです。これはジョークではないのです。
 
❝某地ニテ検黴中ヨク見シ如キ猟鼠径部ニ横根手術ノ瘢痕ヲ有シ明ラカニ既往花柳ノ烙印ヲ押サレシ、アバズレ女ノ類ハ敢エテ一考ヲ与エタシ❞
性病検査で頻繁にみられるのは足の付け根のやや上部にリンパ種切開の傷跡である。疑いもなく過去に花柳病を患った証拠で、このようなあばずれ女の類は選出時に考え直すべきだ。
Chancoroid = 軟性下疳、に感染すると、悪寒、熱、尿痛がし、足の付け根のリンパ節が大きく腫れ、やがて破裂すると濃が出てくる。抗生物質のない当時はこれを早めに切開し、膿をだし、傷を洗浄したので傷跡が残る。娼婦の不妊はこのような下半身の感染症が原因であった。前にも指摘したように、性病は不特定多数の相手と予防手段無くインターコースを続けると、必ずかかる職業病であって、被害者がアバズレだから感染した、というものではない。軍慰安所では、コンドーム装着、性器洗浄をすることが規則だっので、この女性から感染する可能性は低く、他の慰安婦と同じであるはず。しかも、共同便所なら、どうして年が問題なのか?
 
❝此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ実ニ如何ワシキ物ナレバナレバナリ。如何ニ検黴ヲ行ウトハ言エ❞
このような女は皇軍将兵への贈り物として実にふさわしくない、たとえ性病検査をパスしてもだ。
 
❝応戦地へ送リ込ム娼婦ハ内地最後ノ港湾ニ於テ十分ナル淘汰ヲ必要トス。マシテ内地ヲ喰イ詰メタガ如キ女ヲ戦地ヘ鞍換へサス如キハ、言語道断ノ沙汰ト言ウ可シ❞
日本を出る船に乗せる前に、事前にこういう食い詰め女を乗せるないようにする必要あり。内地で食い詰めた女を戦地へ鞍替えさせるのは言語同断の沙汰である。
 
上記の性病の被害者となった慰安婦を卑しめる侮蔑的表現に関しては、千田夏光は、これは麻生軍医が皇軍兵士として洗脳されていたからだ、とむしろ同情的に取っていました。医者か皇軍兵がどちらかは知りませんが、彼の皇軍将兵の贈り物、という言葉は、英語で、‟The Gift of Emperor” として慰安婦を指すユーフェミズムとなり、世界に拡散です。
 
‟A Gift of the Emperor”  1997 by Theresa Park はアマゾンでは読者に評判いいようです。
 
もっと深刻なのは、2015年、米国の高校の歴史教科書に、あの慰安婦は天皇からの贈り物、という言葉が使われたことです。最初は日本の外務省が発行元の教科書会社相手にネトウヨ慰安婦史に都合の悪い部分を改変するように要求したのですが、全く相手にされなかった。そこで、秦邦彦氏をはじめネトウヨ翼賛学者が19名、国家元首である天皇の名を冒涜するのは教科書にふさわしくない、と雁首そろえて教科書会社に抗議すると、米国の学者達が、慰安婦は被害者、自国の言い訳を目的とする歴史修正はやめるべきだと日本のネトウヨ学者を批判しかえすということになった。
天皇が国家元首だなどとは。一体いつ憲法は改正されたのだろう!?
 
なお、この教科書の慰安婦の記述には、ネトウヨ学者が見逃したもっと恐ろしいことが記載されていたのにもかかわらず。
それは従軍慰安婦制度の史的理由です。南京レイプで世界中に露見した日本軍の規律の乱れを何とかして抑える為と、非常に明確に述べられていました。このパートについては、強制連行はなかった、20万人は有り得ない、で必死の秦邦彦さんも全くスルーです。
 

Burma : Untold Story ビルマの慰安婦 その2

英米を中心とする連合国側は日本軍占領下のビルマを戦略上南北に分割し、南部をイギリス・インド連合軍が、北部を米・中国連合軍が奪回する計画を立てていた。

冗談だろうが、ビルマはルビーの産地として有名であるがルビーを産出する場所は全部イギリス側にあった、というのが著者。

このビルマ戦線の連合国側の総司令官は英王室の親戚にあたる若きマウントバッテン提督であった。もちろん大貴族のボンボンであるから、チャーチル英首相は守役の将軍をしっかり付けていた。

 

百戦錬磨のスティルウェル老将軍は公式にはこの大貴族のボンボンの下に立つ副総司令官というわけだからおもしろくないのも当然だ。何かにつけて文句が絶えなかったとか。

なさねばならぬならぬ何ごとも、であるから、不協和音を乗り越えて翌43年には、英軍指揮下のインド連合軍が国境を越えてビルマ内部に侵攻、ジャングルに潜んで長期ゲリラ戦を展開し日本占領軍を脅かす心理作戦に出た。その年の秋にはスティルウェル将軍の方も国民党軍のおケツをひっぱたくような格好でいよいよビルマ内部に進攻開始。一歩も引かずという心構えでUターンの出来ない亀さんのごとくのろのろとしかし着実に敵を破りつつ前進を続けた。

 

これらの効果はてきめんだった。44年になると堪忍の緒が切れてしまった日本軍は一点突破全面展開をめざしての大攻勢に出てきた。かの近代戦史上最も無謀な作戦と評されているインパール作戦である。

 

日本側は八万の大軍をかき集め、インド内部の英軍の拠点インパールに向かい決死の大進撃。そこの英軍を壊滅させ自由インド州を打ち立てるために、インド国民軍7000をひきつれて。

 

しかしわずか4か月という短い期間に大部分の兵は戦闘でよりも病弊死してしまうという全く悲惨な結果に終わってしまった。おかげで頼みのインド国民軍も壊滅だ。

 

その間手薄になったビルマ北部の日本軍の守りをついて、スティルウェル将軍の率いる国民党正規軍と米軍・ビルマ部族合同ゲリラ隊はミチナを目指して大掛かりな攻勢に出た。

 

5月17日にはミチナ飛行場を占拠、5月18日にはミチナ市を包囲した。ところが、米中英インド混成部隊である連合側には恐れていた通りの少なからぬ混乱が生じた。おかげで中国軍が同士討ちをするという最悪のシナリオが発生。そうこうしているうち日本側に援軍が入ってしまうという事態をむかえて早期攻略はやむなく延期となってしまったそうだ。かくしてミチナ包囲は8月3日の陥落まで続くことになった。

 

ウォンロイ・チャン大尉は44年の一月早々から情報将校として再前線に配置されていた。

1943年の10月にビルマ侵攻が始まって以来、日本兵捕虜からの軍事情報は喉から手が出るほど欲しかった。

中国軍から捕虜が出たという知らせが届く度に、それっとばかり、非常な危険を冒して現場に急ぐのだが常に空ぶり。というのは、中国軍の言い訳はいつも同じ。逃げようとしたからやむなく撃ち殺さざるを得なかったというわけだ。日本兵は捕虜になるくらいなら敵兵に撃たれて死を選ぶのだという。

この説明の中にどれほどの真実が含まれているのか著者は疑問に思っていた。

というのは怪しいものは先ず撃ってそれから尋問というのが中国兵のやりかただったからだ。

捕虜から得られる情報で味方の命が救われると説得してもまったく埒があかない。ついには、蒋介石総統に訴え、捕虜を絶対に生きておかすように、という御通達を出して貰ってやっと日本兵捕虜を得ることが出来るようになったそうだ。

 

その効果があって、12月24日に最初の日本兵捕虜を尋問することができたのだが、期待に反して、「あたまが鈍すぎて」ぜんぜん使い物にならない、とか。それでも明らかに重症な傷病兵であったので米軍の捕虜取り扱い規則に従い何よりも最初に病院に送って手当てをさせたと述べている。

 

著書にとっては、情報収集の為に最前線の中国軍部隊を訪れることは命がけであった。小柄な著者のグリーンの制服姿は少し遠くから見ると日本軍と見分けがつかない。案の定中国軍の要所に近ずくと、すぐどこからか弾が飛んでくる。慌てて地に頭を伏して、出来る限りのうまい発音の北京語で、「米軍だ、撃たないでくれ!」と怒鳴るのだそうだ。するとかなり間をおいて、北京語で、「止まれ、動くな!」という声が返ってくる。著者としては、もう地に伏したまま動けるような状態ではないので冷や汗を出しながらひたすら相手の出方を待つよりしか方法はない。かなりの間を置いてやっと「来い!」という命令が出されるのだ。それでゆっくりと立ち上がり、銃を頭上高く両手でかかげてゆっくりと前進していくのだそうだ。その間恐怖で生きた心地もしなかったという。 

 

中国兵からは日本兵に間違えられるわ、日本兵からは間違いなく米兵だと撃たれるのわ、本当に割があわない。危険な場所に向かう都度必ず“リパブリック賛歌”を口ずさむことが習慣となっていた。

 

『おたまじゃくしはカエルのこ、なまずのマゴではありません』

とか、『権兵衛さんの赤ちゃんが風ひいた』

と幼稚園でうたった童謡を覚えているだろうか?あの歌こそ実は“リパブリック賛歌”のメロディーの見事なパクリなのだ。

もとはと言えば、この唄は南北戦争中の北軍兵士の愛唱歌であった。

 

ハレルヤ!神に栄光あれ

神に命じられた正しいことをしているのだ、と自分にひたすら言い聞かせて恐怖心に打ち勝つことが出来たというから、著者の苦労も並大抵のものではなかったはずだ。

 

また著者は最前線の情報将校であったので、日系通訳兵士と一緒になることが多かった。当然本の中には日系兵士の名もたくさん出てくるのだ。前述のヒラバヤシ軍曹や、日本できわめて著名なカール・ヨネダ氏の名も出てくる。この人は戦前は米共産党員として米西海岸で労働組合を組織していたという特異な経歴の持ち主であった。自著の中で、慰安婦リポートの作者ヨリチ軍曹とは陸軍通訳学校のルームメートであり、ビルマでも極めて親しかったということを書いている。

 

著者ウォンロイ・チャン大尉によるヨリチ軍曹についての言及は一切無い。

 

しかし、著者は米国内の敵国民収容所から自ら志願しビルマに送られてきた日系兵士達について賞賛の声を惜しまない。特に、ビルマ戦線で有名を馳せたメリル大佐が率いるメイル遊撃隊というジャングルでのゲリラ戦や先行攻撃専門の部隊に配置された日系兵士達は単なる通訳であるにもかかわらず、敵味方から狙い撃ちにされるという危険に会いながらも実際に戦闘に参加し多くの素晴らしい功績を挙げたと述べていた。

 

著者の任務には毎日朝と夕方に偵察機に乗り込んでミチナ上空を徘徊して敵の情勢を探ることも含まれていた。ミチナ飛行場を爆撃中のゼロ戦飛行隊に遭遇することも珍しくなかった。そういう時は上空高くに舞い上がって高みの見物をしながら空中爆撃が終わるまで待つのだそうだ。

 

ウォンロイ・チャン大尉は大ボスであるスティルウェル将軍から気に入られていた。彼の情報将校としての仕事ぶりに将軍は非常に満足していたからだ。だから、赴任期間が終わる頃、将軍からビルマに残らないかと勧誘された。ミチナは陥落したけれどもビルマ戦線はまだ終局を迎えてはいなかった。将軍の配下に残れば少佐に昇進という約束までしてくれた。

しかし、著者をそれをあっさり断った。

ビルマに到着してから丸二年、戦闘中でもあり約束された休暇も返上して頑張ってきた。ジャングルの熱気と湿気に多数の兵士達は病に倒れた。雨期のジャングルは泥の海と化しマラリア蚊が猛威を振るう。著者自身も高熱と寒気におそわれ寝込んでしまったこともあった。

 

もうこれで一市民としての戦闘義務を果たした、彼の任務は他によって引き継がれるべきだ、ともかくアメリカ内地に帰りたい、というのが著者のいつわらざる本音だった。実は婚約者が彼の帰りを待っていたのだ。

 

だが運命とは皮肉なものだ。彼の転任を待たずに当のスティルウェル将軍がルーズベルト大統領によって左遷されてしまったのだ。理由は蒋介石との不仲であった。

 

もし、スティルウェル将軍がビルマに残っていたら、中国の歴史は変わっていた、国民党軍が共産党軍に勝利し、従って朝鮮戦争も起こらなかった、という説を唱える人もいるのだが、この偉大な将軍は戦後すぐに胃癌で亡くなっている。

 

著者のビルマ後の新しい赴任先は、オクラホマ州の陸軍砲兵学校であった。

確かに予備役としては砲兵隊将校であったが実際は情報将校であるからいまさら砲兵隊にといわれて著者もかなり困惑したらしい。しかしとにかく与えられた任務を一生懸命にやるつもりでいたところ、あのスティルウェル将軍が砲兵学校をカルホルニアからはるばる訪問することになった。

罷免されてもなお、彼はビルマ戦線の英雄であることに変わりは無い。地元ではものすごい歓迎振りだった。さて、著者のウォンロイ・チャン大尉もかって将軍の側近として共に戦った兵士である。だから将軍と再開の握手をしている著書の写真が陸軍関係の新聞にでかでかと載せられたのも当然といえば当然。

 

見出しは

「おう、チャン、元気でやっておるか?再開できて何よりだ」というスティルウェル将軍の開口一番、となっている。

 

しかし事実は新聞記事とは大違い。実はその時スティルウェル将軍は開口一番、

「チャン、こんなところで一体何しとる?ここはお前のような者のいるところじゃないぞ。」と言ったそうだ。それから一週間後に著者は首都ワシントンDCに転任命令を貰った。そこで再び情報将校に返り咲き大佐として退職するまで勤め挙げた。

 

この本は今や絶版となっている。しかし、本の内容はビルマ戦線に関連する英文記事に数多く引用されている。

この本の日本語訳はない。

米には戦史ファンが多い。ビルマ戦線に関してもかなり多数の本が出版されている。

ある研究家の中にはミチナ速攻の失敗?をスティルウェル将軍の情報が不正確で敵の人数を少なめに見積もったことに原因があったということを言い出した人も現れている。この本の目的はどうやらそういった批判に反論し自らの汚名をそそぐ為であるようである。

 

しかしこの本は決して読み易いとは言いがたい。拙者の最初の印象は本の半分は著者の関連した人物の名で埋め尽くされている、というものだった。それほど人の名が多いのだ。それにビルマ戦線の知識が全く無い拙者には戦闘の部分はちんぷんかんぷん。しかし、その後のリサーチで、著者の残した人名リストはミチナ攻防戦を多少なりとも理解する上での手がかりとして非常に役立ったということを述べておこう。

 

本全体を通して感じられるのは著者の誠実さと成熟した人柄である。

一言でいえば、細かいところにとらわれることなく大きな見取り図を描くことのできる人だという印象を受けた。こういうタイプの人はなぜか中国人に多いように感じられる。

 

グーグルで検索すると、著者は1999年に84歳を持ってすでに鬼籍に入っておられた。

Burma : Untold Story ビルマの慰安婦

 

Burma: The Untold Story

Burma: The Untold Story

 

 

 米軍情報局による『捕虜尋問リポートNo. 49』というのがある。

 

これはビルマのミチナ市陥落直後に連合国側の捕虜となった20名の韓国人慰安婦に対して行われた尋問報告である。

彼女らは comfort girls と呼ばれていた。

 

なを、日本語ではミートキーナ=Myitkyinaと表記されているが、ミチナ又はミチーナという発音が近いそうだ。GI達はミッチと呼んでいた。

 

原文は非常に平易簡明な英文で書かれている。このリポートの筆者がニセイ(=二世)通訳軍曹(T/3 )のアレックス・ヨリチ氏であったことから、これは故意 に米人向けにていねいに分かり易くしたものだろうか、と拙者などはつい邪推してしまうのだ。

 

しかし日本ではこのリポート解釈に問題があるようだ。

 

よく知られているようにこのリポートは

“ Japanese comfort women deniers”(=慰安婦否定者) の聖典となっているのだ。

 

もっとも有名な一例をあげれば、

A comfort girl is nothing more than a prostitute or “professional camp follower” 

attached to the Japanese Army

というくだりだろう。

 

はじめの部分は、「comfort  girl (=慰安婦)とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかない」、となってしまうで、これは慰安婦がただの売春婦である証拠と、秦氏をはじめとする慰安婦の存在否定派が言い張っていたのはよく知られている。しかし全文訳は、

「慰安婦とは売春婦であり軍を追うプロの女でしかないが日本陸軍に付属している」となる。

要は、日本陸軍は売春婦を連れた軍隊である!、ということを言いたかったのだ

誤解してはならないのは、これはヨリチ氏の個人的見解というよりも、単に当時の米軍側の一般的見解を反映したものに過ぎないということだ。

 

Won-Loy  Chan による“Burma ,Untold Story”にもこの見解はきわめて明らである。ミチナ包囲戦での情報担当将校だった著者は、うわさでは日本軍の慰安婦のことを知っていたのだが、実際にミチナで彼女らに遭遇した時にはとても信じられなかったそうだ。

報告にやって来た通訳の二世兵士グラント・ヒラバヤシも

“Captain! you aren’t gonna believe this, but I’ve got twenty female , I think Korean”

『大尉!こりゃ、とても信じられんだろうが20人の女性が捕虜となって来ています、どうやら朝鮮人らしい』

と、著者と同様にまったくのオドロキモモノキだったという。

 

ところでこのリポートの対象となった20人の韓国人慰安婦達の写真は今日世界的に有名となっている。吉見義明氏の『従軍慰安婦』の英語版の表紙にも使われている。これはビルマのミチナで捕獲直後に撮影されたものである。

 

この写真で慰安婦達と一緒に写っているのが東洋系の米軍兵士達である。

その最前列の兵士がミチナ攻略の情報将校であったウォンロイ・チャン大尉、それから3人のニセイ(日系)軍曹達である。その中には前述のグラント・ヒラバヤシ軍曹も入っている。

 

この中国系のWon-Loy  Chan (=ウォンロイ・チャン大尉)は戦後も陸軍に残り1968年に陸軍大佐として退役している。1986年にはミチナ攻略の回想録を

“Burma ,Untold Story”『ビルマ、語られざるストーリー』というタイトルで出版した。

 

この本の中にミチナの韓国人慰安婦との邂逅の部分が含まれているということがネットで紹介されていた。それで拙者はこの本全体を読ませていただくことにあいなった。

 

著者 Won-Loy  Chan は米国に移民した中国系二世である。

彼は1914年オレゴン州に生まれた。その当時両親は北欧系移民地域で雑貨商を営んでいた。非常に勉強熱心で、父に従って広東語の読み書きをマスターし、名門スタンフォード大を卒業、法科大学院に進学したのだが、長兄の死により一時的にオレゴンに帰り、両親の店を手伝うことになった。

 

彼は大学時代にROTC(予備役将校訓練)に入隊、卒業と同時に陸軍砲兵将校予備役に編入されていたのだが、太平洋戦争開始で現役として召集された。当時著者は27歳、独身であった。

しかし最終的に著者が送られた先が MISLS(=米軍情報局言語学校)。そこで約10か月間日本語をみっちり習わされた。

 

どういうわけか卒業を待たずに海外派遣の命令が出て12月14日には サンフランシスコを米軍に接収されていた元フランス豪華客船『イル・ド・フランス』号で出航。しかし船上第一日目に突然全員に北京官話を習得するようにと軍の命令が下された。

彼らもはっきりとした行く先を知らされていなかったらしく、著者は両親の祖国である中国かと胸ワクワク。

さっそく一行の中から中国語のエール大学博士号を所持する米軍人が出てきて毎日3時間の講義をしたので彼は必死になって北京語習得に努めた。

翌年の1月14日、船は南インドのボンベイに到着、そこで初めて行く先が明らかにされた。インド北部のラムガルー。何と、今や伝説上の人物となったスティルウェル将軍の指揮下へ。

 

このスティルウェル将軍(=General Joseph W. Stillwell)は米側の

CBI(=China- Burma- India Theatre of Operations)=ビルマ戦線、の総指揮官であった。

実は第二次世界大戦は3つの Theatre=戦線、で展開されている。ヨーロッパ、太平洋、そしてこのCBIであった。

恥ずかしながら、拙者はこれを知らなかった。

著者も指摘しているように、CBIは今日では忘れられた戦線となってしまっているそうだ。

本来ならば、このスティルウェル将軍は歴史上アイゼンハワー、マッカーサーと肩を並べる存在であるはずだったという。

 

スティルウェル将軍は“ビネガージョー”と呼ばれるくらい辛辣なものの言い方をする人として知られていた。その為敵も多く退役するしか道がないというところま追い詰められていたのだが、この人も大戦の勃発によって運命が変わった一人だった。彼の戦場指揮官としての才能を高く買っていた上官によってビルマに進軍した蒋介石の国民党軍の指揮官に抜擢されたのだった。

このスティルウェル将軍は中国語が達者の上、日本通でもあった。

 

ところが1942年、彼がビルマに到着するやいなや、日本軍のビルマ侵攻に遭遇。中国軍と共に険しい山岳地帯を徒歩で越え命からがらインドに逃げ込んだのだ。

1943年の初めにウォンロイ・チャン大尉が到着した頃にはインド北部でビルマ奪回の計画を練っている最中だった。

元々日本軍のビルマ侵攻は蒋介石への援助ルート切断が目的であったが、英軍がインドに敗退した後は、ヒマラヤ山越えの空輸というい手段が残されるのみであった。著者によれば、輸送機が墜落することも稀ではなく、乗務員はパラシュートでジャングルに落下という事も度々起こったそうだ。

 

スティルウェル将軍は日本軍を駆逐しインド・ビルマ・中国の援蒋ルートを再開する計画を立てていた。そのルート上に位置するミチナは日本軍の要所であり、ミチナを奪回すればルート再開は容易だと見ていた。

 

しかしミチナの日本軍は中国で転戦をかさねた精悦部隊(菊部隊)として米軍にさえもよく知られた勇猛果敢を売り物とする博多出身の部隊だった。

それに対する中国部隊は、ウォンロイ・チャン大尉によれば、ほぼ全員が北京語を話すが、読み書きは全くだめ。だから命令伝達は北京語のみ。情報を集める為には敵の文書がいるのだが彼らにとっては便所紙。

捕虜と文書を中国軍から得ることはまず無理な相談で、それよりも歯を抜くことの方がよほど易しい、というのが著者の率直な評価であった。

やたらめったらに発砲し、一旦塹壕に逃げ込むと出てこさせることは至難の業だとかで、とにかく悪評ぷんぷんの軍隊だった。

 

しかし中国通のスティルウェル将軍は、食料を十分与え医療体制を整え給料をきちんと払うなどして中国軍を人間的に扱うなら、武器と訓練で彼らは日本軍を打ち負かす強い軍隊に成る、という堅固な信条を持っていた。

これに関しては、後になって将軍の主張の正しさが証明された、と著者は書いている。

 

実際、NHKで放映されたビルマ北部に配属された菊部隊についての特集によると、彼らは自分達を攻撃しているのが中国で散々にやっつけたはずの国民党軍である事を知って大ショックを受けたそうだ。しかも、敵兵はあの同じ国民党軍とは全く思えないほど強かった、とある元兵士は述懐していた。

 

 

ウォンロイ・チャン大尉のスティルウェル将軍についての印象は、典型的なアメリカの好好爺だそうだ。いつもよれよれの野戦服姿でいっさいの飾りリボンや位階を表す記章をつけず、アタマには中国国民党軍の野戦帽をかぶっていた。いつもこの格好で一般兵士と共に列に並んでおせじにもおいしいとは言えない戦闘食を受け取り皆と一緒に食べていた。

 

ある時、たまたま話し相手になった軍曹に、ところで何であんたみたいな年寄りがこんな最前線の部隊にいるんだ、と尋ねれられたという笑えない冗談まで残っている

ミートキーナの慰安婦

 

Won-loy  Chan による “BURMA : Untold Story” 『 ビルマ:語られざるストーリー』には約五ページに渡りミチナ(=ミートキーナ)陥落直後に捕虜となった慰安婦達との遭遇が記されている。

 

かの慰安婦達の有名な写真も本の中に収められている。左側最前列のアジア系米兵が彼である。

当時、ウォンロイ・チャン大尉はビルマで中国国民党軍を主要力として北ビルマ奪回作戦の指揮を取っていたスティルウェル米将軍の配下、ミチナ飛行場に設置されたミチナ攻略作戦本部で軍事情報収集分析の重要任務についていた。とはいっても人手不足で彼一人のワンマン・オペレーションみたいなものなのに責任は重く、眠るのも惜しんで仕事に没頭したそうだ。

 

1944年8月3日、ミチナ陥落直前に捕虜となった一人のうら若い朝鮮人女性がミチナの作戦本部に連れてこられた。この女性はキムと名乗った。この女性は一人の日本兵と一緒に壕に隠れているところを、ミチナ陥落作戦に参加していた英・ビルマ部族ゲリラ部隊によって捕獲されたのだった。

その頃、チャン大尉は続々と投降が続く日本兵達やミチナ避難民の波からの情報収集及び対処に追われ、彼女への対応にとてもすぐには手がまわらなかったそうだ。

しかし兵士の間ではすぐに大ニュースとなった。

そこで日系二世のカール・ヨネダ通訳軍曹が少しばかり尋問させてくれ、と自ら買ってでた。チャン大尉は承知した。だがチャン大尉はヨネダ軍曹からの報告を見たことはない、と述べている。

  

カール・ヨネダ軍曹は、カールという名をマルクスから頂戴したという筋金入りの米共産党員だった。組合オルグ、党日本語機関紙の編集長として当局にはよく名の知れた日系人の一人であった。

彼の方も1983年に、“  Ganbatte”日本語訳『 がんばって、ある日系米人革命家60年の軌跡』という自伝を出版しているのだが、不思議な事にはその中でキム嬢については一切触れていない。だが、20人の慰安婦達については、あたかも彼がミチナで関係したかのように述べている。

 

結局その後チャン大尉はキム嬢に型どおりの尋問をしたわけだが、彼女は軍事情報に関しては全く無価値と判断、翌日にはインドのレド収容所行きの飛行機に乗せてしまった。

いくらMPの護衛つきでも、陥落寸前のミチナは若い女一人のいるような場所ではないのだ。ましてこの女性が日本軍慰安婦であればなおさらだ。

 

著者ウォンロイ・チャン大尉によれば、その時、このキム嬢は60年代のミニスカートに似た膝上までのワンピースらしきものを着ていた。残されている写真によるとその下からは素肌の膝小僧が剥き出しである。そして両足は包帯で巻かれていた。

一緒に写っているのはカール・ヨネダ軍曹だ。後ろ向きの彼とキム嬢が何やら話しこんでいる。

写真の彼女は、椅子らしきものに腰掛け、何だか非常に楽しそうだ。その横に座っている日本兵の緊張した暗い表情とは全く対象的である。

膝から露出している両脚だが、膝下あたりからむくみ気味、足の包帯の下から突き出ている足指の部分などにはかなりの腫れと皮膚の変色がみられるようだ。もちろん包帯の下の皮膚疾患がどのようなものであるかは全く知るよしもない。

 

前回のブログ、BURMA : Untold Story で紹介したように、ミチナ陥落直後の8月8日午前9時半頃、ヒラバヤシ軍曹がチャン大尉のところに報告に現れた。

著者は即刻ヒラバヤシ軍曹と他の二人の日系通訳を連れて捕虜となった慰安婦達に会いに行った。著者は彼女達から日本軍部隊の最新の動きに関する情報が得られのではないかと期待をよせていた。

 

有名な20人の慰安婦達の写真に納まっているアジア系兵士はこの四人であった。

 

捕虜になった時の彼女達の格好は、かなり人目をはばかるようなものだったらしい、MPが急いで見つけてきた服はサイズの会わないブラウスとだぶだぶのズボン、その上衣類には汚れが目立っていた、というのが著者の観察だった。

 

慰安婦達には年増の“日本人のママさん”が着物姿で付き添っていた。

 

このようにちぐはぐな服装で髪も身なりも全く手入れしていない状態にもかかわらず彼女達はまわりの兵達の目を惹きつけていた。

 

しかし軍隊を追うプロの女達特有の男に媚びる様子は微塵もなかった。

 

日本軍は慰安婦部隊を連れているというウワサは早くから耳にしていたが、これまで半分しか本当にしていなかった、と著者。

しかし、実際にその彼女達を目前にして信じざるを得なくなったとのこと。

 

著者は、日本軍の将校達と親密な関係にあった者の中に軍事情報を持っている者がいるのではないかと必死になって尋問を続けたのだが、まったく効果が上がらなかった。

 

朝鮮人慰安婦達はよくて片言の日本語しか話せなかった。

通訳の中で一番日本語がうまかったヒラバヤシ軍曹に、ミチナ守備の日本軍将官のフォトを見せて貰い、誰なのか一人ひとりに聞いて貰ったがさっぱり返答がない。その中でやっと、第114隊司令官の丸山大佐を言い当てた慰安婦が出た。

著者はこの慰安婦は丸山大佐と非常に親しい関係にあったのではないか、と直感したそうだ。

 

こういった有様だから尋問事態は次第に尻すぼりとなり、どちらかというと、相方とも黙りこみがちとになってしまったのだが、突然一人の慰安婦がママさんに話しかけたことから、堰を切ったように皆が大声で一斉に朝鮮語で叫び始めたそうだ。

 

年上のママさんは朝鮮語で慰安婦達に静かにするように命じ、将校であった著者に視線をまっすぐ向け通訳のヒラバヤシ軍曹に問いかけた。

この先どうなるのか教えてくれ、と。

ここからインドに送られ戦争が終わり次第そこから朝鮮に送り返されることになる、とチャン大尉の返答。

おそらくインドがどこにあるのか見当もつかないのではないか、とチャン大尉は心の中で思ったそうだ。

しかしそれを聞いた慰安婦達は少し緊張が緩んだようだった。またママさんにしきりに話しかけている。ママさんは、「私はこの子達に責任があるので」と言って、著者にくるりと背を向けた

その時、著者ととヒラバヤシ軍曹はこのママさんの着物の帯の下が異常に膨らんでいるのに気付いたのだ。まさか、この年で妊娠でもあるまい。

著者はヒラバヤシ軍曹に、おかしいぞ、何だろう、と囁いた。

ヒラバヤシ軍曹は、出来る限りていねいな口調で尋ねたそうだ。

ママさんはヒラバヤシ軍曹の明らかに居心地の悪そうな表情を反対におかしがっていた。

ママさんはゆっくりと帯を解いていった。

 

この子達に責任があるということは、この子達の稼ぎにも責任があるということなわけ、といっていくつかのきちんと包装された分厚いお札の束を帯びの下から取り出してチャン大尉の前に並べた。

この札束は、すべて日本軍の10ルピーの軍票だった。軍票というのは将来いつか日本政府が10ビルマ・ルピーを払うという約束手形であり本当の紙幣ではない。これが本物の日本紙幣であれば、軍事下の日本経済は統制不可能な超インフレに襲われ崩壊してしまったことは確実であった。

日本軍占領下のビルマで、この軍票に実際がどれだけ価値があったのか明確ではないが、日本軍のビルマ敗北で今は全くの無価値となった。

ヒラバヤシ軍曹がその事をママさんに説明したら、ママさんはとても信じられないという様子。

 

この無価値な軍票の山を稼ぐ為に、慰安婦達がどんなにつらいことを耐えて来なければならなかったかを考えると、胸が締め付けられる思いがする、と著者は 述べている。

 

ヒラバヤシ軍曹も同じ思いだったらしく、ママさんに、どうせ紙屑同然だから、札束の一つか二つを米兵や中国人達の記念品マニアに話をつけてチョコレートや食べ物、タバコと交換してあげるがどうか、と持ちかけると、ママさんはちょっとの間を置いた後、包み二個を差し出した。

そして残りの札束をまた帯の下にしっかりとしまい込んだ。その時慰安婦達の口からほっとした安堵のため息が漏れたという。

著者はこれについて、彼女達がこれをアジア的慣習の“上納金”と見なし、これで残りは安全だと信じたからだ、という観察を述べている。

 

チャン大尉は、とにかく一刻も早くこの慰安婦達一行をインドのレド英軍基地に移動させる事に決めた。チャン大尉によると、そこでミチナの慰安婦達を同盟国側の新聞が大ニュースにしたという。

 

彼女等がミチナを去る前夜、チャン大尉、ヒラバヤシ軍曹と日系通訳二人の四人組は最後に彼女等を訪問、その夜ささやかなお別れパーティーを開いた。

ギター片手のアジア系兵士達と彼女等はそれぞれの歌を交換、米兵士達はアメリカの歌、日本の歌を披露し、慰安婦達は、『アリラン』を皆で大合唱したそうだ。

 

チャン大尉は米国に帰国しスティルウェル将軍の口ぞえで情報局に復職、その後、太平洋戦線の情報管理を担当している。著者の慰安婦についての見解は以下である。

 

公式(=政府関係)の朝鮮人慰安婦記録は存在していないので、こうした憐れな朝鮮人女性が日本帝国軍によって強制売春をさせられた正確な人数は判っていない。推定では最高20万人にのぼるということだ。

彼女らのほとんどは貧しい農家の出身であり、1935年から1945年にかけて、憲兵隊を通して集められ、日本軍部隊が進軍したところには必ず彼女等が配属されていた。

数千人が戦闘に巻き込まれて死亡したが、日本の降伏後、連合軍によって朝鮮半島に帰ることが出来た。日本は彼女等に関する全記録を破壊して慰安婦を大日本帝国軍の歴史から取り除いたのだ。今や数枚の写真が残されるのみである。

 

慰安婦達は、『女子挺身隊』という見かけは立派な名目で組織された。彼女等は50人ぐらいで小隊を組み、その中で将官、下士官、下等兵士用に分けられていた。

これら慰安婦隊は朝鮮語を話す年増の日本人女性により率いられていた。慰安婦の内で病気、その他により本来の商売が出来ない者は、洗濯や兵舎の掃除などの雑用に使われた。

 

戦争を生き残った慰安婦達については何も追跡調査はなされていない。1950年から1953年の間にかっての日本軍慰安婦達が連合国軍相手に商売を続けていることが、連合国軍のリポートに記されている。沖縄でもかっての慰安婦達の存在が確認されている。

大多数の慰安婦達は恥ずべき過去を社会から隠す必要があった。その為に元慰安婦の追跡調査は困難であり、彼女等の戦後の運命については全くの推測に任せるより他はない。

 

 

追記:拙者のブック・リビューが 

“Untold story of forgotten battle WWII”というタイトルで

Amazon.Com に載っています。興味のある方はどうぞ。   

 

上のは有名な写真ですが、左端の米兵がチャン大尉、右端がヒラバヤシ通訳担当だとおもいます。このヒラバヤシ氏は2000年頃に二人の著者からインタビューに答えています。

 

慰安婦は若きものを必要とす by 麻生軍医

さて前回では 陸軍慰安所は清潔な共同便所、という麻生軍医のメタフォールが、医者として全く不適切であると私は書いた。
しかし、当時の日本では❝共同便所❞とは娼婦を指す卑語だったので、これは麻生軍医のオリジナルではない。
彼の真意は、どうしても我慢の出来ない兵士のみ、最後の手段としての慰安所を使え、というわけだったのだろうが、共同便所の持つコノテーションによってとんでもない誤解を生んでしまったようだ。
実は麻生軍医も他の軍上層部と同様に、皇軍の神聖不滅というハイスタンダードを信じ、兵士の戦場での残虐行為、レイプに関しては、戦場での一時的な規律の乱れとしてしか理解できなかったようだ。
 
麻生軍医は軍の輸送船で集団上陸してきた女達のことを、兵隊慰問に来た芸人だと思ったそうだ。上官から身体検査をするようにという命令を受けた時には、なぜ芸人の身体検査をしなければならないのか不思議に思ったそうである。
産婦人科だから検黴をするようにと言われ、どうして100人の売春婦が戦場に連れて来られたのか、と驚いたそうだ。
最初に100人のうち、内地は北九州からの女性が20人、この人達はプロであり、20才以上で年長は40歳だったそうだ。身体もそれなりに年を取り、明らかに過去に性病を患った痕跡すらあった。
残りの80人は半島出身。皆素人らしく、処女がまじっていた。
実はこの麻生軍医は召集前は博多の公娼の検黴もしていたので、若干30歳に満たないのに、いわばその方面のプロでもあったのだ。
 
当時、世界の軍事強国の軍隊にとって性病(=VD)は大きな問題となっていた。当時でなくても、米国では南北戦争時にも問題となっていた。兵士へのコンドムの配布は第一次世界大戦ではじまった。1930年代にはコンドムのマスプロダクションがスタートし、日本も欧米各国も兵士にコンドムを配布していた。
 
ネトウヨの中には、検黴を慰安婦の健康診断と誤解し、高給の上に軍は慰安婦の健康管理までしてあげていた、とカキコしていたのがいた。
 
検黴は下半身の視診にしか過ぎない。潰瘍及びしこり、膿み、悪臭をともなうおりもがあるかどうかなどを陰部を中心に肉眼でみるだけだ。中には、膣内に筒を差し込み、膣中の分泌液を調べる人もいたらしい。あの当時の衛生管理態を考慮すると、これは検黴する側も感染の危険をおかしていることになる。
ところで、陸軍では産婦人科医は希な存在。だからおかど違いもはなはだしく、まず、的確な検査はできない、と考えた方がよい。軍医がいなければ、衛生兵がすることになっている。もうこれは茶番としかいいようがない。麻生軍医は意見書の中で、この検黴を自分の欲望のはけ口にした軍医者・衛生兵がいることを告発糾弾している。
 
ところで当時もっとも恐れられていた性病は梅毒である。ペニシリン投薬が普及し始めたは1943年だから、それまで梅毒は体がこぶだらけになり、狂死する不治の病であった。この梅毒を診断するには血液検査が不可欠であるが、これなどはほとんど実施されていないのだ。後になって、麻生軍医は実際にこの血液検査をしたら慰安婦の50%が梅毒に感染していた、という結果を得て驚いたと、上海から上海へ、という彼の日記で述べている。
こんないい加減な検黴でも梅毒を持っている、判断された慰安婦は、だちに営業停止、サンバルサンまたは606号 と呼ばれた薬を注射されるのだが、サンバルサンは実は日本の科学者が発見した梅毒症状を抑えるもっとも効果的な薬だった。しかし人間に取っては猛毒である。値段も高価で、治療費は慰安婦個人にすべてチャージされた。営業停止期間の利益損失もチャージされたから、慰安婦にとっては泣きっ面に蜂だったはずだ。慰安婦の証言の中には、梅毒だと言われてすぐにサンバルサンというわけで、これを繰り返し注射された、というのがあるから、いかに彼女らが非人間的な取り扱いを受けていたか、理解できるはずだ。
 
 
上に引用した文だけでなく麻生軍医意見書には医者として全く不適切な箇所が他にもある。
 
サレバ戦地ニ送リコマレル娼婦ハ年若キモノヲ必要トス
慰安婦は若いコを。
その根拠は、年齢が若いほど性病感染率が低下するからだそうだ。
しかし、年齢別娼婦の性病感染率は客数の数に比例するのが一般的である。15-16歳の売春婦はなりたてであるから、感染率が低いのは予想できる。しかし、16歳でも15歳でも感染した客と無防備にインターコースすると、感染してしまう。だから年は関係ない。敢えて主張するなら、慰安婦は非感染者であることがまず第一条件ということになる。ところが、性病感染は当時の売春婦の職業病だから、いずれは皆感染してしまう。ベテラン娼婦が不妊症なのは生殖器感染の結果であるというのが何よりの証拠だ。だから麻生軍医のこの主張はおかしい。共同便所の慰安所には慰安婦の年など関係ない。
戦場での集団レイプの特徴は被害者の年に関連性がないということなのだ。老いも若きも女性なら皆被害者になった。これは南京レイプでもコソボのエスニッククレンジングでも同じだ。
 
 
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もしも麻生軍医がかっての若き慰安婦達が年老いてこのように日本軍の非道を糾弾するのを予知していたら、慰安婦は若いコがええで、なんて書かなかったはずだ。

慰安婦の便所からの解放と麻生軍医

随分昔のことを持ち出して申し訳ない。
今は昔、都内の新左翼系の大集会であるビラを手渡された。見出しは、
❝便所からの解放❞
何でも ‟グループ闘う女” という名のウーマンリブの方々から。
 
女は慰安婦、男の公衆便所、セックスのはけぐちか飯炊き洗濯女』
 
私が慰安婦という文字を目にしたのはこの時が初めてでした。しかし、巷では慰安婦とは日本軍につきまとった商売熱心な水商売のお姐さん方だとウワサされてたので、ビラを読んでつい笑ってしまいました。もちろん慰安婦は日本人のみと思いこんでいました。だから当時の私のオツムはネトウヨ並ということに。
 
ところで、『慰安所は共同便所』、という似たようなキャッチフレーズと自ら改良した慰安婦検黴台で世界中で悪名を馳せたのは、元陸軍軍医の麻生徹男氏。
世界中で、というのは嘘ではない。千田夏光に受けた汚名を返上、とばかりにネトウヨと彼の娘さん達が当時の陸軍に提出した彼の意見書を英訳してしまった。 しかし、共同便所は、shared toilets と訳され、返って逆効果になっている。
 
 
1973年に出版された千田夏光氏の従軍慰安婦には、麻生氏の 『花柳病ノ積極的予防法』という1939年に帝国陸軍に提出した意見書が全文収録されています。
これがなければ、夏光氏のルポ本の信用度はかなり低下したはず。
 
軍用特殊慰安所ハ享楽ノ場所ニ非ズシテ、衛生的ナル共同便所ナル故、軍ニ於イテモ慰安所内ニテ酒類ノ禁止サレアルノハ寧ロ当然ノ事ナリ。
 
上の引用は、陸軍への意見書の第四項、アルコール飲料禁止について、からです。
軍用特殊慰安所というのは陸軍が直接運営監督する慰安所のことです。
千田氏によれば麻生氏は性病感染防止という立場から、この軍用特殊慰安所の推進者だったとされています。
所要時間は30分、各兵は指定されたルームでまず陰部を洗浄、コンドームを着装、行為終了後、再び陰部を消毒液で洗浄し、殺菌クリームを尿道に挿入、となるのでかなり忙しい。
しかし私は当時の米陸軍の新兵向けの性病防止の為の教育映画を見ましたが、米側のはもっと厳格、インターコース(=セックス)終了後、近くの予防ステーションで局部完全洗浄から防止薬を尿道に注射器で挿入し、時間をおいて再洗浄と、少なくとも30分以上はかかる。そのステーションンには衛生兵が24時間待機し兵士を監督していました。
 
アルコール(酒)摂取は一時的な脳の機能障害おこす。外見からは正気を失った状態=delirium、に見える。症状として性欲の解禁がよく知られている。だから酒の勢いで女を買いに行く男や、人前でストリップを始める女が出てきたりするわけです。同時に手足の動きが鈍くなるので、インターコースも当然長くかかり、分刻みの慰安所には全く不適切。正気ではないから、奇声を発したり、暴力モードに突然早変わりするので、迷惑千万。当然ながら、麻生軍医は慰安所での酒禁止を主張しておられます。
 
史上初の日本帝国陸軍直営の慰安所がオープンしたのは、1938年、あの世界中を震撼させた南京大殺戮の直後ということになります。
しかし、この軍直属の慰安所は失敗に終わったのです。価格は2倍、時間は短い、気に入った娘が選べない、兵士達は、どうせ死ぬんだ、と梅毒蔓延の地元の娼家に流れて、結果的には性病防止効果は上がらず、慰安所には閑古鳥が。麻生軍医が力を入れた陸軍初の軍用特殊慰安所は一年足らずで閉鎖され、半官半民、つまり陸軍の規則には従うが、日本人や朝鮮人が経営する民間経営の慰安所が一般的となっていったわけです。 というわけで、変なところで自由
競争のキャピタリズムが勝利しています。
 
慰安所が共同便所なら、慰安婦は便器か。
事実、戦後の進駐軍は日本の敗戦処理政府が設置した慰安所の慰安婦を、YELLOW  STOOL(=黄色の腰掛便器)と呼んでいた。
 
しかし私は思うのだ、。麻生軍医のメタフォール、慰安所=共同便所、は医者として全く不適切な表現だ、と。インターコースは排泄ではない。オルガスムス(=orgasm)を伴う生殖行為である。 しかし、インターコースの目的はオルガスムスを得ることである。
 
しかし、排尿、排便ができなくなると、人間は死に至る。
だが、インターコースをしないということが人間を死に至らせるだろうか?その医学的証拠は今日に至るまで皆無である。
 
残留日本兵として有名な、小野田寛郎さん、横井正一さんは、少なくとも25年はインターコース無しで生きている。
小野田寛郎は、ルパング島で略奪、殺人、放火と、あの三光作戦もどきを元部下と二人組で実行してサバイバルしたのだが、レイプだけは報告されていないのだ。
また、日本人は一般的に西洋人は性欲が旺盛だ、と信じているようだが、中世には多くの男性は僧院をめざした。修道僧は一生不犯。ヨーロッパ中世が暗黒時代と評価されるのは、多くの優秀な男性が僧院で聖書をコピーしながら一生を終えてしまったからだ、という歴史家もいるくらいだ。
十字軍で活躍したテンプル騎士団は一生不犯を神に誓った僧侶の軍団だった。
一生インターコースをしない事はむしろ神に気に入られる事だった。
 
ところで麻生軍医自身も人間はインターコースしなくても生きていけると考えていた。
 
禁欲ハ有害ナリト言う者アリ。彼ラハ性欲禁止現象マデ羅列シ、ソノ有害ヲ説ク
日本人には上の説の信者が非常に多い。
 
禁欲ガ有害ニシテソノ結果、生殖衰弱神経症ヲ起コシ摂護腺腫大ヤ所轄,色情性副睾丸炎等ヲ惹起セシ実例ガ果タシテ幾何アリヤ。
 
そういう人達が列挙する3つの症状とは
 
生殖衰弱神経症とはインポテンツ、多くは年齢に関係している。
摂護腺腫大は、前立腺肥大のことで、今日、年長者男性の多くに見られる。
生殖衰弱神経症とはインポテンツ、多くは年齢に関係している。
摂護腺腫大は、前立腺肥大のことで、今日、年長者男性の多くに見られる。
色情性副睾丸炎は、睾丸上部の炎症で、原因は黴菌侵入であるから、むしろインターコースが介在している可能性がある。
 
慰安所を共同便所とする彼のメタフォールは、賤業と呼ばれた公娼を見下しバカにするのが目的で、医学的メリットが全くない。それどころか一般人の誤解を招いている。